王太子殿下、ずっとお側におりましたものね――公爵令嬢と王太子の長い時間
オクタヴィア公爵令嬢が王都を去って、半年が過ぎた。
その半年で、王宮から仕事が減ることはなかった。
むしろ増えた。
「イヴェット様。こちらもお願いいたします」
朝一番で運び込まれた書類の束を見て、イヴェット公爵令嬢は手を止めた。
「これは何でしょう」
「春の慈善市に参加する各家の割り振りでございます」
「担当部署は?」
「ございません」
「では、昨年は?」
官吏が一瞬、答えに詰まった。
「……イヴェット様の公爵家へお願いしております」
イヴェットは書類へ視線を落とした。
覚えている。昨年も、自分が処理した。
なぜ自分のところへ来たのかまでは、確認しなかった。必要な仕事だったからだ。
「その前年は?」
「王妃陛下が取りまとめてくださいました」
「王妃陛下が?」
「はい。王太子妃でいらした頃から、毎年なさっていたそうでございます」
「規則に定められているのですか?」
「……いいえ」
「では、王太子妃の正式な職務ではないのですね」
「はい。慣例でございます」
イヴェットは小さく息を吐いた。
最近、こういう仕事が多い。
王太子妃がするもの。
王太子妃候補がするもの。
次代の王妃となる女性が覚えるもの。
そう言われながら、誰の正式な職務なのか決まっていない仕事。
オクタヴィアは、そういうものをほとんど引き受けなかった。
以前、その理由を尋ねたことがある。
「まあ。正式なお仕事でもないのに、なぜわたくしが?」
「ですが、昔から王太子妃がなさっていたそうです」
「昔から間違えていたなら、今年も間違えなければならないのですか?」
本当に不思議そうな顔でそう言って、それで終わった。
そして宙に浮いた仕事は、家格の同じイヴェットの公爵家へ回ってきた。
イヴェットは断らなかった。
必要だったからだ。
必要な仕事なら、誰かがしなければならない。
「内容を確認いたします」
「ありがとうございます」
「ただし、来年以降も必要なのであれば、担当を決めてください。毎年、誰かが気づくまで放置する仕事ではございません」
「承知いたしました」
官吏が下がる。
入れ替わるように、扉が開いた。
「また増えたのか」
アルフォンス王太子だった。
イヴェットは立ち上がる。
「殿下」
「そのままでいい」
アルフォンスは机の端に積まれた書類を見ると、眉を寄せた。
「昨日より増えているではないか」
「春の慈善市です」
「ああ」
「ご存じで?」
「母上が毎年、面倒だとおっしゃっていた」
「でしたら、もう少し早く担当を決めていただきたかったですわ」
「私に言われても困る」
「王太子殿下でしょう?」
「君は最近、私への遠慮がなくなったな」
「半年も毎日のようにお会いしておりますもの」
イヴェットは何気なく答えた。
アルフォンスが、少しだけ黙った。
「……そうだな」
その声が妙に柔らかかったため、イヴェットは顔を上げる。
「どうかなさいました?」
「いや。何でもない」
アルフォンスは視線を逸らし、机の横に置かれた茶器を見る。
「また冷めている」
「今いただこうと思っておりました」
「昨日も同じことを言っていた」
「昨日はいただきました」
「夕方にな」
アルフォンスは扉の外へ声をかけた。
「新しい茶を。あと、何か食べる物も持ってきてくれ」
「殿下、結構です」
「朝食は?」
「いただきました」
「何を」
イヴェットは黙った。
アルフォンスが呆れた顔をする。
「食べていないのだろう」
「急ぎの書類がございましたので」
「オクタヴィアの友人に、同じような女がいたな」
「バーナデット様ですわね」
「あれはオクタヴィアに仕事を取り上げられたそうだが」
「取り上げたという表現はいかがなものかと」
「似たようなものだろう」
やがて運ばれてきた焼きたてのパンと温かい茶を、アルフォンスは当然のようにイヴェットの前へ置かせた。
「食べろ」
「命令ですか?」
「そう言わなければ食べないなら、命令にする」
イヴェットは少しだけ笑った。
「では、王太子殿下のご命令に従います」
アルフォンスも笑った。
それを見た侍従が、静かに視線を伏せた。
最近、王宮ではよく見る光景だった。
春の舞踏会。
王宮の大広間では、冬の終わりを祝う音楽が流れていた。
「イヴェット」
アルフォンスが差し出した手を見て、イヴェットは一瞬だけ周囲を確認した。
「わたくしでよろしいのですか?」
「他に誰がいる」
「候補なら、いくらでも」
