兄の宣言
美南が中学生の頃の話だ。己人は大学生だった。
当時から己人は、現在の両親とそりが合わず一方的に家を出て、一人暮らしをしていた。まだ兄妹の連絡先が通じ合っていたその頃、己人の提案で、夜に外食することになった。
駅前のイタリアンレストランに入った。年長者が奢るという自ら約束を取り決めたくせに、比較的安い店を己人は選んだ。
窓側のテーブル席につき、注文をつけて料理を待った。
「こんな早くからご飯食べたら、あとでお腹すきそう。まだ五時だよ」
ショートカットにイメチェンしたばかりの美南がそう零すと、「じゃあ夜食を食えばいいじゃん」と平然と返ってくる。
「女の子に言う台詞じゃないから、それ」
「体重とか髪型とか気にしたってな、お前の春はまだ来ねえよ」
「うるさいなあ。デリカシーない、兄さんのオタンコナス」
「オタンコナスって略すとタコスにならねえ?」
だが、現に己人の指摘は当たっている。全身にこびり付いた血の匂いと、果てしない絶望感を重んじる方が優先してしまって、結局、美南が気を引きたい男子などいなかったのだ。
そのとき己人が不意に寄越した暗い眼差しを、まだ覚えている。
隣のテーブル席で、若い男女が口論をしているのに気づいたのは、会話が途切れてまもなくしてからだ。口論は徐々にヒートアップし、公衆の面前で言ってはいけない台詞まで飛び交い始め、周辺の誰もが耳を塞ぎたい衝動に駆られていたに違いない。
「何度も言ったじゃん、あたしはまだ嫌だって。仕事あるし、子育ての前にやりたいことがたくさんあったのよ。なのに、アンタって人は」長い髪を巻いた女は、厚化粧のくせに肌だけやたら白かった。
「結婚を前提にお付き合いをしましょうと持ちかけたのは、お前の方じゃないか」天然パーマの美容師風の若い男が、唾を飛ばした。
「すぐ子供を生もうとは言ってなかったはずよ。結婚を前提に、ってフレーズで迫れば何でも許されるんだって、思ってるのね」
「言いだしっぺが何を! 大体あのとき、誘ってきたのもお前だった!」
「まだゴムが余ってると思ってたのよ! ないなら、ないって、やる前に言ってよ!」
己人が頬杖をついて囁く。「ありゃひどいな。どうひどいとは説明しづらいが、とにかくひどい」
「出来ちゃったの? 子供?」
「だろうなあ。あんな状態の夫婦の間に授けられた腹の子が、可哀相だぜ」
そのうち女が泣き出し、男はフォークを叩きつけて同時に去ってしまう。トイレの方に。女はハンカチを顔に当てていたが、はっとした顔で戻ってきて、自分のバッグを引っ手繰るとまたトイレへ駆け込んだ。
「恥ずかしくなったのかな。それとも、お化粧直し?」
「いや」ウェイターがコーヒーを運んできて、立ち去ってから、己人は薄笑いを浮かべる。「アレだ、浮気相手に電話するのかもしれないぞ」
「女の人、浮気してるの? そんなまさか」片眉を下げながら美南は、ミルクを一つ、シュガーを二つ入れる。「どうして何人もの男の人を、好きになれるのか、私にはわからないよ」
「わかる女になったら、面白いけど、最低だぜ」
当時から己人がどれだけ女性関係を持っていたかは謎に包まれている。ただ、将来のヒモ男にぶつける適切な質問でなかったことは確かだ。己人は鼻を広げる。
「ありえるんだよ、大人の世界では。高校生ぐらいでも同様のことをしてる奴、いるんじゃねえか?」
「うそ。何かそれ、やだよ。罪悪感とか、ないのかな」
お前が言うか、と責められるかと思ったが、己人は喉を鳴らして笑うのみ。
