第2話 皇帝はいつからか私をずっと監視していたらしい
ふかふか、という表現では到底足りない。
帝国が用意した馬車のシートに腰を下ろした瞬間、私の体は雲に包み込まれたような感覚に陥った。
三日間、硬い木の板の上で揺られ続けたお尻が、驚きで悲鳴を上げている。
「……あ、の。陛下?」
「横になっても構わない。この馬車には衝撃を吸収する魔導具を組み込ませてある。王国の粗末な道でも、揺れを感じることはないはずだ」
目の前に座る皇帝レオナルト様は、組んだ足すら絵画のような美しさで、私を真っ直ぐに見つめていた。
その視線が、あまりにも熱い。
射抜くような鋭い瞳のはずなのに、そこには甘い砂糖を煮詰めたような、ドロリとした重たい情愛が混ざっている気がする。
「お疲れだろう。まずは喉を潤すといい」
彼が指を鳴らすと、馬車の中に備え付けられた小さなテーブルに、湯気の立つティーカップが置かれた。
立ち上る香りに、私は目を見開く。
「……これは、ダマスク・ゴールド?」
「ああ。王国の北部の、さらに限られた高地でしか採れない稀少な茶葉だ。君の好物だろう?」
心臓がドクン、と跳ねた。
好きだ。確かに、大好きだ。
「なぜ、それを……。私、誰にも言ったことはないはずですが」
「……我が帝国の諜報部を侮らないでほしいな。君が幼少期にどの茶葉を好んだか、どの菓子屋の前で足を止めたか。その程度の情報は、数年前から全て把握している」
彼はさらりと言ってのけた。
その言葉の重みに、背筋がゾクリとする。
スパイ? 数年前から?
帝国と我が国は国交がほとんどないはずなのに、この人は私の日常を、それこそ子供の頃からずっと覗き見していたというの?
「君が今日、あの門を通ることも、当然予測していた。だからあそこに軍を待機させていたんだ。……やっと、合法的に君を奪えるチャンスが来たからな」
彼は冷徹な美貌をわずかに歪め、満足げに微笑んだ。
怖い。
普通なら恐怖で逃げ出す場面だ。
けれど、差し出されたお茶を一口含むと、その完璧な温度と香りに、強張っていた全身の力がふっと抜けてしまった。
(ああ……美味しい。毒が入っていたとしても、これなら悔いはないかも……)
四回目の人生。
殺されること、虐げられることには慣れっこだけれど、「異常なまでの執着で守られること」には、これっぽっちも耐性がない。
「陛下、私は……陛下とお会いしたことは、一度もございませんよね?」
「……ああ。私はずっと、影から君を見ていただけだ。君がクズのような王子に傅き、健気に公爵令嬢の責務を果たす姿を。……もっと早く、力尽くで奪いに行こうかとも思ったが。君がそれを望まないことも分かっていたからな」
彼の言葉には、妙な説得力があった。
まるで、私の性格の隅々まで知り尽くしているような。
「エルゼ。君を捨てたあの国に、未練はあるか?」
不意に、彼の声から甘さが消え、皇帝としての冷徹な響きが戻った。
「未練、ですか? ……いいえ。全く」
私は即答した。
三度も殺されたのだ。悲しみも怒りも、とうの昔に枯れ果てている。
「そうか。ならば、遠慮なくやらせてもらおう。……我が国の商会を使って、クライン公爵家の資産を全て買い叩く。あの家は明日には多額の借金を抱えることになるだろう。君を追い出した報いだ」
レオナルト様は、まるで明日の天気を話すような気軽さで、恐ろしいことを言った。
資産の買収。経済的な抹殺。
彼がこれほど素早く動けたのは、きっと何年も前から準備をしていたからに違いない。
いつか、私が国を捨てた時のために。
「……やりすぎでは、ありませんか?」
「足りないくらいだ。君が独りで泣いていた時間に比べれば、これくらい、生ぬるい」
彼は私の手を握り、ギュッと力を込めた。
その手は、驚くほど震えていた。
憤りなのか、あるいは、ようやく手に入れた獲物を離したくないという執念なのか。
「もう、君に泥を舐めさせるような真似はさせない。私の目が届く場所で、私の愛が届く場所で、ただ笑っていてくれ」
その言葉は、救いのようでもあり、鎖のようでもあった。
◇
その頃。
エルゼを追い出した王国の夜会会場は、混乱の渦にあった。
「どういうことだ!? 公爵家の全資産が、帝国の商会に差し押さえられただと!?」
ジュリアン王子が、報告に来た騎士に怒鳴り散らす。
彼がエルゼから奪おうとしていた個人資産は、彼女が会場を去った直後、まるで待ち構えていたかのような早さで帝国側の手に渡っていた。
「そんな……。じゃあ、私が欲しかったあのダイヤモンドの首飾りも、もう手に入らないの……?」
隣でマリアが涙目になるが、今のジュリアンにはそれを宥める余裕はなかった。
公爵令嬢として、裏で王国の内政や外交事務の半分を担っていたエルゼがいなくなったことで、城の業務は一瞬にして麻痺し始めていたのだ。
「くそっ、あの女、帝国と通じていたのか!? まさか、スパイだったのか!」
ジュリアンはまだ知らなかった。
彼女がスパイだったのではなく、世界最強の皇帝が、彼女のためだけに数年前から王国を経済的に包囲していたという事実を。
◇
帝都の城に着くと、そこには私のために用意された、異常なほど完璧な生活が待っていた。
「陛下、これは……」
「君が数年前、庭師に『いつか青い薔薇に囲まれて眠りたい』と言っていたのを覚えているか? 帝国の魔導師たちに命じて、品種改良させた。……間に合ってよかった」
案内された寝室は、王国では見たこともない幻想的な青い薔薇で埋め尽くされていた。
庭師に言った……?
ああ、確かにそんなこともあったかもしれない。一度目の人生か、それとも二度目だったか。……でも、そんな些細な独り言を、どうやって?
(……この人、本当に私のことなら何でも知っているのね。怖いけれど……でも)
王宮で誰にも見向きもされず、ただ「便利な道具」として扱われてきた私にとって、
たとえそれが歪んだ執着だとしても。
これほどまでに「自分だけ」を見つめ続けてくれた人がいるという事実に、私は生まれて初めて、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
「レオナルト様……あ、の……」
「何だ? 腹が減ったか? それとも、やはりジュリアンの首が今すぐ欲しいか?」
「いえ、そうじゃなくて!」
私は、彼の胸に顔を埋めた。
死ぬのが怖くて、誰も信じられなくて、四回も人生を繰り返した私に。
こんな、息が詰まるほど甘い場所が用意されていたなんて。この先凄惨な結末が待っていようと。今は、今だけはこのぬるま湯に全身を浸らせていたい、そう思った。
「……ありがとうございます。私を、見つけてくれて」
私の言葉に、レオナルト様は一瞬、息を呑んだ。
そして、壊れ物を扱うような手つきで、私を強く、強く抱きしめた。
「……ああ。もう、二度と離さない。神が君を奪おうとしても、私は君を離さない」
その言葉が、単なる比喩ではなく、「過去に何度も奪われてきた男」の血を吐くような誓いであることに、今の私はまだ、気づくはずもなかった。