「最初の一曲くらい、好きに選ばせてくれ」
その言葉に、イヴェットの指がわずかに止まった。
だが、すぐに手を重ねる。
「では、喜んで」
音楽に合わせて踊り始める。
アルフォンスは昔から踊りが上手かった。イヴェットも苦手ではない。
何度も社交の場を共にしているため、相手が次にどこへ足を運ぶかも分かる。
「この曲、お好きでしたわね」
「君も好きだっただろう」
今度はイヴェットが黙った。
「覚えていらしたのですか?」
「何度も踊っている」
「それでも、殿下がお覚えになっているとは思いませんでした」
「私はそこまで薄情ではないぞ」
「存じ上げませんでしたわ」
「君は本当に遠慮がなくなったな」
「半年もお側におりますもの」
また、その言葉。
アルフォンスの口元がわずかに緩む。
イヴェットはそれを、長く仕事を共にした者への親しみだと思った。
アルフォンスは違った。
半年前。
オクタヴィアが去った直後、イヴェットとの会話はもっと堅かった。
公爵家の令嬢。
国政に関わる協力者。
意見が一致することもあれば、対立することもある相手。
それが今では、自分が食事を忘れれば注意される。
会議で苛立てば、無言で茶を置かれる。
嫌いな香草が入った料理は、いつの間にか晩餐の席から外されている。
彼女の方も、自分が疲れていれば気づく。
自分が何を求めているか、言葉にする前に分かることさえある。
オクタヴィアとは、最後までそうならなかった。
イヴェットとは、半年でこうなった。
それを何と呼ぶのか。
アルフォンスには、ほとんど答えが出ていた。
曲が終わる。
イヴェットが礼をする。
「ありがとうございました、殿下」
「次も」
「次はルヴェリエ侯爵令嬢とお約束なさっておりますでしょう」
「……なぜ知っている」
「予定表を作ったのは我が家ですもの」
「そうだったな」
アルフォンスは苦笑した。
「では、後で」
「はい」
イヴェットは自然に離れていった。
その背中を、アルフォンスはしばらく見送っていた。
その2週間後。
イヴェットが王宮へ来なかった。
「イヴェットは?」
朝の会議室へ入ったアルフォンスが最初に尋ねた。
「公爵家より、本日はお休みになるとの連絡がございました」
「理由は」
「発熱だそうです」
「熱?」
「昨夜から少し高いようで」
「医師は」
「すでに診察しております。風邪であろうと」
「そうか」
アルフォンスは席についた。
目の前には今日の議題が並んでいる。
河川整備。
春の徴税。
北部街道の補修。
どれも急ぎだ。
「では始めよう」
会議は予定どおり始まった。
だが、昼前。
イヴェットの公爵邸へ王宮から花が届いた。
イヴェットは寝台の上で、その花束を見た。
白と淡い青。
自分の好きな色。
添えられていた紙には、短く書かれている。
『急ぎの案件はこちらで処理する。3日は来るな』
イヴェットは思わず笑った。
「命令ばかりですこと」
侍女が花を花瓶へ移しながら、にこりとする。
「殿下は随分ご心配なさっているようですね」
「仕事が滞りますもの」
「そうでしょうか?」
「そうですわ」
翌日。
アルフォンス本人が来た。
「殿下?」
寝台から起き上がろうとしたイヴェットを、アルフォンスが止める。
「そのままでいい」
「なぜこちらへ?」
「近くまで来た」
侍女が、ものすごく微妙な顔をした。
王太子が偶然近くまで来るような場所ではない。
イヴェットは気づかなかった。
「熱は?」
「もう下がりました」
「ならよかった」
アルフォンスは心底安心したように息を吐いた。
その顔を見て、イヴェットの胸がほんの少しだけ揺れた。
しかし次の瞬間。
「明日の会議だが」
やはり仕事の話になった。
イヴェットは、なぜか少しだけ可笑しくなった。
「3日は来るなと書いてございましたけれど?」
「だから説明だけだ。出てこいとは言っていない」
「分かりました」
仕事の心配だったのだ。
そう理解すると、妙に納得した。
同時にアルフォンスは、熱が下がったばかりなのに会議内容を確認しようとするイヴェットを見て、やはり自分の仕事を気にしてくれているのだと思った。
2人とも、少しずつ間違えていた。
海辺から手紙が届いたのは、その頃だった。
差出人はオクタヴィア。
封を開けた瞬間、蜂蜜の甘い香りがした。
『イヴェット様。
春になりましたので、新しい桟橋がようやく使えるようになりましたの。
最初に入った船が葡萄酒を積んでおりましたので、これは運命だと思いますわ!