「この世に悪者は星の数ほどいるんだよ。世の中の悪事ってのはイコール犯罪を指すばかりじゃない。たとえば、身ごもるはずのなかった子供を中絶手術で殺す、とかな。しょうがない、なんて理屈っぽく言い訳を並べ立てたって、いいこととは到底言えないだろ。世界はそんなものばっかりで溢れ返って、何がいいのか、何が悪いのか、わからなくなってる。それに準じて、みんな、好き放題やるのさ」
「じゃあ、私たちも悪者だよね」
頭ではわかっていても、いざ口に出すと、見えない手で肩を鷲掴みにされたような重圧感に苛まされる。
「どうしてそう思うんだ」
「だって、決して正義とは言えないことしてるよ、私たち」
カップに口をつけ、唇についたコーヒーを舌で舐め取る己人は、にやっとする。
「正義ってのは、噛み砕いて言えば、自分が正しいと感じたこと全般を指したものだって俺は思う。誰にも曲げられない自分の中の信条や目的、って言った方がもっとわかりやすいかな。ヒーローが悪者を倒すのは、平和を脅かす悪を撲滅することがヒーローにとっての正義だからだ。逆に、悪者が、ヒーロー気取る連中を討って野望を達成させてやる、そのためなら何度倒されてもめげずに立ち向かってやる! って、我武者羅に当たって砕けるのも、これまた正義だ」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
美南は驚いた。「でも、ヒーローは、正義の味方だってよく言うじゃない」
「はーん」己人は馬鹿にした風に手を上げる。「ヒーローってのは結局、喧嘩の強い平和主義者なんだよ。正義の味方なんてかこつけて、自分たちの活動を正当化しているだけさ。正義は、必ずしもラブ&ピースの意味で使われる訳じゃねえよ」
人差し指を立てて、軽くタクトを振る。「たとえば、貧しい家族を養うために村を襲って食べ物を略奪しました、っていう悪者がいたら?」
美南は少し迷ってから、「あっさり倒しちゃうのは、気の毒かも」と答える。己人は椅子に腰掛けるのを深くし、リラックスした面持ちになる。
「うん、だよな。だってよお」評論家のような口ぶりだけど。「見ず知らずの村の人間より、愛する家族の救おうと考えるのは、大抵の生物が本能レベルで至極真っ当なことだ」彼の主張が正しいか否かはさておいて、彼の話は人を惹きつける力がある。「周りの誰もが、汚いやり方を否定しようとも、そいつは自分のやるべきことが全面的に間違っているとは思わなかったから、貫いたんだ」自信に満ち溢れ、しかし傲慢な態度ではなく、「立派な正義の味方だよ」どんな相手の舌にも合うよう砕かれた物腰がある。暢気にすら感じられる。
そして何より、己人はいつも楽しそうに話す。芯の通った口調が、相手の胸に上手く入り込んで打ち、思わず傍耳を立てたくなる。存在自体に、力強いインパクトがあるのだ。少なくとも、誇れる兄ではあったのだ。
「兄さん」
「何」
「人生、楽しい?」
「最高だね!」
この頃ずっと、精神をバイブレータの如く絶えず震わせていたせいか、疲労感がたぷたぷと身体を蕩揺している。肌寒さが日に日に増していき、誰も見えない傷だらけの身体に滲みる。ブレザーを着込めば教室内は寒くなく、むしろひしめき合うクラスメートたちの体温が、室内温度を上昇させてくれる。騒々しい昼休み、美南は一人、うとうとしていた。
「何だか疲れた顔してるね、梶さん」
