【前編】
番外編です。
愛と侑理の転生を繰り返す前のお話です。
「陛下、そろそろお時間ですが――」
決議書から視線は外し、顔を上げれば背筋を伸ばし一礼をしている宰相が国王の視界に入る。
「時間、とは?」
再び決議書に視線を戻して尋ねると、小さな溜め息と共に「やはり、お忘れですか…」という呆れた声が耳に届く。
「本日、歌姫様ご登城の日でございます」
「――俺は見ての通り、忙しい。歌姫の件は、お前に任せる」
国王のにべも無い言葉に宰相は「承りました」と事務的に答え、執務室を後にする。
硝子ペンは、上質の紙の上を流れるように動く。
国王は、ふと集中の糸が切れ、顔を上げ窓の外を見る。
目に映る世界は緑溢れる自然が広がる。
暖かな日差し。心地良い風に、枯れる事の無い水源から流れる大河。
此処は、まさに空に浮かぶ楽園だ。
国王は、すっとその紫の瞳を細める。
その先には、天界を目指すかのように高く聳え立つ祈りの聖塔。
この大陸が落ちる事無く、こうして豊かな生活が出来るのも歌姫の祈りの賜物。
歌姫は祈り、そして歌う。
この大陸の生命有るもの全てを想い、己の生命が尽きるまで歌い続ける。
つまり、この浮遊大陸は歌姫の魔力が無ければ、なす術も無く滅び行く存在。
歌姫は転生を繰り返す。ただ、この愛する大陸の為だけに――。
ぐらり。
今日も、大陸が揺れる。
気にしなければ小さな揺れだか、ここ数カ月で感じる頻度が多くなったように思う。
国王は西区の報告書に目を落とす。
浮遊大陸は王都を中心に東西南北四つに区分けされている。
国王の執務室のドアがノックされ「失礼します、陛下」と、入室してきたのはこの国の宰相。
親子ほど年の離れた国王と宰相は、いかなる時も国王に対し厳しく正しき道を示して来た。
なのに――。
「報告書です。必ず、目を通して下さるよう」
口調や立ち振る舞いは、いつもと変わらない。
違うのは、宰相の頭にある――。
「宰相」
「はい、陛下」
「俺の目がおかしいのか」
「何か、ありましたか?」
「お前の頭上に花冠が見える」
「陛下の目は正常です」
そうか、正常か。良かっ――いや、そうではない。
花冠にも驚いたが、何よりいつも気難しい表情のあの宰相が柔らかい笑みを見せている。
「花冠は先ほど、歌姫から頂いたのです」
と言って、国王の執務室を早々と後にする。
いつもなら小言の一つや二つ、うんざりするほどなのに。
国王は一人、残されて唖然とする。
今のは、本当に宰相なのか、と――。
宰相が出て行ったドアを見つめていると、今度は宰相の息子が入室してくる。
この大陸の治安と独立を守る護衛騎士の息子は、国王の乳兄弟にして幼馴染でもある。
「執務中の所、申し訳ありません。東区の被害状況の報告書を――」
「――…先に聞く!お前の頭の上にある花冠も歌姫からのものか?」
騎士の頭上には、宰相の頭の上にあったものと全く同じ花冠がある。
「あぁ、さっき中庭を通りかかったら、母上と一緒に花を摘んでいたぞ」
儀礼的な口調を崩し、その様子を思い出したのか、くくっと口の端を上げて笑う。
「陛下も欲しいのなら中庭に行けば、まだ遊んでいるんじゃないかな」
「お、俺は、一言も欲しいとは――!!」
「歌姫って、あんなに可愛いんだな。“騎士さま”って呼ばれるとなぁ」
「………」
締りのない幼馴染の顔を見て、効果は無いとしても非難に満ちた目で睨む。
「まぁ、羨ましいだろう?お前も花冠欲しいだろう?一緒に付いて行ってやろうか?」
「なっ!!ふざけるな!!」
かっと頭に血が上った。勢いに身を任せて席を立ったのがいけなかった。
国王は、そのまま騎士に連れられ中庭へと引き摺るかのように部屋を出た。
中庭は、幼い頃、遊んだ場所だった。
宰相の息子と一緒にかくれんぼをしたり鬼ごっこをしたり、少し大きくなれば剣の稽古もここでした。
国王にしてみれば、懐かしい場所でもある。
綺麗に整えられた遊歩道を奥へと歩いていけば、楽しげな声が聞こえてくる。
