第8話 戻らない砂時計
クライン王国が地図から消えたという報せが届いたのは、私たちの婚礼を数日後に控えた朝のことだった。
かつての婚約者、ジュリアン様は多額の負債を抱えたまま、かつての民たちに追われて行方不明に。マリア様は、身を寄せた先の修道院で一生を贖罪に捧げることになったという。
三度の人生で私を殺し、追い詰めた人たちの末路。
けれど、それを聞いても私の心にはさざ波一つ立たなかった。
今の私には、彼らのことを思い出す時間さえもったいないほど、注がれる愛が重く、温かかったからだ。
「……エルゼ。まだ準備が終わらないのか? あと五分、君の顔を見ないと私の心臓が凍りつきそうだ」
控え室の扉が、ノックもなしに開く。
そこには、帝国の正装を纏ったレオナルト様が立っていた。
漆黒の生地に金糸の刺繍が施された軍装姿は、冷徹な「氷の皇帝」そのものだ。けれど、私に向けられるその眼差しだけは、春の陽光よりも柔らかい。
「陛下、婚礼の前に新婦の部屋へ押し入るなんて、帝国のマナーに反しますわ」
「マナーなど、私が決めるものだ。それに、今の私は陛下ではない。ただ、君に焦がれて二百年以上を彷徨った、一人の愚かな男だ」
彼は私の背後に回り、鏡越しに私を抱きしめた。
今日、私が纏っているのは純白のウェディングドレス。けれど、ベールを留めるブローチには、彼の瞳と同じ色の、ひときわ大きな碧い魔石が輝いている。
「……綺麗だ、エルゼ。本当に、君がここにいるんだな」
彼の大きな手が、私の頬をそっとなぞる。その指先がわずかに震えているのを、私は知っている。
二百四十八年。九回の人生。
彼はこの瞬間のために、気が遠くなるほどの孤独と絶望を積み上げてきたのだ。
私の四回目のループよりも多く彼しか知らない時を超えてここにたどり着いた、たった一人の私の王子様。
「ええ。もう、どこにも行きませんわ」
私は向き直り、彼の広い胸に顔を埋めた。
上着の下にある、あの醜くも愛おしい「死の傷」。
彼が私の代わりに背負ってくれたすべての痛み。
それを癒せるのは、世界で私一人だけなのだ。
◇
婚礼の儀は、帝都全土が歓喜に沸く中で執り行われた。
大聖堂へと続く道には、彼が私のために用意した「青い薔薇」の花びらが敷き詰められ、何万という帝国の民が、新しい皇后――王国から来た「追放令嬢」を、救世主のように称えた。
「氷の皇帝を溶かした、真の女神だ!」
「エルゼ様、万歳! 皇帝陛下に愛を教えてくれた方!」
あちこちから飛ぶ祝福の声。
王国では、私はいつも石を投げられる側だった。毒婦、悪女、高慢な令嬢。
けれど、レオナルト様の隣にいる今の私は、ただの「愛されている女性」でしかなかった。
祭壇の前で、私たちは誓いの言葉を交わした。
レオナルト様が私のベールを上げ、深い口付けを落とす。
その瞬間、大聖堂の鐘が鳴り響き、私の心の中にあった最後の「死の恐怖」が、光に溶けて消えていくのが分かった。
(ああ、私、本当に生きているのね)
◇
その日の夜。
お祭り騒ぎの城から離れ、私たちは二人きりで離宮のテラスにいた。
夜空には満天の星。そして、足元には夜目にも鮮やかな青い薔薇が咲き誇っている。
「……レオナルト様。まだ、私のことが不安ですか?」
隣に座る彼が、私の指を一本ずつ確かめるように握りしめていたので、私はクスリと笑って尋ねた。
「……正直に言えば、そうだ。明日、目が覚めたら、またあの図書室のテラスで君に『はじめまして』と言われるのではないか。あるいは、君が冷たくなっているのではないか……。その恐怖は、私の魂に深く刻まれすぎている」
彼は自嘲気味に笑い、私の肩に頭を預けた。
皇帝としての仮面を脱いだ彼の顔は、ひどく疲れていて、けれど幸福に満ちていた。
「なら、賭けをしませんか?」
「賭け?」
「はい。これから数十年、私たちが天寿を全うするその日まで。私が一度も貴方の前から消えず、誰よりも長生きして、貴方の最期を看取る。……もし私が勝ったら、貴方は二度と『時の祭壇』へは行かないと約束してください」
レオナルト様は、驚いたように目を見開いた。
そして、私の手を引き寄せ、掌に深く口付けた。
「……その賭け、私が勝つ可能性はないな。君が先に死ぬ未来など、想像しただけで私は狂ってしまう」
「いいえ。私が勝ちますわ。貴方の重すぎる愛が、私の命を繋いでくれていますもの。……ほら、見てください」
私は彼の背中に手を回し、服の上からあの傷跡をなぞった。
「この傷は、もう痛みません。貴方が私を救ってくれたから。……これからは、傷跡を増やすためではなく、思い出を増やすために時間を使いましょう」
レオナルト様は、私の言葉を噛みしめるように目を閉じ、そして、子供のように声を殺して泣き始めた。
二百四十八年分の涙。
独りで背負ってきた孤独な歳月。
それが、私の腕の中でようやく洗い流されていく。
「……愛している、エルゼ。君に会うために、私は生まれてきた。……たとえ世界が何度終わっても、私は君を見つける」
「私も愛していますわ、レオナルト様。……さあ、砂時計を止めて。私たちの『本当の人生』は、ここから始まるのですから」
夜風が、二人の吐息を優しく攫っていく。
もう、時間を巻き戻す必要はない。
繰り返される死も、届かない叫びも、すべては今この瞬間の幸福に繋がるためのプロローグだった。
帝国の長い冬が終わり、暖かい春の風が吹き抜ける。
テラスに咲く青い薔薇は、月光を浴びて、永遠の愛を祝福するように静かに揺れていた。
――もう、二度と、時は戻らない。
なぜなら、今この瞬間が、彼の歩んできたすべての時間の中で、最も美しい完成形なのだから。
(完)
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