序
長い詠唱が終盤に差し掛かると、その頃には辺り一面が闇に覆われていた。日が沈むにはまだ早い。穏やかだった空は,今は分厚い黒雲に覆い尽くされて、まるで夜のように太陽の光を遮っていた。空気は帯電し異様な臭気を放つ。
「イフリーン殿、準備は宜しいか?そろそろですぞ。」きらびやかな馬上鎧に身を包んだ経験豊富な騎士は、こちらを心配するかのような口調で声を掛けてきた。何でそんな口調で?と、自分も多少は戦慣れしていると自負しているつもりだったので、騎士の態度に少し腹を立てたが、思い直して声を荒げる事も無く大丈夫だと返事をした。解るのだ。その心配げな口調は自分に向けられたものであると同時に騎士自身にも向けられたものであると。周りには、騎士と同じ様にきらびやかな格好の騎士達が、落ち着けずそわそわとした様子で自分達の出番を待ち構えている。
隊列の中央、その幕に覆われた円陣の中では、あの女達が最後の呪いの言葉を吐き出そうとしていた。あの女達。アルカドの2人の王女。この姉妹は、一年の大半を雪と氷に覆い尽くされるあの山脈の奥の神殿でどのような忌まわしい古代の知識と共に生まれ成長してきたのであろう?普段は愛らしい姿形の幼い姉妹だが、彼女たちが今行っている呪術を目の当たりにすると、その姉妹が「呪われた忌むべき存在」である事を思い出すのにに十分だった。詠唱を行う際は、姉妹は巫女達に円陣に囲まれ横断幕で覆われその姿は見えない。その側に近づいてやっと、古代語による詠唱がわずかに漏れ聞こえてくるのみだ。彼女たちは普段から生肉を喰らい生き血を飲んでその力を蓄えるという。戦いに倒れた者からの血や死臭以上の臭気が、今あの女達が呪いの言葉を積み重ね詠唱している円陣から周辺に広がっていた。
「目には目を 邪悪には邪悪か・・・」ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。東方の幾多の国々人々を飲み込み滅ぼした異形の者ども。エフタリアの人々を恐怖に陥れ呪詛を投げかけられる敵タルガンの忌むべき呪われた魔術軍団と戦う為に我々もまた同じような呪われた魔術に頼る事になった。以前学者から聞いた事がある。アルカドとタルガンの術は、元は同じモノではないだろうか?と。
「voogugyluwagoooooovooooooooooooooooooo」
円陣の中から突如女のような、しかし何か得たいの知れない獣でもあるかのような咆哮があがった。後の記録によると、あまりにも激しいその咆哮は、戦陣の遥か後方にまで響いたという。そして、周囲は突然明るくなった。雲が晴れたのでは無い。空を覆う雲一面に紫の稲妻が走り辺りを照らしているのだった。
突撃準備のラッパが吹き鳴らされ周囲の緊張は最高潮に達した。次の瞬間、正面のタルガンの戦列に稲妻をまとった黒い雲の固まりが落下した。地上にいた者はタルガンの兵も最前線の味方の兵も次から次に地上に降り注ぐ固まりに水しぶきのとうに跳ね飛び霧散していく。所によっては地面自体が吹き飛ばされている。
突撃ラッバか鳴り響き、我々は騎馬突撃を開始した。一斉に稲妻が走り地上の全てのモノが粉砕されているかのように見える最前線に向けて。馬具と蹄の音、鎧がきしみ天に掲げる剣が風を切る音、自分も含め突撃する騎士達が発する雄叫び。周囲で鳴り続ける雷鳴と爆音で、その音が、声が打ち消される。多くの命が1つの固まりになって、全てを焼き尽くす煉獄に向けて突き進んだ。目の前を駆けていた先頭の騎士の剣に落雷、その騎士の身体はその鎧や馬ごと飛散した。これでこの突撃の先頭は自分だ。今以上に速度を上げる。タルガンの戦列まであと僅か。そこに至らずとも周囲は既に地獄だった。