ところで、王都では相変わらずお忙しいそうですわね。
バーナデットが、あなたのところへ以前より仕事が集まっているのではないかと心配しております。
必要だからなさることと、あなたがなさりたいことは、同じでなくてもよろしくてよ。
とはいえ、お仕事がお好きなら止めませんけれど!
追伸。
劇場の最初の演目が決まりましたの。ものすごく悲しい恋物語だそうですわ。
わたくし、悲しいまま終わるお話は苦手ですので、最後だけ書き換えていただけないか交渉しております』
イヴェットは最後まで読み、小さく笑った。
「相変わらずですこと」
必要だからすること。
自分がしたいこと。
確かに違う。
けれど、今の仕事は嫌いではない。
王宮の制度を整えるのも。
地方との調整をするのも。
アルフォンスと意見を戦わせるのも。
時々、彼が思いがけず柔らかい顔をするのを見ることも。
「……」
イヴェットはそこで考えるのをやめた。
机には、まだ仕事が残っていた。
それからしばらくして。
アルフォンスは国王から呼び出された。
「そろそろ決めろ」
何を、と尋ねる必要はなかった。
机の上に、数人の令嬢の名が並んでいる。
いずれも王太子妃候補として問題のない家柄だった。
「オクタヴィアとの件は、王家にも責任がある」
国王は重い声で言った。
「だから急かすつもりはなかった。だが、いつまでも王太子妃候補を置かぬわけにもいかん」
アルフォンスは一覧を見る。
そして、ほとんど迷わなかった。
「イヴェットがよいと思います」
国王が目を上げた。
「彼女か」
「はい」
家格に問題はない。
能力にも問題はない。
王宮の実務を支えている。
地方との調整にも通じている。
オクタヴィアの考えを理解しながら、王家の役割も否定しない。
何より。
自分を理解している。
自分のことを、よく見ている。
そしておそらく、自分を好いている。
「本人とは話したのか」
「まだです」
「ならば、まずそこだ」
「分かっています」
アルフォンスは、自信を持って答えた。
断られるとは、ほとんど考えていなかった。
求婚は、夜会でも庭園でもなかった。
いつもの執務室だった。
その日の仕事を終え、イヴェットが書類をまとめている。
「今日はこれで終わりです」
「イヴェット」
「はい」
「少し話がある」
声の調子が違う。
イヴェットは手を止めた。
「何でしょう」
アルフォンスは一度だけ息を整えた。
「私と結婚してほしい」
イヴェットの手から、紙が1枚落ちた。
アルフォンスは、少し笑った。
「そんなに驚くことか?」
「……はい」
「君も、いずれこうなると思っていたのではないか」
イヴェットはしばらく何も言わなかった。
そして、本気で分からない顔をした。
「なぜでございます?」
今度はアルフォンスが黙った。
「なぜ?」
「なぜ、わたくしがそう思っていると?」
「君は、ずっと私の側にいただろう」
「はい」
「私の仕事を支えてくれた」
「はい」
「私が必要とする前に、必要な資料を揃えてくれた。体調も気遣ってくれた。私が困れば助けてくれた」
イヴェットは黙って聞いている。
「舞踏会でも、王宮でも、ずっとそうだった」
「……はい」
「オクタヴィアとの婚約が終わった後も、君は変わらず私の側にいてくれた」
アルフォンスは少し声を落とした。
「私は、君も同じ気持ちなのだと思っていた」
イヴェットは数秒、瞬きもしなかった。
やがて静かに尋ねる。
「殿下」
「何だ」
「それは、義務でございます」
アルフォンスの表情が止まった。
「……何?」
「公爵家として必要な仕事を引き受けました。引き受けた以上、責任を持って処理いたしました」
「だが」
「殿下がお困りになれば、国政が滞ります。ですから必要な資料を用意いたしました」
「食事を気にしたのも?」
「午後の会議で集中力を落とされては困りますもの」
「茶は」
「毎日同じ物を召し上がっていれば、好みくらい覚えます」
アルフォンスの顔から、少しずつ自信が消えていく。
イヴェットは眉を寄せた。
「……殿下。まさか」
「何だ」
「この半年、わたくしが殿下のお側にいたことを、そのように受け取っておられたのですか?」
「違うのか?」
あまりにも素直に尋ねられ、イヴェットは返事に困った。
「違いますわ」
一言だった。