小さなテーブルセットが用意され、宰相が椅子に座り寛ぎながらお茶を飲んでいる。
その横には噴水があり、バシャバシャと水飛沫をあげて、宰相の妻と一人の少女が水遊びをしている。
国王は、今日三度目の驚きを覚える。
いかなる時も凛とした女性の鑑であった宰相夫人が、ドレスの裾を持ち上げ噴水の中に入りずぶ濡れになりながら水遊びをしているではないか。
「これは、陛下。愚息に何かありましたか?」
一番に気が付いた宰相は、国王に声を掛け、臣下の礼を取る。
それに気付いたのは宰相の妻。
慌てて噴水から出て、ドレスの乱れを直し「お見苦しい所をお見せしてしまって申し訳ありません」と、淑女の礼を取る。
そして――傍に居たマントを身に付けた少女も。
「ご機嫌麗しく、国王陛下」
ぎこちなくも完璧な淑女としてのお辞儀をする少女。
淡い金髪が、水に濡れてさらに日の光に晒され眩しいほどに煌いている。
「楽にして構わない。家族で寛いでいた所、邪魔しに来たのは俺の方だ」
宰相が濡れた妻にタオルを渡す。そして、同じように幼馴染が少女にタオルを渡す。
その姿は、本当の家族のように仲睦ましく微笑ましい。
「お茶をお淹れしますわ、陛下」
宰相夫人は、ポットを手に持ち自ら国王にお茶を淹れ始める。
騎士はニヤっと笑いながら、少女に何やら耳打ちしている。その語られる言葉を一字一句逃さないといった風に懸命に聞いている。
騎士の話が終わると、少女の表情はぱーっと明るくなる。
一体、何を話したんだ?と、国王は眉間に皺を寄せ不機嫌になっていく。
少女がテーブルの上にある小さな花輪を手に、国王の前にと進む。
「自分にと作った花輪ですが、良ければ陛下に受け取って頂きたく思います」
「っ!?」
大きな薄青色の瞳。受け取ってくれるであろうと期待に満ちている。
ここで受け取らずに終わると、また宰相が、夫人が、騎士が、煩く言ってくるのは目に見えている。なので、仕方なく――。
「有り難く、受け取ろう」
「ありがとうございます」
頬を上気させ、綻ぶ笑みは確かに可愛いと思う。
「お前の名を聞いておこう」
国王の言葉に一瞬、この場の空気が変わる。
夫人は飲んでいたカップを音を立ててソーサーに置き「陛下!」と声をあげ、宰相は「報告書類はお読みになられてないのですか!」と非難され、幼馴染の騎士には「お前、本気で言ってるのか!!」と怒鳴られる。
歌姫の名前を聞いて、何処が悪いと言うんだ。
全く、理解出来ないという視線で目の前の少女を見る。
少女は先程よりも綺麗な所作で淑女の礼を取る。
「私の名は歌姫です」
「………」
「または、祈り姫とも呼ばれる事も…」
「俺は、名を聞いている!」
少女を人形のような表情の無い顔を上げて、名を名乗った。
「私の名は無と、申します」
国王は、いつものように執務室で書類相手に仕事をする。
ただ、いつもと違うのは窓際には花輪が飾られ、手にしている書類は歌姫に関する報告書であるという事。
産まれてすぐ孤児院に母親と思われる人物に持ち込まれた歌姫。
片翼の者は“歌姫”の生まれ変わりであると言い伝えられている。
その母らしき者は「例え育てても、いずれ手放さなければならない。それならば――」と孤児院に赤子を置いて行ったという。
当時、院長は歌姫を届けてくれた事に感謝するしかなかった。
その者に十分な金子を渡し孤児院に引き取ったという。
そして、10歳になった時、修道院に移り日々歌姫としての教育をされ今日に至るという。
国王は報告書を読み終えて思う。
何故、誰も名前を付けなかったのだ。無というのが名前とは――歌姫の存在自体を現しているのか。
この浮遊大陸にとって、歌姫とは掛け替えの無い存在だというのに。
ぐらり。
また、大陸が揺れる。
この揺れも、西区や東区で起きている――今はまだ小さな災害も歌姫が祈りの歌を歌う事によって、水に溢れる緑豊かな大陸に戻っていくというのに。
「もしかして、難しいお勉強?怖い顔してる」
誰も居ないはずの執務室。いきなり侵入者に声を掛けられ、国王は条件反射で剣を手に立ち上がった。
