妹の夢
予想が灯る。弱弱しい灯りだ。頭の片隅に追いやられた兄への絶望感が、ごうごう燃えてケシカスになるのは時間の問題かもしれない。ただ、灯った小さな火は、希望を照らすことはなく、まだ真っ暗闇には何も新しい感情が生まれない。
放課後になっても、美南はクラクラして、日直の仕事をするにも時間がかかった。気がつくと教室で一人、日誌を書いていた。
幼い頃、兄と体験した惨劇の模様がフラッシュバックし、机に伏せて呻く。
夢を見る。
真夏の蝉時雨を浴びて、美南は立っている。リアルな輪郭を持つのは、自分がかつて住んでいた白い家のドアだけで、他の風景は油絵みたいにおぼろげだ。足の裏が、茹ったアスファルトを踏む感覚は、ない。不安も、戦慄も、煮詰まった憎悪も、忘れている。何も考えずにドアに手を伸ばした途端、行っちゃだめだ、と誰かが叫ぶ。ドアを開ける。やめて、と悲鳴が甲走る。
半分ドアを開けたところでしばらくモーションが止まり、どしゃ降りの蝉時雨を浴びて俯く。ジジジジ、ミンミンミン。紺碧の青空が押し潰そうとしてくる。やっと怖くなって、玄関に飛び込む。
水溜りよりもっとぬかるんだものを踏んで、視線をさっと下げると、赤い海が広がっていた。自分に分け与えられた、血だ。両親の血。まっすぐ伸びる廊下を目で追う。母が倒れている。父が腕を投げ出して横たわっている。死んでいる。
もう、五年の前の話だ。
『俺は知ってるぜ、どれが隠されていて、真実が何処にあるのか』
兄さん。もしかして、覚えてる?
やあ、という軽快な挨拶を浴びせられ、美南は飛び起きる。息つく間もなく過敏に振り向くと、仰け反った古賀が苦笑している。
「大丈夫? 昼過ぎから体調悪そうで、心配していたんだけど、家まで送ろうか?」
手が、肩に置かれている。眠っていた自分を不審がって揺り動かしてくれたのか、いや――古賀は手を離さない。美南は曖昧に返事をし、額の汗を拭って日誌を書き進める作業に戻る。古賀の手の体温は依然として伝わったままだ。普段めったに人に触れる機会のない美南にとって、ある意味では、おぞましい感触だった。肩越しに、ガタガタの文字で綴られた日誌を見られそうになると、慌てて腕で紙を覆い隠す。古賀は静かに笑うのみだ。
「クールなところがいいと思ってたけど、意外にも、恥ずかしがり屋なんだね」
耳元の囁きから逃れたい。背筋を指でなぞられるような、気分の悪さを感じた。
危機感に煽られて、立ち上がると、首筋を男の手が掠める。弾かれたみたいに振り向くと、無邪気とは到底言えない男の平たい視線がまとわりつく。汗が引かない。
「いつも」古賀は顔に笑みを貼り付ける。「隣町の駅前のカフェテリアで、パソコン打って何してるの?」
店名を告げられる。美南は沈黙を保つ。
「カフェからの帰り、週に二回は必ず駅前の本屋に行く。文庫本や、参考書だけじゃなく、法学や政治のコーナーもよく回っているよね」
逃げた方がいい、と内側の自分が叫ぶ。夢の中で必死に引き止めようとした声と、同一人物だろう。咄嗟に掴んだ、机の横にかかる鞄には、命より大事なノートパソコンが入っている。私よりもこいつを、という気持ちだった。
「家に帰るのは大体、夜の六時から七時。ウィンドウショッピングに夢中だった先週の火曜日の夜は、八時過ぎだったかな?」
「そうだっけ?」とぼけてみせるが、身体は正直に熱を上げていく。
「あまり遅いと、危ないよ」
度が過ぎるストーカーを前に、ときめいた訳では断じてない。既に日誌の存在は忘却の彼方だ。あからさまな態度で拒絶を示すだけでは古賀の動きを止められるはずもなく、机に折り重なる影たちは暫し睨み合う。