アルフォンスが椅子へ背を預ける。
「だが、君は王太子妃が担うべき仕事まで――」
「そこです」
今度はイヴェットが止めた。
「以前から気になっておりましたので、調べました」
机の端に置かれた書類を1冊取る。
「王太子妃が行うとされていた仕事の多くは、正式な職務ではございません」
「何?」
「慣例です」
イヴェットは書類を開いた。
「春の慈善市。若年貴族の交流会。地方令嬢の王都滞在時の取りまとめ。王家主催行事の一部調整。いずれも法律にも規則にも、王太子妃の職務とは記載されておりません」
「だが、代々」
「なさっていた。それだけです」
アルフォンスは黙る。
「オクタヴィア様は、そのようなお仕事をほとんどお引き受けになりませんでした」
イヴェットは少しだけ遠い目をした。
「『正式なお仕事でもないのに、なぜわたくしが?』と」
アルフォンスは額へ手を当てた。
いかにもオクタヴィアが言いそうだった。
「その結果、必要な仕事だけが、家格の同じ我が公爵家へ回ってまいりました」
「君は断らなかった」
「必要でしたから」
「だから私を支えた」
「国と公爵家に必要だったからです」
「私のためではなく?」
「殿下個人のためではございません」
アルフォンスは完全に黙った。
イヴェットも、そこで初めて少し居心地が悪くなった。
思い返せば、好きな茶を覚えていた。
食事を気にした。
疲れていれば会議を減らした。
舞踏会で踊ると楽しかった。
顔を見れば、今日は機嫌がいいのか悪いのか分かった。
それらすべてが、本当に義務だけだったかと言われれば。
「……では」
イヴェットが、少しだけ声を落とす。
「殿下は?」
アルフォンスが顔を上げた。
「あの花は」
「花?」
「わたくしが熱を出したときです」
イヴェットは珍しく視線を逸らした。
「舞踏会で最初に踊ってくださったことも。わざわざお見舞いへいらしたことも。すべて、王太子としてのご配慮ではなかったのですか?」
アルフォンスは、今度は迷わなかった。
「違う」
イヴェットが顔を上げる。
「君だからした」
胸の奥が、わずかに鳴った。
「君が倒れたと聞いて心配した。君が笑えば嬉しい。舞踏会では君と踊りたかった」
そこまで聞けば、分かる。
アルフォンスは本当に、自分を好いている。
おそらく本人が思っていた以上に。
イヴェットもまた、自分の中にある感情へ名前をつけかけた。
そのときだった。
「だからこそ、君なら王太子妃として――」
イヴェットの表情が戻った。
アルフォンスが止まる。
「……何だ?」
「殿下」
イヴェットは静かに立ち上がった。
「今、殿下はわたくしを褒めたのではございません」
「私は」
「家格が足りる。能力がある。国政を理解している。殿下のお仕事を支えられる」
1つずつ数える。
「そして、殿下への好意もあると思っておられた」
「それは」
「条件が揃ったから、空いた場所へ入れようとなさっただけです」
アルフォンスが眉を寄せる。
「そんなつもりではない」
「ですが、そう聞こえます」
イヴェットはまっすぐ彼を見る。
「わたくしは、オクタヴィア様の後任ではございません」
アルフォンスの顔が強張った。
「後任などと」
「では、なぜ今なのです?」
返答がない。
「オクタヴィア様との婚約が続いていた頃、殿下はわたくしへ求婚なさいましたか?」
「それはできないだろう。婚約者がいたのだから」
「ええ。そして、その席が空いた」
アルフォンスは言葉を失った。
イヴェットは責める口調ではなかった。
だからこそ、逃げられなかった。
「殿下がわたくしを好いてくださっていることは、今、初めて知りました」
「イヴェット」
「嬉しくないとは申しません」
その一言に、アルフォンスの目がわずかに動く。
「わたくしも、殿下を嫌ってはおりません」
「なら」
「ですが」
イヴェットは続けた。
「好意があることと、結婚したいことは同じではございません」
アルフォンスが、理解できないという顔をした。
「好きなのに?」
「好きなら、必ず嫁がなければならないのですか?」
「そういう意味では」
「義務を果たしたからといって、愛していることにはなりません」
イヴェットは自分へ言い聞かせるように続ける。
「責任を持って仕事をしたからといって、その方へ嫁ぎたいことにもなりません」
