第3話 冷酷皇帝の愛は重い
「……ここは、本当に客室、なのですか?」
案内された部屋の扉が開いた瞬間、私は自分の目を疑った。
そこは「客室」と呼ぶにはあまりに広く、あまりに豪奢で、そして――あまりに「私好み」すぎた。
壁紙は、私がひっそりと憧れていた落ち着いたペールブルー。家具は、王国では手に入らない最高級の白檀材。そして部屋の隅々には、私がかつて「いつかこんな香りに包まれて暮らしたい」と、三度目の人生……いいえ、数年前の独り言で漏らしたはずの、幻の香料『リリアの涙』の香りが漂っている。
「気に入らないか? もし不満があるなら、今すぐ壁を剥がして別の色に塗り替えさせるが」
「いえ、そうではなくて! あの、どうして……。これ、私が欲しかったものばかりです。それにこの香料、王国でもほとんど流通していないはずなのに」
私が混乱して振り向くと、レオナルト様は当然のような顔で私の髪に触れた。
その指先は驚くほど優しく、けれど絶対に逃さないという強い執着を含んでいる。
「言っただろう、君のことは全て把握していると。君が王国の窮屈な社交界で、どんな色の宝石を避けていたか。どんな硬さの枕を好んでいたか。……君をこの腕に抱く日のために、数年前からこの部屋を準備させていた」
「……数年前、ですか?」
眩暈がしそうだった。
帝国と王国は、険悪ではないにせよ、まともな国交などなかった。それなのに、彼は私が「国外追放」されるずっと前から、私のプライベートな嗜好を調べ上げ、私のための「檻」ならぬ「城」を築いていたというのか。
(この人は……ただの皇帝じゃない。とんでもないレベルの、執念の塊だわ)
恐ろしいはずなのに、不思議と嫌な気はしなかった。
三度の人生で、私は常に「誰かのため」に生きてきた。王子のために無実を訴え、王国の安定のために冷遇に耐え、泥を舐めて死んだ。
そんな私を、ここまで偏執的に、狂おしいほどに見つめ続けてくれた人が他にいただろうか。
「……陛下。私は、ただの『追放された女』です。陛下が望むような、政治的な価値も、若々しい情熱も……もう、枯れ果てているのですけれど」
「価値など、君が生きているだけで十分だ。政治的な利益? そんなものは君の笑顔一つより軽い」
レオナルト様は、私の手を引き、ベッドに座らせた。
彼自身もその横に腰を下ろし、私の肩に頭を預けてくる。
「これからは、何も考えなくていい。君を害する者は、私がすべて排除した。君はただ、この城で一番美しい花として、私の愛を浴びていればいいんだ」
低く、心地よい声。
四回目の人生。ようやく手に入れた「安息」は、あまりに甘くて、少しだけ毒の匂いがした。
◇
一方その頃、エルゼがいなくなった後の王国・王宮。
第一王子ジュリアンの執務室は、地獄のような惨状になっていた。
「どういうことだ! なぜ来月分の予算が組めていない!」
「は、陛下……それが、これまでの帳簿はすべて、エルゼ様が独自の暗号と手順で管理されておりまして……。我々では、数字の意味すら解読できないのです!」
文官たちが青ざめた顔で平伏する。
エルゼは、王宮内の煩雑な事務作業を、公爵令嬢としての義務として完璧にこなしていた。彼女が「片手間に」片付けていた書類の山は、実は王国を維持するための根幹となる軍備、食料流通、そして近隣諸国との秘密裏の交渉記録だったのだ。
「そんな馬鹿なことが! ただの女が、一人でそんな量をこなせるはずがないだろう!」
「いえ、それが……エルゼ様は、毎日睡眠時間を三時間に削り、一人で三つの部署の決裁を行っていた形跡が……」
ジュリアンはデスクを叩き、苛立ちを露わにする。
そこに、追い打ちをかけるようにマリアが部屋に入ってきた。
「ジュリアン様ぁ! 大変なんです! 私が欲しかったあのシルクの新作、商人が『クライン家からの支払いが滞っているから売れない』って……。エルゼお姉様が、嫌がらせをしてるに違いありませんわ!」
「黙れマリア! 今それどころではない!」
「えっ、ひどい……」
マリアが泣き出すが、ジュリアンの頭にはもう、彼女を宥める余裕などなかった。
さらに最悪な報告が届く。