「いつから私をつけていたの」
「今年の初め、進級する前、君が颯爽と街を歩いていたのを目撃したときだ。可愛いなって、思った。一緒のクラスで、しかも後ろの席になって、嬉しかったよ。俺、最高にツイてるなって」
「捨てたもんじゃなかったんだ、自分」美南は笑おうと口角を上げるも、引き攣った。「激しい雨風を伴っても、春は来る」
鞄を抱えて逃げ出す。待てよ、と古賀が怒鳴る。待てよ、待てよ、と繰り返し、壊れたスピーカーの如く叫喚する。机を押し退け、身体を左右に揺らし、捕まったら死ぬぐらいの気持ちで危機一髪で教室を飛び出した。ダメ元でドアを勢いよく閉めてやると、引き締まったバスケ部男子の身体がプレスされ、指先が美南の髪を掠める。
逃げなくては、しかし階段を駆け下りて助けを求める時間なんて、ない。傍の女子トイレのドアを開ける。個室に飛び込む。リノリウムの床が汚いのを承知で、なよなよと座る。頭の中で、背中にぶつけられた「待てよ」が増産され、リピートされ、がたがた震え出した。
女子トイレの出入り口はドア式だ。ほとんど人の残っていない夕方五時、様子を窺がって男子が女子トイレに入るなど造作もない。知らず知らず息を殺していたので、咽かけた。気合で飲み込むと喉が軽い爆発を起こし、呻きそうになるのを寸でのところで耐える。
己人が。
この頃、やたら街中で自分を追い回していたのは、まさか――。そんなはずは、とかぶりを振っても、どうも否定し切れないところまで来てしまった自分が憎い。己人のターゲットが正確には美南ではなく、古賀だったとしたら。何らかの情報で妹がストーカー被害に遭っているといち早く知り、ストーカーを近づかせないためにあえて美南の周囲をうろついていたのだったとしたら……。
考えすぎだ、と切り捨てられなかった。
会社を辞め、幼き頃に誓った悲願を達成しようとする姿勢も見せず好き勝手に生きる兄に、裏切られたと思ったのは確かだ。兄がどんどん自分から、そして本当の両親から遠ざかっていくのが、心苦しかった。憎悪の呪縛から解かれない自分を置いて、自由奔放な人生を進んでいかれるのが、納得いかなかった。
美南を生かしたのは、己人だ。絶望と、深い深い谷底より深い悲しみに打ちひしがれた美南が、自ら命を絶つことを避けて高校生にまで成長出来たのは、己人が差し伸べてくれた手を、心の中でずっと握ってきたからだ。
「俺はいつか、親父とお袋を殺した犯人を、葬り去る。一緒にやるか、美南」
忘れたことは一度だってない。
間違いだとしても、結果次第で重罪を犯すことになっても。惨殺された両親の仇を討つために――それが、美南のあらゆる行動の原動力になっている。己人がつけた命の火だ。いつか必ず、犯人と、自分たちの都合で事件の真相を闇に葬った、この国ごと叩き潰す。次元が違いすぎる、馬鹿な野望だろうか。馬鹿だと呼ばれてもいい。悲しいと言われても仕方ない。だけど、果てしなき情報収集が、絶望から這い上がった美南の生きる理由そのものと化している。
これも青春。腐り切った青春の階段を音を立てずに上がって、上がって、平穏を謳った世界を打ち破る。
復讐者の片割れの名を――己人の名を、強く名前を呼んだ。己人の電話番号は、彼の落ちぶれた生活に失望した際に一方的に削除していた。
ファミレスの話には続きがある。
男女が消え、ほとんどもぬけの殻になったテーブル席に、ウェイターがコーヒーを置いていった。パスタを食べていた己人の目が光った。