ひらり、と手が振られる。蝶と見間違いそうなほど軽快な仕草が、視界の端に映り、思案に耽っていた美南の集中力を微かに殺いだ。
ゆったり顔を上げると、二重瞼の男子生徒が歯を見せて微笑んでいる。古賀くん、と名前を呼ぶと、彼は後ろの席に座る。
「ずっと聞きたかったんだけどさ、何か悩んでたりする?」
率直な質問も躊躇いなくぶつけてくるのが、この男だ。
「別に……」相手の機嫌を損ねるのは面倒で、当たり障りのない返答を、当たり障りのないトーンで言う。今年同じクラスになってから、真後ろの席の古賀だけが、美南に積極的に話しかけてくるのだ。古賀自身、美南にある程度の好感を持っているから気軽に接してくるのだろうが、却って美南が心のベールで自分を覆い隠そうとしてしまうのは、恐らく彼は気づいていない。
「君にも事情があるだろうから、しつこくしないけど。ちょっと気になるんだよね。ただでさえ梶さんって、何ていうか」古賀は顎を指で撫でる。「影があるからさ」
「影? って、どんな?」
「うーん……心の影というか」大幅にズレてはいないが、的を得ている訳でもない。「俺たちが常日頃考えていないようなことを、考えているんだろうなって思うよ」
「そう」肩をすくめる。
「あ、ごめん、気を悪くさせるつもりはなかったんだ」手を合わせて頭を下げる古賀の仕草が、お坊さんみたいで面白かった。くすりと笑うと、古賀はくすぐったそうに笑い返す。
「君の笑うところって、なかなかレアだ。舞い上がっちゃうよ」
友好的に接してもらっている身なのに、我侭なのは承知の上だ。けれど、古賀との時間は、物足りなさを感じる。古賀から更なる友好的な思いを寄せられたいのではない、ただ、彼自体にあまり興味が沸かない。座ってもなお見上げるほど、長身で、なかなかにかっこいいルックスの持ち主だ。多少のユーモアがあって、少年らしい仕草は魅力的だと思うし、荒々しい肉食系男子が多いイメージのバスケ部所属とは想像出来ないほど落ち着いている。包容力のある、俗に言う「いい人」なのだが――言うことすることに、己人のようなアイロニーがない。代わりに、自分と接するときだけ声と表情に色香を匂わせる。
はっとする。途端に、古賀への意識が散漫し、自己嫌悪に陥る。首筋から、こめかみまで、顔全体に険しい表情が出ないよう力を抜こう抜こうとする。強張ってしまったら、最後だ。別に古賀に対してではない。男に限らず他人のひととなりを見ようとすると、自然と、兄を比較対象に出してしまう癖が未だに直せていない自分に嫌悪したのだ。
授業開始の鐘が鳴り、教室のドアが開く。え、と上擦った声が出た。頬骨が歪んだ。
眼鏡をかけた見慣れない教師が、大股で教室に入ってくる。教科書も持たず教卓の前に立つ。先ほどまで騒がしかった教室が、しんとする。当たり前だ。ただ一人を除いて、誰も知らない一般人が学校に紛れ込んでいるのだから。
「授業しまーす!」
皆が不思議そうに顔を見合わせる中、自分だけ、どっと汗を噴き出してしまったのを、古賀くんにバレませんようにと強く願う。ボロボロのベージュのロングジャケットに、茶色く染めた短い髪、あらゆる人間の視線を惑乱させる眼光――直視出来ないが、紛れもなく己人だった。目を泳がせる美南に対し、己人は満足げにクラスを見渡して、「突然ですがマスメディアのお話をします」と胸を張る。チョークを指で器用に回す割に、黒板に書く気配はない。
生徒を静めるために手を叩く代わりに、己人は連続で指を鳴らす。ぱちん、ぱちん、ぱちん、ぱちん!
