遭遇
「生きる目標を失った兄さんに、付き合っている暇はないから!」
血の繋がった実兄を、こんな台詞で突き放す日が来るとは今の今まで思っていなかった。言われた当人も、予想していなかったかもしれない。
コンビニエンスストアに沈黙が降りた。雑誌を立ち読みしていた五十代くらいの男が、首を半回転させて、肌を刺すような視線を寄越す。店内をムードを悪いものにした一言が、捨て台詞になろうとも構わず、美南は踵を返してオレンジ色の空の下に出る。革靴を鳴らし、肩にかけた学校指定の鞄を抱え込むようにして足早に歩く。日中より気温の下がった街は、相変わらず騒々しくて、カッとなった美南の頭は冷やす涼風をもたらしてくれない。
春が深まる。
国道線沿いの歩道を進む。夕方とあって、引っ切り無しに自動車やトラックが横切っていく。反対側の道路で、郵便局に右折しようとする青い軽自動車がもたついていて、後ろで待つセダンが焦れったそうにしている。今にもクラクションを鳴らされるのではないかと思った瞬間、前方からけたたましいクラクションが響き、見当違いな方向に驚いて前を向く。赤信号の横断歩道に、自転車に乗った中学生が飛び出している場面が目に飛び込んだ。まだ間に合うのではないかと踏んで渡ろうとしたのだろう。タクシーの運転手が、逃げる中学生の背中に、バカヤロー、と怒鳴る。
兄は、美南の背中に何の言葉もかけなかった。どうせ最初から私に期待していなかったんだ、だったら声をかけないでほしい。溜息をつく美南の肩を、叩く者がいた。
「ねえ、お嬢ちゃん、サラサラのセミロングと制服が可愛いね。ちょっとお茶でもどう?」
ナンパを装うまどろっこしさが余計に癪に障り、兄の手を払い除ける。反射的に、皮肉たっぷりに切り返す。
「お兄さんこそ素敵ね。その小汚いロングジャケットと、ナンパ用のハイトーンの声音が」
おお、と兄は元来の低い声で、感嘆する。「わかるか、このジャケットのよさ。刑事みたいで、風格が出てるだろ?」
「嫌味を真に受けるとこ、変わってないわね」バカヤロー、と心の篭っていない罵倒を付け加える。
道路を渡っても、早足で去ろうとしても、兄はしつこく食い下がった。「なあ美南、つんけんしないで、せっかく再会したんだから何処か遊びに行こうぜ。久しぶりに」迷惑極まりない。「どうせ暇なんだろ?」
足を止めると、兄はバトンを渡し損ねたリレー選手のように慌てて後ずさって、美南の横に戻る。
「あのさ、己人兄さん。会社辞めて、女の部屋に転がり込んで、ヒモ男になったって本当?」
己人の茶色く染めた頭がちょうど夕日を覆い、視界は一層薄暗さを伴う。「楽しい仕事、やってんぜ。寂しい青春を送ってるお前が羨ましがるオシゴトをな」女の身体と財布を貪る、野獣の歯を見せる。
「次にその台詞言ったら、本当に縁切るからね!」
アパートで一人暮らしをしていた己人は、突然会社を辞めてフリーターになり、代わりに生きる知恵を手に入れた。女の不安を煽り貢がせる巧妙なテクニックが、どれだけ彼の生活の支えになっているかは知らない。元来ずる賢くて口達者な彼のことだから、実はずっと昔から習得していたスキルだったのかもしれなく、こうした一連の堕落劇が生真面目な美南を失望させた。落ちぶれた人生にのうのうと浸かっている事実を、彼が耳くそをほじりながら家族に報告して、もう半年が経とうとしている。現在も相変わらず、女の部屋を転々としているのだろう。独特の思考回路と、常に自信と愉快感に満ち溢れた言動で、上手いこと世渡りしてきた己人に、不向きな生き方ではないのだと思う、けれど。
「つれねえな。昔は物分りがよかったのに」
けれど美南は、兄に愛想を尽かしている。もう、幼い頃の誓いを捨てて、堕落する道を選んだのだな、と。
「目ぇキラキラさせて、俺の言うことに賛同してくれたあの頃のお前、特別可愛かったのになあ」
肩を落とす己人を、振り向き様に睨む。黒々しい砂埃を立てるような、隠し通せない底知れぬ闇で兄を威嚇する――そんな気持ちだった。
己人は、けろっとしている。どんな脅威にも臆することのない、強靭的な精神力は健在らしい。けれど、未だに美南の中に残る憎悪や、腫れ上がった悲しみは、今の己人からは欠落してしまったように見えて、目を背けてしまった。そういう意味ではすっかり潔白になった己人の顔は、じっと美南を眺めている。正反対の圧力が対峙する上空を、カラスが飛ぶ。
己人はしつこかった。何が彼をそこまでさせるかは不明だが、美南は毎日逃げ回った。
所謂、帰宅部である美南は、授業が終わると真っ先に学校の裏門へ走るのが日常茶飯事化している。正門は己人が待ち構えている。何度も正門に姿を現さないとなると、さすがに勘付かれるのも時間の問題かもしれないと思ったが、五日間は何とか逃げ切った。いつもなら学校の鞄に隠し持っているノートパソコンを、カフェテリアで広げて作業をしながら帰路に着くのだが、今は困難だ。状況が状況なのだから、直帰するしかない。街中に出ると必ず遭遇するのだ。
探偵でも雇って情報を得ているのか、それともストーキングされていたのか。とにかく、徹底的に自分の一日のスケジュールを調べ上げられているのは、確かだ。偶然を装って「なあんだ、美南じゃん。こんなところで何を……あ、おい、白けた顔して逃げんな!」などと声をかけられた日は、肌が粟立った。
ある夜は、電車のホームで遭遇した。運命の恋人を発見したかのように、興奮で顔を紅潮させる己人が駆け寄ってくる前に、電車のドアが二人の間を隔ててくれて大いに助かった。つんとすました態度を取ってやると、己人はホームから何か叫んだが、構っている暇もなく電車は発車した。あれほどせいせいした気持ちになれたのは、何年ぶりだろうか。
同時に、今更妹を追い回す兄が不気味で仕方ない。
土日になる。家に篭り、ひたすらキーボードを叩く。母は、「部屋でパソコンと睨めっこしてばかりじゃ、息苦しいんじゃない?」と言うが、美南が聞く耳を持たないと悟ると、夕方に洗濯物を取り込んでほしいと頼んでそっと仕事へ向かう。
パソコンの画面から視線を上にやり、整頓された勉強机の棚を見ながら、何となく書物や教科書の背表紙を目でなぞる。刑事法の本に当たると、これは昔、兄さんと一緒に読み漁った文献だ、と思い返す。ムシャクシャしてキーボードを殴りたい衝動に駆られた。
煌々とした机のライトに目がじらじらし、そのじらじらから、思い出したくない過去の映像が浮き彫りになっていく。陰鬱な気分で、パソコンを閉じた。
「信じてたのに。兄さんのタコス」
悪いことをしても怒らず、もっとやっちまえ、その方が面白いだろ、と子悪魔みたいに笑う。己人は、そんな少年で、美南の憧れだった。