姫巫女さまの言う通り!
我が国の偉大なる姫巫女さま(推定年齢百六十九歳)を、謀ることなかれ――
この国に長年伝わる重い教訓を、ギルバートはしっかりと守ってきたつもりだった。
けれど、目の前に座る婚約者の表情は、あからさまに曇っている。何かを堪えるような口元、潤んだ瞳。
自分は何か、取り返しのつかない過ちを、彼女にしまったのではないか。
(唯一神様、姫巫女さま。許してください。僕は彼女と、別れたくない――!)
「……聞いたか? トーマスの話」
授業の合間、ひそひそと額を付き合わせている同級生の会話に、ギルバートは聞き耳を立てていた。
ギルバート・グレイ。高等貴族学院に通う三回生で、伯爵家の長男である。
ギルバートは今、この国のとある伝承に震ええていた。顔色を悪くする彼に気付く様子もなく、クラスメイトはゴシップ話に花を咲かせている。
「あいつ、婚約破棄されたらしいぜ。学院卒業後は、勘当確定だって」
「マジで!? 何やったんだよ?」
「……ほら、『婚約者が気に入らない』って、ずっといびってただろ? 相手のご令嬢に証拠揃えられて、両家に告発されたらしい」
ギルバートの友人の一人でもあった侯爵令息、トーマスは気の良い青年だったが、プライドが高過ぎるのが欠点だった。
傾きかけた家を立て直すため、侯爵である彼の父が頼み込んで婚約を成立させた伯爵令嬢に、精神的嫌がらせを続けていたのである。連れの一人であるギルバートもやんわりと諌めてきたが、格下と判断している彼の言葉に、トーマスは耳を貸さなかった。
彼女の伯爵家は、先進的な一族だった。この国の貴族女性は「細身・色白」を絶対美と考え、いつも控えめに佇んでいるが、かのご令嬢は海運業を営む実家の仕事に積極的に関わり、ふっくらとした頬の健康的な肌色をしている。それがトーマスには、気に入らなかったようだ。
だが、しっかり者の彼女は、男性にただ従うことを良しとせず、反撃の隙を伺っていたのだろう。
ギルバートは先週、学院近くの大神殿で、偶然その伯爵令嬢とすれ違った。晴れやかな笑顔で聖堂から出てきた伯爵令嬢に、背が粟立ったのを覚えている。
震えるギルバートをよそに、クラスメイトたちは肩を竦めた。
「最近、こういうの多いよな?」
「ああ。……もしかして、『姫巫女の呪い』か?」
「祟られるぞ。『さま』は付けとけよ」
「俺、目ぇ付けられる覚えないから!」
賑やかに笑い合うクラスメイトたちを、ギルバートは何とも言えない目で見つめる。
これはまさしく、姫巫女さまの天罰だ。
この国は、一神教を国教としている。唯一神に仕える偉大な女性、姫巫女は、国の精神的だ。
とんでもない長寿を誇る、歴代の姫巫女さまは皆、国を護ることを至上命題としている。
……しすぎていて、ちょっと過激だ。
戦争や政争で国を危うくしそうな人物には、それとなぁく人生に介入し、ちょっとした罰を与える。決起の前日に食中毒になったり、取引の日に金銭を持ち逃げされたり。
最近では、「姫巫女さまの婚約潰し」が話題だ。
近隣各国で一大ブームとなった、「運命の恋」、「真実の愛」。この国でもご多分にもれず、それらを見つけた(と思い込んだ)貴族たちによる婚約破棄が横行していた。
このままでは、貴族同士の信頼が崩れ、国中に疑心暗鬼が広がる。婚姻が減り、次世代を担う子どもたちも生まれてこない――
姫巫女さまがそう案じたかどうかは定かではないが、最近、不当な婚約破棄を企んだり、不貞を働いていた貴族の若者たちが、相次いで不名誉な目に遭うことが増えてきた。
ギルバートの周囲でも、「偶然だろ」とうそぶく仲間が多い一方で、密かに天罰に怯えている者も一定数いる。間近で友人たちの転落を見てきたギルバートは、もちろん後者だ。なにせ、トーマスで三人目なのだ。
ちなみに一人目は、取りすがる婚約者を蹴り飛ばし、娼館通いを続けていた。やがて、顔中に謎の発疹が出て、彼は高熱にうなされた。幸い、性病ではなさそうだが、原因不明の体調不良に今も悩まされている。