彼は口をもごもごさせながら、テーブルの隅のタバスコを持って立ち上がり、蓋を開ける。そして男女のコーヒーにタバスコを垂らす。絶句した美南を他所に、平然と席に戻った己人は、してやったりという顔をした。またかこの人は、と美南は、鼻歌を歌いながらパスタをフォークで巻く兄を、宇宙人を見る目で睨みつける。
男女はほぼ同時に戻ってきたが、偶然のタイミングだったようだ。両者共に黙りこくっている。喚いても無言でも、雰囲気が最悪なのに変わりはなく、確実にこの二人は店のブラックリストに載るであろう。
やがて、男がコーヒーを口にする様子を視界の隅で捉え、美南はヒヤヒヤする。己人はニヤニヤしている。
「な、何だこれ!」予想通り、男が噴き出した。己人も噴き出しているのが聞こえないよう、美南はわざと音を立ててコーヒーカップを置いた。
「おい、お前がやったのか!」
「どういう意味よ」
「このコーヒー、辛いぞ」
「何、おかしなこと言ってるの」女は軽くあしらい、自分のカップに口をつける。これまた予想通り、ぎょっとする。「やだ、ひっどい! どうして?」
「ウェイターを呼びつけよう、この店はなってない」
「ええ、お願い」
なってないのはお前たちの管理じゃないのか。
無意味な悪戯が大好きな己人は、自ら「影のムードメーカー」を名乗るときがある。確かに彼の悪戯は、陰湿というより単純明快で、必ず場の空気を変えるのが常であった。
何の罪もないウェイターがお叱りを受けている横で、ようやく運ばれてきたドリアを食べるのはあまり気持ちよくなかったが、それ以来、男女は喧騒を起こさなかった。変わり者の兄のおかげであると知っているのは、美南だけだ。
何事もなく食事を終え、会計を済ませる。客が少ない店だったからか、悪戯はバレずに終わった。店の外に出て開口一番、「一番単純なのは、あいつらだったな!」と己人が馬鹿じみた大笑いをする。しっ、と指を立てて忠告を促すも、この男にひとたび「楽しさ」が沸き起こると止めるのは難しい。
「あのさ、兄さんってさ、決して性格いいとは言えないよね」
「目に見えないところで、世界は知らず知らず回っているもんさ。その、見えない影の世界を回す男になるぜ、俺は」
何処まで本気で言っているかまるでわからない。車のキーの犬のストラップに指を入れて、くるくる回しながら満足そうに宣言する己人に、声を潜めて訊ねる。
「犯人を捕まえて、国の偉い人たちに逆襲して?」
「ん。時間はかかるが、不可能なことはねえよ。この俺が言うんだぜ? 間違いないって」己人の、少年っぽさの残る明眸が閃く。「ムードメーカーは、場の空気を変える。それも、影のムードメーカーとなると、時にはストーリーの展開を読んで、暗躍して、理想のオチがぴたっと填まるように裏側で下準備をしなくちゃならねえ。虎視眈々と目を光らせてな。ついでに情報のアンテナも張って。その場のノリでムードを逆転するばかりが、ムードメーカーの才能じゃねえぞ」
「元来のムードメーカーの意味から、だいぶ遠ざかってるけどね。兄さんは暗躍ムードメーカーだ」
何気ない美南の一言に、己人が指を鳴らす。
「いいね、暗躍ムードメーカー。そっちの方が分かり易いや。美南プログラムの脳内検索結果、採用してやろう」
鞄から白いノートパソコンを取り出し、スリープモードを解除した。静寂の女子トイレの個室内に、視界を覆う眩さが溢れる。慣れた手つきでパスワードを入力する。迷っている暇はない。信じる、などと美化された思いを寄せるのではない、あくまで「賭ける」のだ、と言い聞かせる。