「どこから、入った!」
侵入者は、びっくりして薄青色の瞳を瞬かせ、窓の外を指差す。
「飛んで、入って来たのか?」
国王の質問にふるふると首を振り「木を上ってきたの」と答える。
そして、手に持つ花冠を国王に差し出す。
「この前のは、小さかったから…。これを渡したくて…」
色取り取りの花はどれも美しく、匂いも芳しい。
花冠を受け取った国王は剣を下ろし、侵入者の言葉を思い起こす。
「ちょっと待て!お前、ここは4階だぞ!」
「うん。木登りは昔から得意だから、大丈夫」
「そういう問題では!!」
「だって、みんな意地悪言うんだから。どうせ、木の上まで飛べないだろうって」
「………」
「飛べなくても、上ればいいんだから!」
あたかも、それがどうしたという風に侵入者は言い、また窓から木に伝って出て行こうとする。
ふと、報告書の内容を思い出す。
孤児院に居た頃、片翼のせいでよく男の子に苛められていたと――。
「だから、待て!」
「大丈夫だって、降りるのも得意だから」
そういう問題ではない。
木を上ってきたというのは本当である事は外見を見れば一目瞭然だ。
淡い金髪には数枚の葉が絡み、マントを身に付けていても両腕には枝で引っ掻いたのだろう無数の蚯蚓腫れが出来ている。
「とにかく、窓から出入りするな!」
国王は、苛つくままに大声で「そこに座って待っていろ!」と言い放つ。
「すぐに戻る」
国王は宣言した通り、執務室を出て行くがすぐ戻ってきた。
手には、薬箱を持って――。
消毒液を塗られ、痛みに顔を歪める少女は、国王の紫色の瞳と視線がぶつかる度にニコリと笑う。
「痛いのなら、無理して笑うな」
国王は、眉間に皺を寄せて不機嫌オーラ全開で、侵入者――少女の腕に包帯を巻いていく。
「――どんな時も、笑っていなさいと教わりました」
「………」
「苦しくても辛くても、この世界に生まれたのだから、と」
「確かにな。生きていれば、いつか良い事があるだろう」
「私にも、いつか幸せが来るでしょうか?」
「それは…。いつか現れるだろう。お前を愛する者が」
「そうですね。私は常に守られ大切にされています」
国王は少女の言葉に何か引っ掛かるものを感じたが、近くで見れば納得がいく。
淡い金色の髪。
澄んだ薄青色の瞳。
華奢な身体にも関わらず活発で、屈託の無い笑顔は誰の目にも愛らしく映るだろう。
あの宰相家族が、溺愛するのも解る。
「ありがとうございます」
少女は立ち上がり、優雅に礼をとる。
国王は、薬箱を片付けながら「構わない」と素っ気無く答える。
きゅる、ぐるるる~~。
何んとも言えない音に国王は少女を見る。
恥ずかしさのあまり項垂れ、耳まで真っ赤にしている。
「へ、陛下、今のは!!――っ!!」
「昼食にしよう。俺も、まだなんだ」
侍従に食事を用意させる。
二人で食事をする。
開け放たれたままの窓からは、心地良い暖かな風が吹き込み、午後の日差しが眩い。
「王城に来るまで、修道院に居た時はずっと一人で食事をしていたの」
「………」
「誰かと食事なんて、宰相さまと奥方さまが初めてだったの」
「………」
「嬉しかった。私の我が儘を聞いて下さって。本当の娘のように接して頂けるなんて」
「………」
国王は返事や相槌すらしないが、少女の言葉に耳を傾けている。
少女にはそれが分かるから、何も言わず好き勝手にお喋りを楽しんでいる。
食事もそろそろ終わろうと、お茶を口に運ぼうとした時――。
「――あと二週間ほどで、あの塔に行くのですね」
窓の外の遠くに、祈りの塔が見える。
悠然と聳え立つ姿は、神の聖域に近い存在だ。
「私の祈りの歌がこの大陸を守るのですね」
「そうだ。お前の歌声を楽しみにしている」
少女の行動は、規制される事無く自由に王城を歩く事を許されている。
中庭で遊んだり花を摘んだり蝶を追いかけたり――時には国王の執務室で勉強をしたり。
子供っぽい遊びばかりしていても、ふと見せる表情は大人びて今にも消えてしまいそうなのは何故だろう。