そして最後に。
「好意もまた、義務ではございませんわ」
長い沈黙が落ちた。
求婚の話は、国王にも伝わった。
もちろん詳細までは話さなかった。
「断られたか」
「はい」
「理由は」
「……私が、彼女自身ではなく王太子妃として見ていたからだと」
国王は何とも言えない顔をした。
「それは」
「私なりに彼女を見ていたつもりでした」
「つもり、か」
アルフォンスは黙った。
だが、王太子妃候補をいつまでも空席にするわけにはいかない。
数週間後。
別の候補として、エレーヌ公爵令嬢の名が上がった。
今度のアルフォンスは、以前より慎重だった。
能力だけではなく、本人の意思も確認した。
少なくとも、そのつもりだった。
「殿下」
エレーヌは話を最後まで聞いた後、静かに微笑んだ。
「ありがたいお話ではございます」
「では」
「お断りいたします」
アルフォンスは、今度こそ言葉を失った。
「理由を聞いても?」
「もちろん」
エレーヌは扇子を閉じる。
「わたくしは、オクタヴィアの予備ではございませんので」
「またそれか」
思わず漏れた。
エレーヌが眉を上げる。
「また?」
「いや」
アルフォンスは額を押さえた。
イヴェットだけではなかった。
そこでようやく、自分が何か根本的なところを間違えているのではないかと考え始めた。
海辺の街は、春の陽光に輝いていた。
新しい桟橋には小型船が並び、温泉街へ続く道には旅人が歩いている。
劇場の前では、翌週の演目を知らせる看板が掲げられていた。
アルフォンスは、その光景を馬車の窓から見ていた。
半年あまり。
それだけの時間で、オクタヴィアはもう新しい場所で生きている。
「まあ」
海を望むテラスで、オクタヴィアが扇子を広げた。
「殿下がいらっしゃるなんて珍しいですわね」
「話がある」
「でしたら、お茶をどうぞ。こちらの蜂蜜菓子、以前より日持ちするようになりましてよ」
「オクタヴィア」
「はい」
アルフォンスは正面へ座った。
「戻ってきてほしい」
オクタヴィアの手が止まる。
驚いたのは、一瞬だけだった。
「王都へ?」
「ああ」
「旅行でしたら参りますわよ」
「そうではない」
アルフォンスは言葉を選ぶ。
「君との婚約を、もう一度考えたい」
オクタヴィアが瞬いた。
「まあ」
怒らない。
笑いもしない。
ただ、本当に不思議そうだった。
「なぜですの?」
その問いを、このところ何度聞いただろう。
アルフォンスは答える。
「地方との関係を修復する必要がある」
オクタヴィアは黙って聞く。
「君の築いた関係も、信頼も必要だ。以前とは違う。今度こそ、君のやり方も尊重する」
「はい」
「国のために、戻ってほしい」
オクタヴィアはしばらくアルフォンスを見つめた。
そして、少し困ったように笑った。
「殿下が必要としているのは、わたくしではございませんわ」
アルフォンスの胸が沈む。
「わたくしがしていた仕事と、わたくしを信じてくださった方々でしょう?」
「君自身も必要だ」
「何のために?」
答えようとして、言葉が止まった。
王太子妃として。
地方との橋渡しとして。
王家にない人脈を持つ者として。
どれも、役割だった。
オクタヴィアはそれを見抜いたらしい。
「以前、殿下はおっしゃいましたわね」
「何を」
「周囲がわたくしを選んでいる、と」
アルフォンスは覚えていた。
「でしたら今度は、わたくしが何を選ぶのかも、少しくらい気になさいませ」
海から風が吹く。
オクタヴィアの金色の縦巻き髪が揺れた。
「わたくし、ここが好きですの」
港を見る。
「明日は新しい船が来ます」
劇場を見る。
「来週は悲恋劇を、少しだけ楽しい結末にしていただきました」
温泉街を見る。
「夏には北部から羊毛商の方々もいらっしゃいます」
そして笑う。
「忙しくて、とても王都へ戻っている暇がございませんわ」
アルフォンスはしばらく黙っていた。
「イヴェットにも断られた」
「まあ」
「エレーヌにも」
「まあまあ」
「なぜ嬉しそうなのだ」
「嬉しそうではございませんわ。興味深いだけですの」
オクタヴィアは蜂蜜菓子を1つ取った。
「殿下」
「何だ」
「婚約は、人事異動ではございませんのよ」
アルフォンスは何も言えなかった。
「王太子妃が空いた。では次の方を」
オクタヴィアは菓子を割る。