パソコンを見るときの美南は、獲物を逃がさない鷹の目そっくりだ、と義母が苦笑していたのを思い出した。お母さん、こんな復讐心にまみれた娘でごめんなさい、と胸の内で激しく落ち込む。すぐに気持ちを切り替えて、今度は兄の顔を思い浮かべる。頭が兄の楽しそうな顔でいっぱいになる。トイレの外から迫る足音が、心臓の鼓動とシンクロした。
洋式便器のフタを閉めた状態で座り、膝にパソコンを置いてキーボードを叩く美南の姿は、義母の言う通り、物静かな少女から覚醒したそれなのであろう。十本の指がキーボード上で一切無駄な動きをせず這い回る。手入れされた爪先が、液晶を反射して青白い光を宿す。そうして希望の光を突き止める。
カフェテリアで、いつも何をしているのかって? このパソコンのフォルダや、インターネットの検索履歴を見せられた古賀が真っ青になるのが、安易に想像がつく。
足音がトイレの前で止まる。美南は目を側める。画面に表示された電話番号をスマートフォンに打ち込み、耳に当てる。コール音が重なる度に、自分の鼓動の音が周囲のすべての音を掻き消していった。お願い出て、兄さん。目を閉じ、奥歯を食いしばる。
ばん、とトイレのドアが破られた音が響く。興奮し切った息遣いは、明らかに古賀のものだ。「梶さん」と、粘ついた声が女子トイレに木霊し、個室に身を潜める美南は、怖気を震った。
「俺、何も間違ってないよね。だってこれも一つ、愛の形だ。俺なりの愛の示し方だ」上擦った声音から、きっと勝利を確信しているのがわかる。
「そうだな、上手くたとえるなら――これが俺の、正義ってやつ」
待った、と誰かが言った気がした。
正義と聞いたら、黙ってられないな。
コール音が止んだ。
「こちら、暗躍ムードメーカー。何かお困りですか、ハッカーのお嬢さん?」
シャボン玉みたいに軽快で、逃がしたらまた何処かへ行ってしまいそうな声だ。けれど腹の中に沈み込んだ美南の脆い部分を包み込もうとする――正義の味方に、借りを作っても、いい気がした。
「古賀くんのムードを、兄さんのムードで染め上げちゃって!」
外で、古賀の狼狽する様子が聞こえる。続けて鬼の笑い声が、銃弾となって、美南諸共撃ち抜くのだ。
「これが俺の正義、か。立派な使い方をするんだな。けど、一方的にストーカーするよりも、もっと美南と仲良くなって、正々堂々と告白して付き合った方が絶対楽しかったろうに」
「お、俺は、片思いでもよかったんだ! だから……」
「じゃあ何で、逃げる美南を追いかけて女子トイレに侵入するなんて変態じみた行動に出た? 本当は、美南をものにしたかったんだろ。どいつもこいつも、目の前のこと一点にしか見えてなくて、雁字搦めになってる。自分で自分の首を絞めているとわからずに、苦しんでる奴らばっかりだ、今のご時世。だからみんな、悪い方向に狂っていく」
聞いていた美南は、パソコンを鞄にしまう手を止める。古賀に対してでなく、自分に言われている気がした。
「それじゃあ、だめだ。だめなんだよ」
「あんた、おい、さっきから何言って……」
「何事も楽しまなくちゃ」はっとして、ドアを内側に引くと、「どんなに立派な正義も、油断してると叩き潰されるって! 大人になって俺ぁ気づいちまったんだよ!」
成長期の男子高校生の身体が、顔の前を横切る。
それはトイレの奥に背中を打ち付けると、仰け反るような体勢のまま、前に倒れる。大きな運動靴が、タンッ、と床に振り下ろされる音は、
「俺みたいに、自分の正義に誇りを持てば、これからきっと上手くいくからよ」
事態の終焉を合図した。「今からもっと青い春に、塗り替えろよ」