真実の愛は、担保になりません
真実の愛は、担保になりません
大聖堂には、焼きたてのパンの匂いがしていた。王太子の成人を祝う式典に合わせ、王都の職人組合が参列者へ配るために焼いたものだ。後方の長椅子には商人や工房主も座り、そのさらに後ろで、招待された市民たちが背伸びをして壇上を見ていた。
エレノア・フォン・メディシスは白い手袋の指先をそろえ、王太子ユリウスの隣に立っていた。今日、二人は新しい港の建設と穀物の備蓄について、王家と都市貴族の協定に署名する予定だった。彼女の鞄には、昨夜まで数字を直していた契約書が入っている。
署名台へ進むはずのユリウスが、突然、楽団へ手を上げた。演奏が止まると、彼は列席者を見渡し、男爵令嬢マリアを自分の隣へ呼び寄せた。
「エレノア・フォン・メディシス。貴様との婚約は、本日をもって破棄する」
エレノアの後ろで、誰かが椅子を鳴らした。ユリウスはその音を、驚きと称賛のどちらだと思ったのだろう。マリアの肩を抱き、ますます声を張り上げた。
「貴様は金の計算ばかりで、私の心を少しも見ていなかった。私が愛するのはマリアだ。彼女こそ、王太子妃にふさわしい」
マリアはうつむき、ユリウスの袖をつかんだ。前列の若い貴族たちは顔を見合わせ、後列の商人たちは署名台の契約書を見た。聖堂の扉近くでは、パンを入れた籠を持つ職人が、配る手を止めている。
エレノアは、鞄の留め金から指を離した。婚約を終えるという言葉は聞き取れた。だが、なぜこの式典で言うのか、まだ分からなかった。
「殿下。港湾協定の署名は、どうなさいますか」
「今、そんな話をするのか。だから君は冷たいと言うんだ」
ユリウスは笑った。エレノアは契約書を取り出さず、署名台へ視線を移した。そこには王家とメディシス家の印章を押す場所が、空白のまま残っている。
「協定の信用保証は、私が王太子妃として事業を監督することを前提にしています。婚約を解消するなら、今日の署名はできません」
「私を脅すつもりか。港の工事なら、王家だけで続ければいい」
聖堂の後方から、短い咳払いが聞こえた。港湾組合の長が立ち上がり、帽子を胸に当てる。その隣では金融ギルドの長が、持参した書類を開いていた。
「殿下。王家だけで工事を続けるというお言葉を、正式な方針として受け取ってよろしいでしょうか」
「好きに受け取るがいい。金を出す者など、ほかにもいる」
「承知しました」
組合長はそれ以上言わず、席に戻った。隣のギルド長に書類を見せ、二人で何かを確かめる。ユリウスは、自分の言葉で相手を黙らせたと思ったらしい。
だが、参列者は黙っていなかった。
「来月の資材の発注書は、まだ王家の保証待ちだったな」
「婚約がなくなるなら、保証人も替わるのか」
「港の倉庫を建てる職人には、もう着工日を伝えているぞ」
話し声は小さかった。王太子を面と向かって非難する者も、すぐに席を立つ者もいない。ただ、列席者たちは一人ずつ、自分の持つ契約や約束に今日の宣言がどう関わるかを考え始めた。
大聖堂の入口に立つパン職人は、隣の男へささやいた。
「港が止まったら、うちの倅の仕事も止まる」
「まだ止まると決まったわけじゃない」
「だったら、誰が続けるのか聞かせてほしいよ」
その声がエレノアの耳まで届いた。彼女は壇上から降り、組合長たちの前へ歩いた。
「現在着工している水道橋と港の工事には、手をつけません。契約済みの代金も、期日どおり支払われます」
組合長は深く息をついたが、すぐには頷かなかった。
「今後の契約は?」
「協定を見直します。工事を続けるための資金を、王家の新しい借り入れとは分けて管理したい。関係者を集め、明日、書面で提案します」