国王は思う。
一緒に食事を取るようになって、会話は昔の思い出話ばかりで。
少女のお転婆振りや、意地悪な男の子に仕返しにと様々な悪戯をしたという話。
院長にはいつも叱られだけど、これでも素直に成長してきたと自分の事をそんな風に話す少女。
「泣いてばかりいても、運命は変わらないでしょう」
【運命は変わらない】
この言葉が、国王の胸の奥に不思議と小さな痛みを覚えさせる。
少女は諦めている。
だが、何を?
考えても、答えは出ない。
「――失礼します、陛下、歌姫」
侍従達が、食事の片づけをしている所に宰相は執務室を訪れた。
「歌姫、妻が姫の事を探しておりましたよ」
「奥方さまが?」
「衣装の仮縫いがしたいと言っております」
「……分かりました。すぐに伺います」
すっと立ち上がり、非の打ち所がない完璧な礼をして「陛下、失礼します」と執務室を辞する。
「…何だ?急に浮かない顔をして」
「――歌姫の事ですか?」
国王の独り言に近い言葉に、宰相は返答をしようか思い止まったか答える事にする。
「衣装とは塔へ上る日の衣装の事か?」
「――はい、そうです」
「衣装が気に入らないのか?それとも、片翼を気にしてるのか?」
「……陛下」
「いつもマントを羽織って、片翼を隠しているだろう」
「………」
「それとも色か?別に何色でも良いだろうに」
「………」
宰相が何も答えないのは、少女が片翼である事、翼の色の事を気にしているから、浮かない顔をしたのだと国王は判断した。
国王は翼の色など、気にしていない。
自分の翼の色は黒色だからだ。
いつからか遠い昔から、黒は王の色とされている。
その色に恥じないよう、生まれた時から王となるべくしての生き方を求められてきた。
きっと、少女も片翼であるが故に歌姫としての生き方を要求されてきたのだろう。
片翼を不用意に人の目に晒したくないのだろう。
その日、国王は美しいドレスを纏った少女を想像しながら仕事をした為、少しも捗らなかった――。
ドレスは少女の容姿に合わせてたかのような、淡いクリーム色のレースやフリルをふんだんに使い、ドレスの裾にはパールが散りばめられていた。
「お、奥方さま…。私、こういうのは……」
あまりにも豪華な衣装である。
祈りの塔へと上る時のみ着るドレスである。はっきり言って私には必要無いと少女は思う。
「よくお似合いですよ、歌姫」
夫人は本当に嬉しくて仕方ないという表情で、少女の首にパールのネックレスを付け、頭上にパールのティアラを載せ、ほーっと感嘆に溜め息を付く。
「夫人、私には、もったいな――」
「何を言うの!貴女の愛らしさを最大限に生かした衣装なのよ!!」
「………」
「私には、可愛げの無い息子しか居ないでしょう」
「………」
「娘とこんな風にドレスや宝石を選ぶのって一度したかったのよ」
こんな私でも、夫人の役に立っていると思う事にする。
少女は自分の姿を鏡に映す。
どんなに高価な宝石も、どんなに手の込んだ刺繍をされたドレスも、たった一度だけ袖を通してそれっきり、終わりだ。
それでも、こうして着飾って貰えるのはとても有り難い事だと思わなければならない。
「夫人、ありがとうございます!私、このドレスを着るその日がとても楽しみです!」
「っ!!ご、ごめんなさい!!貴女の事も考えず、はしゃいでしまって!!」
「いいえ、私は来るその日の為だけに生きてきたのです」
「…歌姫」
「歌いましょう、この浮遊大陸の全てのものの為に」
夫人はハンカチで目元を押さえ、何度も少女に謝罪した――そして。
「私は短い時間とは言え、あなたと一緒に居た時間を大切にしたいと思っているのですよ」
「…ありがとうございます」
「貴女が私の本当の娘だったら良かったのに」
「それは、いけません!!」
「愛してるわ、私の可愛い娘」
「!!」
少女は、夫人に抱き締められた。
他人に誰かに、こんな風に抱き締められた事なんて一度も無い。
私の為に涙してくれる人が居るなんて。
母親って、こんなに温かくて優しい存在なの?