「この方なら仕事ができる。この方なら家格も足りる。この方なら殿下を支えてくださる」
半分を口へ入れる。
「そのようにお考えになるから、おかしくなるのではなくて?」
「では」
アルフォンスは、ようやく尋ねた。
「私はどうすればよい」
オクタヴィアは少し考えた。
そして明るく答えた。
「まずは、婚約者のいない王太子として、ご自分のお仕事をなさればよろしいのではなくて?」
あまりにも単純な答えだった。
アルフォンスは、しばらく海を見た。
王都へ戻ったイヴェットは、自分の公爵家へ回ってきた仕事をすべて机へ並べた。
慈善市。
地方令嬢の滞在支援。
若年貴族家の交流調整。
各領との緊急連絡。
王家主催行事の一部実務。
その多くに、正式な担当がなかった。
「これを全部、整理なさるのですか?」
官吏が青ざめた。
「ええ」
「ですが、これまでは王太子妃殿下が」
「いらっしゃいません」
「将来は」
「将来どなたが王太子妃になられても、その方がする必要はございません」
イヴェットは新しい文書を開いた。
必要な仕事なら、職務にする。
職務なら、権限を与える。
権限を与えるなら、責任範囲を決める。
報告先。
任期。
予算。
代行者。
すべて明文化する。
そして、その中の1つ。
地方間調整と緊急支援制度の運用を担う新しい官職について、イヴェットは自ら志願した。
アルフォンスは任命書を前に、彼女を見る。
「本当に引き受けるのか」
「はい」
「仕事は増えるぞ」
「存じております」
「結婚は断ったのに」
イヴェットは少し笑った。
「国へ仕えることと、殿下へ嫁ぐことは同じではございません」
アルフォンスも、今度は苦笑した。
「ようやく分かってきた」
「でしたら結構です」
「だが」
「はい?」
「君が好きなことまで、間違いだったとは思っていない」
イヴェットは一瞬だけ黙る。
「……そうですか」
「君は?」
「それは職務上、回答する必要がございます?」
アルフォンスが目を見開く。
イヴェットは珍しく、少しだけ楽しそうに笑った。
「ございませんでしょう?」
「ないな」
「では、申し上げません」
その日の夕方。
海辺から、大きな箱が届いた。
中には蜂蜜菓子と手紙。
『イヴェット様。
新しいお役目がお決まりになったそうですわね。
ようやく、ご自分でするお仕事をお選びになりましたのね。
おめでとうございます。
ただし、選んだからといって全部ご自分でなさっては駄目ですわよ。
バーナデットがものすごく怖い顔で、この一文だけは絶対に書けと申しております。
追伸。
王太子殿下にも1つくらい分けて差し上げてくださいませ。
全部召し上がっても構いませんけれど!』
イヴェットは手紙を読み終えた。
箱の中には、蜂蜜菓子が12個。
しばらく考えてから、1つだけ別の皿へ移す。
「殿下へお届けしてください」
侍女が尋ねる。
「1つだけでよろしいのですか?」
「十分ですわ」
そして自分は、もう1つ取った。
甘い蜂蜜の香りが広がる。
半年あまり。
ずっと王太子の側にいた。
その時間を後悔してはいない。
義務だったこともある。
責任だったこともある。
好意だったことも、きっとある。
けれど、それらは全部、同じものではない。
だからこそ。
何を引き受けるか。
誰の側にいるか。
その先をどうするか。
決めるのは、自分でよい。
イヴェットは温かい茶を一口飲み、次の書類を開いた。
王太子妃の席は、今日も空いている。
けれど国は、何の問題もなく動いていた。
前作の続きですが、これだけで成り立つようにはなってるはず。笑
オクタヴィアがいなくなったあと、王都に残ったイヴェットはどうするのかな、と考えていたらこうなりました。
前作では「信頼は引き継げない」でしたが、今回は、
義務を果たすこと。
責任を持つこと。
誰かを好ましく思うこと。
その人と結婚したいと思うこと。
この辺りは全部、似ているようで別のお話だよなぁ、というところから書いています。
なお、アルフォンスとイヴェットはたぶん普通にお互い好意があります。
それでも結婚するかどうかは、また別のお話。
そしてオクタヴィアは相変わらず海辺で楽しそうです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




