第16話:街への買い出しは戦術的撤退のはずが。最強の護衛付きでは心休まる暇がありません!
『単独での自主練禁止令』が発令されてから、数日が経過した。
「いーちっ! にーっ! さーんっ!」
中庭での早朝の素振り。
私のすぐ隣には、腕を組んで鋭い視線を送るヴァルター様の姿がある。
(……ち、近いです! 師匠!)
そして午後、自室での刺繍の時間。
なぜかヴァルター様も分厚い軍学書を持ち込み、私の向かいのソファにどっかりと座って読書をしている。
(いくら何でも過保護すぎませんか!? 私、今ただ布に針を刺しているだけですよ!?)
常に視界の端に、美貌の死神公爵がいる生活。
恋心を自覚してしまった今の私にとって、この逃げ場のない二十四時間密着生活は、心臓への負担が大きすぎた。
四六時中ドキドキしっぱなしで、夜もまともに眠れない。
(このままじゃ、実戦の前に私の心臓が過労で止まってしまうわ……っ!)
私はついに限界を迎え、一つの『戦術的撤退』を計画した。
「し、師匠! 私、明日は街の市場へ買い出しに行ってまいります!」
夕食の席で、私は意を決して宣言した。
「買い出しだと?」
「はい! 特訓に使う傷薬のハーブや、修練着の破れを直すための丈夫な糸が足りなくて。マーサや護衛の騎士を数名連れて行きますから、師匠はどうかお城でゆっくりと執務を――」
「駄目だ」
食い気味の、即答だった。
「辺境の街は荒くれ者も多い。先日魔獣を仕留めたとはいえ、お前はまだ実戦経験が浅すぎる。俺が同行する」
「ええっ!? そ、そんな、公爵閣下である師匠が、ただの糸を買いに行くのにわざわざ……っ」
「糸だろうが何だろうが、俺の弟子の安全には代えられん。それに、人混みでの警戒や索敵も立派な訓練だ」
(あああっ、大義名分を盾に退路を断たれてしまったーっ!)
かくして翌日。
私は休まるどころか、城の中よりもさらに緊張する状況で、辺境の街の市場を歩くことになってしまった。
「……すごいですね、活気があります」
通りにはずらりと屋台が並び、商人たちの威勢のいい声が響いている。
だが、私たちの周囲だけは、まるで海が割れるようにスパーンッと道が開いていた。
それもそのはず。
私の隣を歩くヴァルター様は、黒の外套を羽織り、腰には長剣を帯びた完全武装。
その全身から放たれる『氷の死神』の圧倒的な覇気に、街の住人たちが震え上がり、道端で直立不動になっているのだ。
(これじゃあ、ゆっくり買い物なんてできない……っ)
「ルナリア、よそ見をするな。人混みではどこからスリや間者が狙ってくるか分からんぞ」
スッ。
不意に、私の右手が、分厚くて温かい手でしっかりと握り込まれた。
「ひゃうっ!?」
「はぐれないように、しっかり掴まっていいぞ」
耳元に落ちる、低い声。
繋がれた手から、彼の高い体温が流れ込んでくる。
ドクンッ!!!! ドクンッ!!!!
(だ、駄目です! 手! 外で手をつなぐなんて……っ!)
顔が一気に熱くなる。
以前の私なら「これは人混みでの拘束離脱訓練ね!」などと無理やり思い込めたのに。
今はもう、ただ「好きな人に手を繋がれて嬉しいし恥ずかしい」という感情しか湧いてこない。
「あ、あの、師匠。私、もう子供じゃないので、手は……」
「駄目だ。お前の歩幅ではぐれたら、見つけるのに苦労する」
そう言って、彼は私を少しだけ引き寄せ、ご自身の大きな身体で人混みの波から私を庇うように歩き始めた。
(……ううっ、かっこいい。師匠がかっこよすぎて辛い……)
私は真っ赤な顔を下に向けて、大人しく彼に引かれて歩くしかなかった。
その時だった。
『おい! 荷車が横転したぞ! 逃げろ!!』
前方から、商人たちの焦ったような怒声が響いた。
ハッとして顔を上げると、坂道の上から、木箱を山積みにした巨大な荷車が、バランスを崩してこちらへ向かって猛スピードで滑り落ちてくるのが見えた。
「えっ!?」
木箱の山が崩れ、無数の重い荷物が、私の頭上へと降り注いでくる。
(危な――っ!)
私が短剣に手を伸ばすよりも早く。
ドンッ!!
強い力で腕を引かれ、私は硬くて温かい胸板の中にすっぽりと閉じ込められた。
同時に、ガシャァァァンッ!! という凄まじい破壊音が通りに響き渡る。
「……っ!」
砂埃が舞う中、私は恐る恐る目を開けた。
私の頭上には、ヴァルター様が覆い被さるようにして盾となってくれていた。
崩れ落ちてきた重い木箱は、彼が片手で抜いた剣の腹で完全に弾き飛ばされ、私の身体にはかすり傷一つついていなかった。
「……怪我はないか、ルナリア」
頭上から降ってくる、落ち着いた低い声。
私を抱きしめる彼の腕は、信じられないほど力強く、そして優しかった。
「は、はい……師匠が庇ってくださったので……」
「ならいい。まったく、これだからお前を一人で外へは出せん」
彼はふうっと安堵の息を吐くと、私を抱き寄せたまま、ポンポンと私の頭を撫でた。
(ああ、もう。本当に……敵わないわ)
「これは不測の事態における防衛訓練よ」なんて、もう絶対に言えない。
私を心配して、真っ先に身を呈して守ってくれるこの不器用な優しさが。
恋心を自覚した今の私には、どんな猛特訓よりも心臓に悪かった。