「…お母さま」
生まれて初めて発した単語。
二度と、口にすることは無いと思っていたのに。
「うふふ、歌姫。私を今日からずっと“お母さま”と、呼んでくれると嬉しいわ」
少女は、母の安らぎに満ちた腕の中で瞳を閉じた。
昼食の時間になると侍従達は、執務室にやって来て準備を始める。
少女が窓から侵入してきた日から、国王は少女と一緒に執務室で食事を取るようになっていた。
なのに、今日は、テーブルの上には一人分の食事しか用意されていない。
「歌姫の分は、どうした?」
「…今日から、歌姫さまは、お食事を控えるとの事なので……」
国王の威圧感たっぷりの視線を向けられ、おどおどと侍従の一人が勇気を出して答える。
「歌姫の分をすぐ用意しろ!」
「は、はいっ!」
「それから、お前!今すぐ、歌姫をここへ呼べ!」
「は、は、はいっ!」
昨日まで、普通に食事を取っていた。会話も和やかに出来ていた。
異変は何も感じなかった。なのに、今日から取らないとはどういう事だ。
どこか具合でも悪くしたか?
それとも、何か気に入らない事でもあったか?
食事を拒否するほどの事でもあの少女にあったのか?
――……俺は、何かしたか?あの歌姫に。
侍従の案内の下、歌姫は姿勢正しく顔を上げ凛々しく現れ、国王に黙礼する。
「食事の用意が出来ている。そこに座れ」
「………」
苛立ちを隠さず、国王は少女の命令をする。
「食べない事は、この俺が許さない」
「………」
少女は無言で席に着き、食事を始める。
いつもなら、楽しく会話をし、あの気難しい国王を笑顔にする少女は居ない。
ほんの少し手を付けただけで、少女の食事は終えた。
「どこか、具合でも悪いのか?それなら――」
例え、国王でも具合の悪い者に無理やり食事を進める気は無い。
「いいえ、体調はどこの悪くはありません」
「それなら、きちんと食べるべきだ」
「私には、食事はもう必要ありません。なので、今日限りで陛下との食事は最後にしたいと思います」
「歌姫っ!!」
怒り心頭の国王を物ともせず、少女は無表情のまま席を立った。
一体、何が有ったのか?