「えー、現在、国の人口は約一億二千七百万人です。で、テレビでいう視聴率は、人口一パーセントあたり大体百万人を示すと言われています。つまり、百万人が視聴率一パーセントの瞬間、その番組を見ているって計算になりますね。しかし――テレビを見てればトイレに行きたくなる。宅配便が届く。テレビなんてガン無視で、親とくっ喋っているときがある。誰も番組を見ていないのに、テレビが一人でついてるって状況も含めて数値化するのが、視聴率だ」
生徒たちは、ぽかんとしたままだ。美南は、顔から火が出そうなのを懸命に堪えた。そもそも教員免許のない己人が、どんな手段で学校に潜りこめたのかがまず疑問だ。
「ていうか、お兄さん、誰? 臨時教師とかじゃないよね? 明らかに不審者だし、先生呼ぼう……」
「新聞だってそう、そう、そう!」
言葉尻を、己人のきっぱりした声で押し潰された男子生徒は、苛立ちを紛らわすように顔を背けて、舌で歯をなぞる。
「昔から新聞社は、全部がとは言わないけど、情報不十分のまま記事を作ってで世間を騒がせてきた訳。メディアってのは、情報発信するのが仕事なくせに、得た情報を丸ごと発表せず、厳選するんだ。で、NGなところは切り捨てる。俺は知ってるぜ、どれが隠されていて、真実が何処にあるのか」
がりっ、と己人が口内を噛んだ、気がした。美南の胃が跳ね、息を吸った。
「お前らもさ、安易に情報を鵜呑みにするなよ。事件や犯罪ってのは、現場に直接遭遇しない限りニュースを頼りに知るしかないんだけどさ。何でもまずは疑ってかかれ。それだけで救われる人間がいる」
「……ナニ言ってんだこいつ」
ネクタイを胸元まで下げた男子生徒が、聞こえよがしに口にする。便乗して、ロングヘアーのギャルが噴き出す。
「うるせえぞ、そこ。真面目な話、真面目な話!」己人は二、三回、指で突く真似をする。
「てかさ、うちら世の中の情報? 真実? とか、どうでもいいんだけど。面白いニュースなら嘘でも真実でも、どっちでもよくね? だって、新聞記者でもないうちらには、本当のことなんてどうせわからないんだから」
「もし残酷な真実があったとして、わざわざ一般人の俺たちに曝け出したところで、ドン引きするだけっていうか。それ以上にも、それ以下にもならないよ」
「そうそう。メディア批判したって何も変わらないと思いますよ。記者の方が余程世の中を知っていますし、事例によっては、一般人の目に触れてはいけない情報を厳選してくれている、と褒めた方が正しいんじゃないですか? それこそ報道を頼りにしなければ、世の中の流れや、問題とされている事柄を知れないのは、貴方も一緒でしょう。偉そうに説教出来ないのでは?」
「何様だよ」ぽつりと呟いたのは、己人だ。「次は誰かがそう言うのか?」
激昂は前触れなく来た。「馬鹿にすんなよ!」
怒声が、教室の壁という壁にぶち当たり、跳ね返り、クラス全員が頭から水をかけられたような衝撃に打たれた。教壇に立っているのは鬼だ、と美南は思った。自然と、強張っていた肩の力が抜けていく。己人を見る。その眼光は、そのわなわな震える身体は――鬼を髣髴とさせる。
「全国の、闇にもみ消された情報を追う人間たちが、日夜死に物狂いで真実を追ってんだ! お前ら今に見てろ、俺がすぐに、世界をひっくり返す最悪の大スクープをぶち晒すから!」
男の剣幕がムードを完全に変えている。
「お前らの節穴の目を、喝目させてやるよ!」
勿論クラスメートは何も悪いことはしておらず、己人が一方的にキレただけなのだが、あまりに気の毒だ。けれど今は自分の意識の管轄外を危惧する余裕はない。墨をデタラメに搔き回したような恐ろしい覇気の幻覚が、美南の目を埋め尽くす。
得体の知れない男の、得体の知れない恐怖に教室が蹂躙されたのも束の間、カラカラと己人は笑う。
「何、鳩のフンを頭にかけられたみてえな顔してんだ、揃いも揃って! お前らってば、俺のこと、何て不健全な存在なんだって思ってるだろ? その通りだ」
大きく笑う口から、真っ赤に染まった舌が見え隠れしている。