「殿下! 帝国側から通達が! 我が国がこれまで帝国商会に負っていた債務の、即時一括返済を求めるとのことです! 払えなければ、北部の穀倉地帯を帝国の直轄領として差し押さえると……!」
「な……っ!? なぜ今なんだ! あの冷酷皇帝、我々が混乱している隙を狙ったというのか!」
ジュリアンはまだ気づいていなかった。
これは「隙を狙った」のではない。
エルゼが国境を越えた瞬間に発動するよう、数年前から用意されていた「復讐」のプログラムなのだ。
◇
帝都・バルシュタイン城。
そんな王国の阿鼻叫喚など、こちらには一切届かない。
用意された夕食は、私が王国で「いつか食べてみたい」と日記の隅に記していた――そして、そんな日記は三度目の人生の最後で焼き捨てたはずの――伝説の幻魚のグリルだった。
「……美味しい、です」
「そうか。ならば明日も用意させよう。他にも、君が以前気にしていた東方の果実も手配してある」
レオナルト様は、私が食べる姿を、ただじっと見守っている。
彼は自分でも食事を摂っているが、その瞳は常に私の一挙一動を追っていた。
フォークを運ぶ角度、咀嚼の回数、飲み込んだ後の吐息一つまで、すべてを網膜に焼き付けようとしているかのような、恐ろしいほどの集中力。
「陛下。……失礼を承知で伺いますが」
私は、耐えきれずにフォークを置いた。
「陛下は、なぜそこまで、私のことをご存知なのですか? スパイを使っているにしても、私の日記の内容や、一度も口に出さなかった独り言まで……。まるで、何年も私のすぐ隣で、私だけを観察し続けていたかのようですわ」
私は、ずっと胸に溜まっていた「正体不明の違和感」を口にした。
レオナルト様は、ナイフを置くと、ふっと口角を上げた。
それは微笑みというにはあまりに鋭く、どこか飢えた猛獣のような、昏い光を宿した笑みだった。
「……理由など、一つしかない」
「え?」
「君が望むなら、スパイが優秀だったと言い換えてもいい。だが本質はもっと単純だ。――私の人生のすべては、君を手に入れるための準備期間だった。それだけだ」
彼は椅子の背にもたれ、深い愛惜の籠もった瞳で私を射抜いた。
「君がいつ、あのクズ王子に愛想を尽かすか。いつ、あの国が君を切り捨てるか。私は数年前から、その『瞬間』を逃さないためだけに生きてきた。君の好み、君の思考、君が絶望するタイミング……。それらすべてを把握しておくのは、私にとっては呼吸をするのと同じくらい当然のことだ」
「数年前から……私だけを?」
眩暈がした。
この人は、何年も前から、国交すらない隣国で私を「標的」に定めていたというのか。
私の不幸を、私の絶望を、私以上に待ちわびていたというのか。
(怖い。……この人は、私が思っているよりもずっと、私に囚われている)
普通なら、その異常性に悲鳴を上げて逃げ出すべきだろう。
けれど、三度の人生ですべてを奪われ、誰にも必要とされずに死んできた私にとって。
たとえそれが歪んだ執着だとしても、自分のすべてをこれほどまでに望んでくれる存在は、あまりに甘美な毒だった。
「レオナルト様。……私はもう、どこにも行きません。あんな国に、帰る理由もありませんから」
私がそう告げた瞬間、レオナルト様の瞳が揺れた。
絶対的な権力を持つ皇帝。けれど、その瞳の奥には、今にも消えてしまいそうな幻影を必死に繋ぎ止めようとする、痛々しいほどの飢餓感が同居していた。
「……ああ。行かせない。たとえ君が望んでも、死んでも離さない」
彼は立ち上がり、私の椅子を強引に自分の方へと引き寄せた。
そして、私の肩に深く顔を埋める。
「……陛下、苦しいです……」
「我慢してくれ。……君がこうして、私の腕の中に収まっているという事が、まだ……信じられないんだ。ようやく、私の手が届くところに……」
彼の呼吸は、どこか震えていた。
まるで、これまで何度も君を失ってきたと言わんばかりの、切実な抱擁。
夜の帳が下りる中、私たちは互いの温もりだけを頼りに、長い沈黙の中にいた。
レオナルト様は私の首筋に顔を埋め、何度も、何度も、私の生存を確認するように深く息を吸い込む。