すぐに国王は宰相を呼びつけた。
宰相は理由や原因は何一つ口にしなかった。ただ「お察し下さい」と、低頭するのみ。
国王は少女の姿を探すが、いつも居る中庭にも、どこにも居ない。
この王城に居るはずなのに、夫人や幼馴染の騎士に尋ねても「お察し下さい」「存じません」と返される。誰に尋ねても答えは同じだった。
ぐらり。
今まで無い大きな揺れに、悲鳴が上る。
でも、誰も心配などしていない。
数日後には、歌姫が祈りの塔に上がり、歌を歌う。
その祈りの歌声はこの浮遊大陸を安定させ、枯れ始めている森を再び緑の世界に変えてくれると知っているから。
国王は、夜の王城の廊下を歩いている。
大きな揺れの後にも関らず、城内は少しざわついたがすぐに静けさを取り戻す。
昼間、姿は見つける事が出来なくても、夜なら自室に居るだろうと国王は少女の部屋へと足早に進む。
こんな夜更けに非常識だと思うが、こうでもしなければ会う事すらままならない。
小さくノックして「入る」と小声で声を掛け、ドアを開ける。
ドアを開けて少女の部屋に入った国王の目に飛び込んできたのは、開け放たれたままの窓。
片側のカーテンが風で大きく揺れている。
少女の姿はソファにも無い。ベッドにも無い。何処にも無い
バルコニーの手すりに白い物が括り付けてあるのが見え、急いでバルコニーの下を覗き込む。
「あ、あのバカ!!何をしている!!そこを動くな!!!」
国王の目には、カーテンをロープ代わりにして下へ伝って降りようとしている少女の姿。
突然の国王の怒声に、びっくりした少女は手をカーテンから放してしまう。
「きゃっ!」
国王は躊躇い事無く、バルコニーから飛び降りた。
夜空に溶け込むような、艶めく黒き翼。
国王は地上へと落ちる寸前で、少女を抱き止める。
「陛下…」
「馬鹿か!落ちればどうなるかぐらい分かるだろう」
少女を抱き締め、国王は黒き翼を羽ばたかせ夜空を飛ぶ。
「陛下…」
「何だ」
「陛下の翼、綺麗」
「………」
あまりに少女の暢気な言葉に国王は溜め息すらも出ない。
「陛下」
「何だ」
「もう少し、こうしていたい」
「……」
「空を飛ぶって、こんな気持ちなんですね!」
細い腕を首に回され、きゅっと身体を国王に寄せる。
薄青色の瞳をキラキラとさせて、国王を見詰めてくる。
そんな顔を見せられては、怒る気も失せてくる。
柔らかな少女の身体を優しく抱きしめたまま、王城の屋根の上に降り立つ。
「どこへ、行こうとしてたんだ?」
「どこって、言われても…その、泣ける場所」
意味が解らない。
泣ける場所?
何だ、それは?
「だから、一人で泣いても見つからない場所…」
「…何か、有ったのか?」
少女は、小さく首を振る。特にこれと言って何か原因がある訳でもってなく――。
「何となくです。今まで、頑張ってきたので。一度、身体中の水分が全部無くなるほど泣いてみたいな、なんて…」
「わざわざ部屋を抜け出してまでする事なのか」
「誰かに心配させないようにと思ってなんだけど…」
「深夜に窓から抜け出す方が心配だろう」
諭すような口調の国王に少女は「それも、そうですね」と、勤めて明るく答える。
天然なのか、計算なのか、国王には少女の言動が掴みきれない。
「陛下、ここで泣いてもいいですか?」
少女は、夜空を見上げながら涙をこぼす。
声も上げず、ただ静かにぽろぽろと真珠のような涙が頬を伝う。
涙する時はこんな風にたった一人で泣いてきたのだろうか?
