第13話:密室での戦術講義。耳元での囁きは聴覚への妨害工作……と、思い込むには限界があります!
昨日の馬術訓練から一夜が明けても、私の身体は明らかにおかしかった。
(……熱い。まだ、背中に師匠の胸板の感触が残ってる……っ)
朝の素振りを終え、今はヴァルター様の書斎で辺境の地形図を広げているというのに。
私の頭には、戦術の解説が全く入ってきていなかった。
「……辺境の森の地形は複雑だ。特にこの谷底は死角になりやすい。魔獣の奇襲を受けるならここだ」
私の背後に立ち、テーブルの上の地図を指差すヴァルター様。
その声が耳元に落ちるたび、昨日馬上で言われた『俺の腕の中で前だけを見ていればいい』という言葉がフラッシュバックして、カァァッと顔が熱くなる。
(ち、近いです! 師匠! 地図を指差すために身を乗り出しているから、完全に私を背後から包み込む体勢になってます……っ!)
落ち着け、ルナリア。
これはただの座学だ。師匠は、弟子に正しい地形を教えるために地図を見ているだけ。
なら、どうしてそんなに吐息がかかるほどの距離で喋るの!?
(……そうだわ! きっとこれは『戦場における、敵の聴覚妨害に対する集中力維持の訓練』なんだわ!)
耳元でわざと低い、なんだか甘い(ように聞こえる)声を出して、指揮官である私の判断力を奪おうとしているのだ!
ここでドキドキして集中を切らしてしまえば、部隊は谷底で奇襲を受けて全滅してしまう!
「……っ、騙されません!」
「……ん?」
「どれだけ耳元で低音を響かせても……私は絶対に、地形図から目を逸らしたり……っ」
宣言しようとして、ふと真横に視線を向けてしまった。
至近距離。
真剣な表情で地図を見つめる、ヴァルター様の端正な横顔があった。
長いまつ毛と、スッと通った鼻筋。そして、少しだけ開いた薄い唇。
(……あ、だめだ。やっぱり、かっこいい……)
ドクンッ!!!!
私の心臓が、これまでで一番大きな音を立てて跳ねた。
「ルナリア」
「ひゃいっ!?」
不意に名前を呼ばれ、肩がビクッと跳ねる。
「……さっきから全く図を見ていないな。どこか具合でも悪いのか?」
ヴァルター様が地図から手を離し、私の顔を正面から覗き込んできた。
心配そうに少しだけ眉をひそめた、氷結の青い瞳。
それが至近距離にあるだけで、心臓がトクトクと煩い音を立て、息が苦しくなる。
「い、いえ! 具合なんて悪くありません! ちゃんと聞いてます!」
「嘘をつけ。顔が真っ赤だぞ」
スッ、と。
剣ダコのある大きくて温かい手が、私の額に伸びてきた。
前髪を軽くかき上げられ、彼の掌がピタリと額に当てられる。
「っ……!!」
「……熱があるな。昨日の馬術で風に当たりすぎたか。今日の特訓は中止だ、部屋に戻って休め」
彼の手から伝わる温もりが、私の熱をさらに急上昇させていく。
私を気遣う、その不器用な優しさ。
もう、強引な勘違いでこの動悸を誤魔化すのは限界だった。
(あ、あああ……駄目、師匠の顔が、直視できない……っ!)
「し、師匠の講義が熱を帯びていたから、私の脳もオーバーヒートしただけです! 失礼します!!」
私は椅子からガタッと立ち上がると、真っ赤になった顔を両手で隠し、逃げるように書斎を飛び出した。
「おい、ルナリア! 廊下を走ったら転ぶぞ!」
背後から聞こえる、どこまでも過保護な注意の声に、さらに胸がギュッと締め付けられる。
自室に駆け込み、ベッドにダイブして、枕に顔を強く押し付けた。
(どうしよう……これじゃあ、明日の特訓、師匠の顔をまともに見られないわ……!)
本物の戦場を乗り越え、魔獣の恐怖にも打ち勝ったというのに。
ただの飾りの妻だった私の心臓は、ここに来て全く別の『未知の強敵』の前に、完全な敗北を迎えようとしていた。