「明日なら、うちからも担当を出しましょう」
エレノアは礼をした。壇上ではユリウスがまだ立っている。彼女が王太子に説明している間は顔も上げられなかった人々が、今は互いに予定を確かめ、会う時刻を決めていた。
大聖堂の記録官が、空白のままの契約書を閉じた。ユリウスはそこで初めて、予定されていた署名が行われないことに気づいた。
「エレノア。婚約の話と協定は別だろう」
「協定には、私が監督するという条件が書かれています。殿下が今、三百人の前でその前提をなくされました」
「書き直せば済む」
「どなたが監督なさるのですか」
ユリウスは答えず、マリアを見た。マリアもまた、署名台に積まれた書類を見ている。彼女は王太子妃になりたいと話していたが、港の資材がいつ届くかまで話したことはなかった。
式典は予定より早く終わった。エレノアはパンを一つ受け取って馬車に乗り、帰り道で半分食べた。昨日の夕食を抜いて協定を読み直していたため、指についた塩がやけにおいしかった。残りの半分は紙に包み、鞄へ入れた。
翌朝、王城の財務卿からメディシス家へ使者が来た。エレノアは父とともに使者の話を聞いた。昨日の宣言を知った金融ギルドが、王家の新しい為替手形の受け取りを保留したという。
「宮廷への小麦の納入も、一部が止まっております」
使者は帽子を膝に置いた。エレノアは机の上に契約書を広げ、納入が止まった先を指で追った。王城の厨房向けが中心で、市内の店へ売る分は含まれていない。
「既に契約した工事代金は支払います。市民向けの穀物も止めません。ただし、王家が新たに借り入れる分まで、私の名で保証はできません」
「殿下は、昨日のお言葉を取り消せるとお考えです」
父が使者を見た。
「取り消す相手は娘だけではありません。聖堂にいた商人や職人へ、誰が責任を持つのか説明していただきたい」
使者が帰ると、エレノアは港湾組合へ向かった。通りのパン屋にはいつもどおり列ができていたが、店先では大聖堂の話が続いている。荷車を引く男が、彼女を見つけて声をかけた。
「お嬢さん、港は本当に続くんですか」
「続けるために、これから組合の方と話します」
「王子様が何を言おうと、俺らには来週の仕事がいるんです」
「ええ。来週の支払いを、先に確かめます」
男は荷車の持ち手を握り直した。エレノアも歩き出した。昨夜、あの場で聞いた人々は、王子の恋を面白がっているだけではなかった。それぞれの家へ帰り、自分の仕事と食卓のことを考えている。
三日後、港湾組合と金融ギルドは、進行中の工事費を管理する共同口座を設けた。支払い済みの資金を王家の別の用途へ移さず、職人や資材商へ予定どおり払うためだ。エレノアは担当を申し出たが、帳簿を一人で握ることはせず、組合側の監督者と二人で署名する形にした。
そのころ王城では、ユリウスが財務卿に詰め寄っていた。
「なぜ、誰も私に融資しない」
「殿下が昨日、王家だけで工事を続けるとおっしゃったからです。皆、その計画と責任者を知りたがっています」
「計画ならエレノアが持っている。渡すよう命じろ」
「殿下は婚約を解消なさいました。彼女が監督を引き受ける理由も、もうありません」
財務卿は、港の工程表を机に置いた。空白の欄には新しい保証人と監督者の名前が必要だった。ユリウスは羽根ペンを持ったものの、誰を書けばよいか分からなかった。
数日後、国王は後継者の職務について審議を命じた。ユリウスが人前で婚約を破棄したことだけが理由ではない。国の事業について、誰が支え、どの条件で資金が出ているかを知らずに「王家だけで続ける」と宣言した。その判断を、商人や領主が見ていた。
王都の広場に王家から説明文が掲示された日、エレノアもその前を通った。人々は紙を読んでから、周りに尋ねている。