――美しい。
怒りに任せて泣く訳でもない。
悲しみに浸って泣く訳でもない。
途方に暮れて泣く訳でもない。
強い意志を感じる涙だ。
隣で泣いていた少女は、頬を涙に濡らしたままいつの間にか眠っていた。
あまりの無防備に苦笑が漏れる。
身体を国王に預け、規則正しい寝息と安らかな寝顔。
起こさぬように優しく抱き寄せ、国王は黒い翼をゆっくりと広げた。
早朝、廊下を行き交う大きな足音と怒声が響き渡っている。
騒がしさに眠りを妨げられる。
ノックも無しに国王の自室のドアが乱暴に開け放たれる。
「陛下!大変です!歌姫が!!部屋に居ません!!」
国王の寝室に血相を変えて入って来たのは宰相だ。
寝巻きの上にガウンだけを羽織って、いつも綺麗に撫で付けた髪も目を疑うほど寝癖が酷い。
そんな宰相の後ろから、ただ泣き叫ぶだけで何を言っているのか解らない夫人が駆け込んできた。
その姿は、貴婦人として誰からも賞賛されるほど、立ち振る舞いも完璧な夫人とは同一人物とは思えないほど、手には靴を持ち、ドレスも髪も乱して礼儀も無く入って来る。
「陛下!部屋の窓が開いていて!!どこにも、歌姫の姿が無いのです!!」
国王はベッドから飛び起きた。
まさか!昨夜は一緒に夜空を飛んで、その後、眠ってしまった歌姫を抱き、自分の部屋と――。
宰相夫妻のこんな取り乱した様子を見た事が無い国王は二人が嘘を付いているとは考えたくも無い。
むく。
自分の横にある何かが動いた。
「お…はよう…、ございま…す」
シーツの中から淡い金髪が出てきた。寝惚けているのか、薄青色の瞳は半分閉じられ小さな欠伸をする。
「「歌姫!!」」
宰相夫妻が少女の姿を見て、驚き表情で二人同時に叫びを上げた。
儀式と呼ぶには、あまりにもささやかなものだ。
参列者を見ると、修道院院長と副院長。
宰相夫妻とその息子。
騎士数名に、そして国王陛下。
少女は侍女に伴われ、ゆっくりとした歩みで現れた。
淡いクリーム色のドレスは、少女にとても似合っていた。
真珠の宝飾品も少女の持つ可憐な容姿をさらに美しいものにしていた。
「陛下」
礼をする少女に国王はすぐに手を上げる。
すっと、背を伸ばし国王を見上げる薄青色の瞳。
「今まで、短い間でしたが沢山の我が儘を聞いて下さり、ありがとうございます」
そして、もう一度、礼をする。その時――。
ぐらり。
大きな揺れだ。
立っているのが出来ないほどの揺れに、国王は少女の身体を受け止める。
「大丈夫か?」
「…はい」
少女は、国王の腕の中で思わず破願する。
「陛下こそ、大丈夫ですか?」
勿論、今の揺れに関しての問いではない。
国王の左の米神の上辺りには、痣が出来ている。
「痛みは無い」
「まさか、奥方さまが靴を陛下に投げ付けるなんて…」
「………」
「宰相様からも、随分叱られたと聞いています」
国王はバツが悪いという風な顔をして、何も答えない。
結局、あの後、一緒にベッドで一夜を共にしたのが宰相の逆鱗に触れたらしい。
幼い頃から、宰相からは叱られる時は小言を長時間聞かされ、逆に夫人は本気で怒った時は手に持っている物を投げ付けてきた。
一緒に眠っただけで何も無い、と何度言っても「そういう問題ではない!」と言って宰相夫妻は怒りを納めてくれなかった。
少女が夫妻に、国王は悪くない、自分が窓から抜け出したのを窘めてくれたのだ、と話さなければ永遠に叱られていただろう。
「陛下の怪我は私のせいです。本当に申し訳ありません」
「あれは、俺の軽率な行動のせいだ。気にする必要は無い」
「でも、陛下のおかげで、あの夜はとてもよく眠れました」
「そうか。歌姫が快い眠りを得たのであれば、それでいい」
少女は、国王に何度もお礼の言葉を告げた。
「ありがとうございます。陛下の事は決して忘れはしません」
「役目を終えたら、もう一度、会おう」
「――っ!?」
「“グナーデ”」
「――?」
「いつまでも名が“無”では、おかしいだろう」
「へ、陛下…、私に名を…」
「良い名だと思うのだが」
「私のようなものに…、名前など――」
国王は気が付かなかった。
少女の薄青色の瞳の中の僅かに揺れる思いに。
少女は一人で飛ぶ事は出来ないので籠に乗り、騎士や侍女たちに寄って運ばれる。
祈りの塔には入り口は無い為、塔の中腹にあるテラスへと向かう。
その姿を見終えた国王は、その場を後にする。
そして、国王の後に控える宰相夫妻に声を掛けた。
「グナーデの役目は、いつ頃まで続くのだ?」と――。




