第7話 248年の孤独な記憶と君がくれた光
背中に触れる、エルゼの指先が震えている。
私の醜い傷跡――彼女がかつての人生で受けた「死の痛み」が転写された刻印を見て、彼女は言葉を失っている。
話すべきか、迷った。この真実は、あまりに重く、あまりに独りよがりな執着の記録だ。だが、彼女の瞳に宿る不信と悲しみを見て、私は悟った。もう、隠し通すことはできないのだと。
「……話そう。私がなぜ、君をこれほどまでに知っているのか。そして、なぜ君を二度と離さないと誓ったのか」
私は彼女を抱き寄せ、静かに語り始めた。
それは、彼女が全く知らない――けれど、私の魂には焼き付いて離れない、最初の人生の記憶から。
◇
二百四十八年前。私の最初の人生は、今とは全く異なるものだった。
当時の私は、冷酷無比な皇帝として名を馳せていた。政略結婚で娶った妻がいたが、愛などなかった。彼女は帝国の安寧のために尽くし、そして流行り病で若くして命を落とした。
私は悲しまなかった。ただ「便利な道具を失った」とさえ思っていた。私は孤独に、ただ国を強くすることだけに没頭し、気づけば四十を過ぎていた。
そんな折、外交の場で出会ったのが、まだ二十歳そこそこの公爵令嬢だった君――エルゼだ。
当時の君は、今と同じように、クライン王国の第一王子の婚約者だった。
だが、君はすでに疲れ果てていた。国のためにすべてを捧げ、王子からは疎まれ、それでも凛として微笑む君の姿に、私は生まれて初めて心を奪われた。
「陛下。帝国の雪は、そんなに美しいのですか?」
雨の日の王宮のテラスで、君がふと漏らした言葉。
私は君を帝国へ連れて行きたかった。孤独な私の余生に、君という光を灯したかった。だが、君は「私には義務がありますから」と笑って、私の手を取ることはなかった。
その後、君はあのクズ王子とマリアの手によって、ありもしない不敬罪を着せられ、処刑された。
報せを聞いた時、私は狂った。
なぜ、もっと強引に君を奪わなかったのか。なぜ、君をあんな泥沼に放置したのか。
私は、帝国の地下深く、歴代の皇帝が封じ込めてきた「時の祭壇」へと足を踏み入れた。己の魂を薪にして、時間を巻き戻す禁忌の術。
「もう一度。もう一度だけ、彼女が笑う世界を……」
それが、私の長い、長い絶望の旅の始まりだった。
◇
二周目、三周目、四周目……。
私は若返った体で、君を救うためにあらゆる手を尽くした。
ある時は君に真っ先に求婚し、ある時は王国を経済的に破滅させて無理やり君を買い取り、ある時は暗殺者として君の身辺を密かに守った。
だが、運命という名の呪いは執拗だった。
私が君に近づけば近づくほど、王国の連中は君を「帝国のスパイ」だと疑い、より過酷な方法で君を殺した。
君にとっての二周目は毒殺。三周目は暗殺。四周目は、逃亡中の事故。
君が死ぬたびに、私の背中には君が負った「死の傷」が刻まれた。この術の代償は、救おうとした相手の苦痛を、術者がすべて引き受けなければならないというものだったからだ。
君は毎回、私のことを忘れていた。
当然だ。時間を巻き戻しているのは私だけなのだから。
「はじめまして、バルシュタイン皇帝陛下」
その言葉を聴くたびに、私の心臓は千々に裂けた。
私は君を愛し、君と何度も語り合い、君の死を何度も看取ってきた。それなのに、君にとって私はいつも「初対面の、少し不気味な隣国の皇帝」でしかなかった。
君の好みを熟知しているのは、君が五周目の人生で、私から逃げる途中にこぼした「本当はダマスク・ゴールドのお茶が好きなんです」という言葉を覚えていたからだ。
君の部屋を青い薔薇で満たしたのは、七周目の君が、死の間際に「一度でいいから、夢のような青い花に囲まれてみたかった」と呟いたからだ。
私は、君の屍の上に、今のこの完璧なおもてなしを築き上げた。
君が何を好み、何を嫌い、何に絶望するか。
八回の失敗が、私を「完璧な理解者」に変えたのだ。
八周目の最後。私は絶望していた。
何をしても君は死ぬ。私が助けに行けば、それが原因で君はより惨めに殺される。
ならば、九周目は――。
「……君が、自分の足で私のところへ来るまで、私は動かない」
そう決めた。
私は八回の人生で得た知識を総動員し、スパイを放ち、君が「国外追放」という選択肢を選べるように、裏で糸を引いた。王国の経済を圧迫し、公爵家の資産を浮かせ、君が逃げるための準備を整え、ただじっと待った。
国境の門が開いたあの日。
霧の中から、君が現れた時。
私は、騎士たちの前だというのに、膝の震えを抑えることができなかった。
ようやく、君が来てくれた。
私が救いに行くのではなく、君が自らの意志で、私の腕の中に飛び込んできてくれた。
二百四十八年。
独りで時を渡り続け、君の死顔だけをコレクションしてきた私の旅が、ようやく終わったのだと確信した。
◇
「……エルゼ。これが、君の知らない真実だ」
私は、彼女の手を握った。
彼女の顔は、驚きと困惑で青ざめている。
当然だろう。出会ったばかりだと思っていた男から、「君を救うために何百年もループしていた」などと言われて、信じられるはずがない。
「陛下……。それでは、貴方は……私のために、何度も……何度も……?」
「ああ。私の背中の傷は、私の勲章だ。君を守れなかった罰であり、君を愛し抜いた証だ」
私は彼女をさらに強く抱きしめた。
彼女には、記憶などなくていい。
彼女は、ただ、この新しい人生で、初めての恋をして、初めての幸せを享受してくれればそれでいい。
過去の惨劇はすべて、私が背負っていけばいいのだから。
「……でも、陛下。私は、何も覚えていないのに。そんなに想われても、私は、貴方の知っている『エルゼ』ではないかもしれないのに……」
エルゼの声が、涙に濡れている。
私は、彼女の額に優しく口付けた。
「今の君が、最高だ。君が生きている、それ以上の価値などこの世にはない。……君が私を忘れていても、私が君を覚えている。それで十分だ」
彼女の体温が、私の胸に伝わってくる。
二百四十八年の孤独。
報われない努力。
繰り返される死。
そのすべてが、今、この瞬間の彼女の吐息によって、報われていく。
「……エルゼ。もう、君を独りにはさせない。死が二人を分かつまで……いいや、死が来ても、私はまた時間を巻き戻して君を捕まえに行く」
私の狂ったような独占欲に、彼女は怖がるどころか、ふっと力なく笑った。
そして、私の背中の傷に、そっと手を添えた。
「……そんなに苦労されたのなら、もう、巻き戻さなくて済むようにしなくてはいけませんね」
「……エルゼ?」
「私、決めました。陛下。……いえ、レオナルト様。私は、貴方の隣で、絶対に長生きして見せます。貴方が二度と『祭壇』へ行かなくていいように。世界で一番幸せな妻になって、貴方を困らせてあげますわ」
その言葉に、私は目を見開いた。
八回の人生で、一度も聞いたことのない言葉。
彼女は記憶はなくとも、私の魂の叫びに応えてくれたのだ。
私は、こらえきれずに涙を流した。
二百年以上、一度も流せなかった涙が、彼女の温もりの中で溢れ出した。
外では、雪が激しさを増していた。
けれど、私の心には、あの日テラスで彼女が見せてくれた、雨上がりの虹のような光が差し込んでいた。