「港の工事は続くって」
「じゃあ、王子様の話はどうなった」
「そっちは、王様たちが決めるそうだ」
「俺は来月の賃金が出るなら、まずそれでいい」
誰も同じことだけを考えてはいなかった。王子を笑う人もいれば、工事の続きだけを心配する人もいる。エレノアは掲示板から目を離し、組合の会議へ向かった。
マリアから手紙が届いたのは、その日の夕方だった。王太子妃になれば華やかな仕事をするのだと思っていたが、毎日、財務卿や領主が保証人の話をしに来る。ユリウスは苛立ち、彼女に「エレノアなら分かるのに」と言うという。
エレノアは読み終えると、手紙を封筒へ戻した。返事には、王太子妃の仕事を教える役目は引き受けられないとだけ書いた。マリアがどう生きるかは、マリアとユリウスが決めることだった。
一か月後、ユリウスは港湾事業の監督権と、王家の資金に関する決裁権を外された。婚約の解消も正式に認められたが、次の王位継承者は決まらず、ユリウス自身の適格性が審議されることになった。
王城でその決定を聞いた帰り、ユリウスはエレノアを待ち伏せした。以前と同じ金糸の礼服を着ていたが、袖口が少しほつれている。彼は彼女の行く手へ立ち、声を落とした。
「戻ってきてくれ。君なら、皆を説得できる」
「私は昨日まで、殿下の婚約者でした」
「そこを何とかしてほしい。君がいないと、誰も私の話を聞かない」
エレノアは足を止めた。自分が隣にいたころ、ユリウスは商人たちが何を求めているか聞こうとしなかった。今は答えを持って来いと言うために、彼女を待っていた。
「殿下のお話を聞いたからこそ、皆様は新しい保証を求めているのです」
ユリウスは口を開きかけ、そのまま黙った。エレノアは彼の横を通り、門の外へ出た。
港では、建てかけの倉庫に新しい梁が運び込まれていた。職人が図面を地面に広げ、資材商と寸法を確かめている。エレノアが近づくと、先日声をかけた荷車の男が、遠くから手を上げた。
「来週も仕事がありますよ」
「よかった。次の支払いも確認してきます」
男は笑って荷車を押し始めた。エレノアは鞄から帳簿を出し、組合の監督者が来るのを待った。夕方には家へ帰り、冷めないうちに食事を取るつもりだった。
その日のパン代は、もう誰かの真実の愛を担保にしなくてよかった。
港に面した取引所の二階からは、停泊する三本マストの商船と、新設された防波堤に沿って積まれる石材がよく見えた。
エレノアが開いた帳簿の隣には、焼き立ての丸い黒パンと、香草入りのチーズが乗った皿がある。今日から港湾の関税徴収に関する共同監査が始まるため、昼食は手短に済ませる必要があった。
ノックの音とともに現れたのは、組合側の監査人を務める年配のパトリツィ、ファルネーゼ氏だった。彼は羊皮紙の束を机の端に置くと、窓の外をあごで指した。
「王城の使者が、また門のところで追い返されていましたよ。エレノア嬢」
「手紙ですか?」
「ええ。国王陛下からの親書ではなく、元・王太子のユリウス様からの私信だそうで。『国家百年の計を私怨で止めるな』と書かれていたそうです」
「止めておりませんのに」
エレノアは小さく息をつき、羽ペンにインクを浸した。
「先週分の資材代は組合の承認を経て即日決済済みです。水道橋の石工たちにも予定どおり銀貨で支払われました。止まっているのは、殿下の裁量で引き出そうとした、使途不明の遊興費と贈答品の手形だけです」
「商人からすれば、それこそが一番ありがたい健全化ですよ」
ファルネーゼ氏は苦笑し、手元の計算用紙を指で叩いた。かつて王家が「威信」という名の曖昧な看板で支払いを先延ばしにし、焦げ付かせかけていた負債は、今やメディシス家と都市ギルドの合議制のもとで着実に償還計画が進んでいる。
