第4話 元いた国からの刺客
帝都・バルシュタイン城での生活は、三度の人生で一度も経験したことのないほど穏やかで、毒気がなかった。
朝、目覚めれば肌触りの良いシルクの寝具に包まれ、熟練の侍女たちが私の体調を気遣いながら、至れり尽くせりの世話をしてくれる。
食事はどれも私の好みを完璧に捉え、私が「少し甘すぎる」と感じる前に、味付けが調整される。
あまりに完璧すぎて、時折、背筋が寒くなるほどだった。
「……陛下。あの、本当に、どうして私の『今の気分』まで分かるのですか?」
テラスでの朝食中、私は思わず尋ねた。
今朝のサラダに使われているドレッシングは、私が王国で一度だけ、母の誕生日に作ってもらった懐かしい家庭の味に酷似していた。スパイが調べられる範疇を、とうに越えている気がする。
「……君の表情を見ていれば分かる。君が左の眉をわずかに寄せた時は、味が濃い。右の口角が少し上がった時は、満足している。……それだけ、私は君を注視しているということだ」
レオナルト様は、優雅に珈琲を啜りながらさらりと言った。
その視線は、相変わらず私の唇や指先にまで絡みつくようで、熱い。
……注視。そんな言葉で片付けられるレベルなのだろうか。
そんな奇妙な平穏を破るように、一人の騎士が慌ただしくテラスへ現れた。
「陛下、失礼いたします! 国境より緊急の報告が。――クライン王国より、特使と称する一団が到着いたしました」
私の指先が、ぴくりと跳ねた。
王国。ジュリアン王子。
その単語を聞くだけで、首筋にギロチンの刃の冷たさが蘇る。
「……ふん、思っていたより一日遅かったな。もっと早く泣きついてくるかと思っていたが、よほどプライドが邪魔をしたらしい」
レオナルト様は驚く様子もなく、むしろ退屈そうに鼻を鳴らした。
一日遅かった?
まるで、彼らが来るのが分かっていたかのような言い草だ。
「陛下。彼らの目的は、おそらく……」
「分かっている、エルゼ。……私から君を奪い返そうという、身の程知らずな相談だろう。……安心しろ、君が嫌がることは何一つさせない」
彼は立ち上がり、怯える私の肩を抱き寄せた。
その腕の力強さが、今は何よりも頼もしかった。
◇
謁見の間には、見覚えのある顔が並んでいた。
王国の宰相代理と、ジュリアン王子の側近である若き騎士たち。
彼らはレオナルト様の前に傅きながらも、その背後に隠れる私を見つけるなり、安堵と傲慢さが入り混じった表情を浮かべた。
「エルゼ様! お探しいたしましたぞ! さあ、こちらへ。殿下も大変お怒り……いえ、ご心配されております。すぐに王国へ戻り、滞っている事務作業を再開していただかねば」
宰相代理が、さも当然のように私に手を差し伸べる。
まるで行方不明になった飼い犬を呼び戻すような、無遠慮な態度。
私はレオナルト様の服の裾を、ぎゅっと握りしめた。
「……私が、戻る? 冗談をおっしゃらないでください。私は国外追放を言い渡された身ですわ。もう、あの国に私の居場所はありません」
「はっはっは! あれは殿下の一時の気の迷いです。エルゼ様がいなくなってから、城の予算管理も外交文書の翻訳も、すべて止まっておるのです。マリア様も『お姉様がいないと寂しい』と仰っております。さあ、公爵令嬢としての義務を果たしてください」
義務。
その言葉が、私の胸に鋭く突き刺さる。
三度の人生で、私を呪い、私を殺してきた言葉。
言い返そうとした私の前に、レオナルト様が音もなく踏み出した。
「――ほう。我が国の賓客に対し、随分と無礼な物言いだな」
その瞬間、謁見の間の温度が数度下がったかのような錯覚に陥った。
レオナルト様の放つ威圧感は、王国の騎士たちの比ではない。
「れ、レオナルト陛下。これは我が国の『内政問題』でございます。その娘は我が国の重罪人……いえ、重要参考人であり……」
「重罪人? 国外追放の受理書に、ジュリアン王子自らサインをした書類がここにあるが。――これを見ても、まだ内政問題だと言い張るのか?」
レオナルト様が合図すると、側近がヒラリと一枚の書類を突きつけた。
それは、私が夜会会場で王子にサインさせた、あの受理書だ。
「な……なぜ、それを帝国の皇帝陛下がお持ちなのですか!?」
「君たちが彼女を追い出した瞬間に、私はこの書類の権利と、彼女の身柄の安全を『買い取った』からだ。――ついでに、君たちが帝国に負っていた数億セスタの債務もな」
宰相代理の顔が、一瞬にして土気色に変わった。
「債務、の……一括返済については、先日通達したはずだ。払えないのであれば、君たちの国の北部の領土を、彼女への慰謝料として頂くことにしている。……文句はないな?」
「そ、そんな……! そのような暴論が通るはずが……!」
「通るさ。力がすべてを決定する。……それとも、今ここで私と戦争でも始めるか? 君たちの国の騎士団が、我が帝国の魔導部隊に何秒耐えられるか、賭けてみてもいいが」
レオナルト様が冷たく微笑むと、彼が腰に差した剣から、恐ろしいほどの魔力が漏れ出した。
王国の騎士たちは腰を抜かし、無様に床にへたり込む。
「……エルゼ。こいつらをどうしたい? 首を撥ねて王国の門に吊るすか? それとも、地下牢で一生後悔させるか? 君の望む通りにしてやろう」
私を見つめる彼の瞳は、先ほどまでの熱い愛おしさは消え失せ、底なしの暗い殺意で満たされていた。
私は、震える声で答えた。
「……いえ。殺す価値もありません。ただ、二度と私の前に現れないようにしてください」
「……慈悲深いな、我が妻は」
レオナルト様は私の頭を優しく撫でると、一転して冷徹な目で王国の一団を射抜いた。
いつの間にか妻ということにされてしまっていた。
「聞いたな。――失せろ。次、我が国の領土にその汚らわしい足を踏み入れた瞬間、君たちの国は地図から消えると思え」
王国の特使たちは、悲鳴を上げながら、這うようにして謁見の間を逃げ出していった。
その無様な姿を見て、私は初めて、胸のつかえが少しだけ取れたような気がした。
◇
特使たちが去った後、レオナルト様は私を強く抱きしめた。
「陛下……ありがとうございました。でも、あんなに強引なことをして、外交問題になりませんか?」
「問題ない。あんな腐りかけの国、潰れるのは時間の問題だ。……それより、エルゼ。怖かったか?」
彼は私の顔を覗き込み、心配そうに眉を寄せる。
その表情は、先ほどの魔王のような威圧感とは似ても似つかない、ただ一人の女性を想う男の顔だった。
「……怖かったです。でも、陛下がいてくださったから、大丈夫でした」
「ああ。これからも私が、すべてをなぎ倒してやる。君はただ、私の隣で笑っていればいい」
彼は私の額に、誓うように口付けた。
……けれど、私は気づいてしまった。
彼が王国側の使者が来る時間を「一日遅い」と言ったこと。
彼らが「内政問題」という言葉を使うことを予想していたかのような、隙のない書類の準備。
(陛下は、どうしてそんなに『未来』が見えているかのように振る舞えるの……?)
彼の深い愛の裏側にある、底知れない謎。
それが、私の三度の「死」の記憶と、どこかで繋がっているような予感がしてならなかった。