ユリウスが「真実の愛」を叫んでエレノアを切り捨てたあの日、都市貴族たちが即座に動いたのは怒りからではない。ただ、彼という存在が「契約能力を欠いたリスク要因」であると、市場の全員が同時に悟ったからだった。
国家の信用とは、王冠の輝きではなく、約束された期日に約束された金が動くかどうかにかかっている。その算術を「冷徹な金の亡者」と蔑んだ時点で、ユリウスは為政者として失格だったのだ。
午後の鐘が鳴り響くころ、取引所の外がにわかに騒がしくなった。
エレノアが窓から見下ろすと、みすぼらしい平服に身を包んだ男が、門衛の槍に阻まれて喚き散らしていた。ユリウスだった。側近も護衛もおらず、かつての豪奢な外套の代わりに羽織った上着は泥で汚れている。
「通せ! 余は王太子だぞ! エレノアに会わせろ! 彼女が私を裏切るはずがない、少し頭を冷やせば戻ってくるはずなんだ!」
通行人たちが遠巻きに足を止め、冷ややかな視線を向けている。
以前、彼が「民衆の味方」を気取って広場へ出向いた際、群衆から投げつけられた罵声を思い出したのか、ユリウスは怯えたように肩をすくめながら、それでも門扉にすがりついていた。
「おい、あれ、廃嫡が決まったダメ王子だろ」
「まだ『余』とか言ってるよ。箸にも棒にもかからないって、まさにあのことだな」
「マリア様だっけ? あの男爵令嬢にも逃げられたらしいぜ。『こんな貧乏くさい生活のために愛を誓ったんじゃない』って実家に帰っちまったとさ」
「当たり前だろ。パン屋のツケも払えない男のどこに愛があるんだ」
職人たちの容赦のない声が、潮風に乗って届いてくる。
ユリウスは門衛に押し返され、石畳の上に無様に手をついた。そこへ、荷車を引く男が通りかかる。先日、エレノアと言葉を交わしたあの荷車引きだった。
男は進路を塞ぐユリウスを一瞥すると、舌打ち混じりに怒鳴った。
「どいてくれ、あんた! こっちは今日の仕事を時間通りに納めなきゃならねえんだ。邪魔をするなら、その汚れた服の洗濯代でも自分で稼ぎに行きな!」
「ぶ、無礼な……! 余に、労働をしろというのか……!?」
「働かない奴が飯を食えると思うなよ。お嬢さんはな、俺たちにその仕事をくれたんだ。あんたみたいに口先だけで腹を空かせるような真似はさせねえんだよ!」
荷車が軋んだ音を立てて通り過ぎ、巻き上げられた砂埃がユリウスの顔を白く覆った。彼は呆然と地面を見つめたまま、二度と立ち上がることができなかった。彼を助け起こす者は、群衆の中にも、港のどこにも一人としていなかった。
「……ご覧になりますか、エレノア嬢」
ファルネーゼ氏の問いに、エレノアは静かに首を横に振った。
「いいえ。帳簿の数字が合いました。次の船便が着く前に、倉庫の受け入れ伝票を切らなくてはなりません」
彼女は窓のカーテンを指先で引き、外の喧騒を遮断した。
室内に残ったのは、擦れる羽ペンの音と、規則正しい計算の刻みだけだった。
夕刻、仕事を終えたエレノアは鞄を手に取引所を出た。
門の前に、もう男の姿はなかった。どこへ去ったのか、あるいはどこへ連れて行かれたのか、誰も気にとめていなかった。ただ、夕日に染まる波止場では、次の契約に向けて職人たちが槌の音を響かせ、パン屋の煙突からは香ばしい煙が立ち上っていた。
鞄の中には、半分残しておいた朝のパンが入っている。
自分の足で歩き、自分の頭で計算し、交わした約束を一つずつ果たす。その積み重ねの先にだけ、明日の温かい食卓があるのだ。
エレノアは潮風を吸い込み、待たせていた馬車へ向かって、迷いのない足取りで歩き出した。