もう一人は、婚約者がいながら、街中でナンパを繰り返していた。先日引っ掛けようとしたのが、よりにもよって婚約者の妹だったそうで、姉を溺愛している少女に、衆目の中で往復ビンタを食らった。おまけに、婚約者用に与えられた予算のほとんどを一夜の相手に費やしており、実家からも大目玉。
そして、いずれの二人の婚約者も、ギルバートは、姫巫女の神殿の近くで見かけている。
姫巫女さまは、過激なのだ。
(どうしよう……。次は、僕かも)
共に過ごすことの多い三人の仲間に、相次いで婚約潰しが起こってしまったのだ。次は自分かも知れないと、ギルバートは怯えていた。
ギルバートにも婚約者がいる。
子爵家のエレノア・スタンリー嬢。隣のクラスに在籍する彼女は、緑の大きなつり目に焦げ茶色の髪の、猫のような雰囲気の美少女だ。
初めて会った時、ギルバートはそのあまりの愛らしさに、一瞬で恋に落ちてしまった。もちろん、外見だけではなく、勉強熱心な頑張り屋で友達思いなところも、可愛らしいと思っている。
でも、そんなエレノアは、婚約して以降、ギルバートに笑顔を見せてくれたことがない。
何を話しかけても、「……別に」、「興味がありませんわ」と、つれない返事ばかり。
なんとか、彼女の愛を手に入れたい。日々意気込んで来た中での、友人たちを襲った婚約潰しに、ギルバートは戦々恐々とした。
これは何も、ギルバートの思い過ごしではない。
先日、エレノアが鈴蘭のブローチや、鈴蘭の刺繍の入ったハンカチを身に着けていたのを、ギルバートは目撃してしまったのだ。
鈴蘭は、姫巫女さまの象徴。姫巫女さまの御座す神殿は、至るところに鈴蘭の彫刻が飾られ、花壇には無数の鈴蘭が植えられている。
これはつまり、エレノアが、姫巫女さまに何かを願っている証拠ではないのか。
(エレノアが、情けない僕に呆れているのは分かっている。もしかしたら、姫巫女さまが、こんな僕に痺れを切らして、「婚約潰し」に動かれているのかも……!)
それだけは、嫌だ。絶対に。
姫巫女さまに、この婚約を帳消しにされてしまう前に、自ら行動するしかない。
覚悟を決めたギルバートは、次の休日、エレノアをカフェに呼び出した。
「――エレノア、今日は付き合ってくれてありがとう」
「……別に。予定が合いましたので」
ツンとした声で言い、エレノアが優雅にティーカップを持ち上げる。彼女は細い指をカップに美しく添え、僅かに顎を反らして、馥郁たる香りを放つお茶を口に含んだ。
(ああ、紅茶を飲む仕草すら美しい――って、そんな場合じゃない!)
思わずぼんやり見入ってしまったギルバートは、慌てて自分にツッコミを入れて首を振った。気を取り直して、話題を変える。
「……エレノアは、最近の休みは、何をしてたの?」
「何を、と言われましても……。学院の課題をこなしたり、友人とお茶をしたり、い、いつも通りですわ」
目線を逸らし、言葉に詰まりながらエレノアが答える。いつも堂々としている彼女の、どこかぎこちなく答え辛そうな様子に、ギルバートの心臓はギュッと縮み上がった。
(僕には言えないことを……。や、やっぱり、神殿詣で!?)
焦ったギルバートは、なりふり構わずエレノアの方へ身を乗り出した。
「――そっ、そのブローチ! 素敵だね。鈴蘭?」
「そ、そうですけれど……。何か、ご不満でも?」
「そういうわけじゃ……ないんだけど……」
結局核心に触れられず、グダグダと迂遠に話し続けるギルバートに、エレノアは眉根を寄せている。どこか苛立たしげにも見えるその顔に、ギルバートの血の気が引いた。
いつもこうして、回りくどい言い方しか出来ない。そしてそんな彼にいつも、エレノアは黙り込んでしまう。
大好きな彼女を笑わせるどころか、表情を曇らせることしか出来ない自分に、ギルバートは心底嫌気がさしていた。
ギルバートはすっかり落ち込んで、うつむき加減に唇を噛み締める。
エレノアが怪訝そうに首をかしげた。
「……あの、ギルバート様?」
「――聞いた? 僕の友人の話。彼らはそれぞれに、婚約者に不誠実な点があって。ずっと心配していたけど、僕には止められなかった。……彼らは皆、姫巫女さまの裁きを受けたんだ」
「姫巫女さま」の言葉に、エレノアがぎくりと肩を揺らす。
その姿に確信を抱き、ギルバートは自嘲気味に言った。
「騒動の前、三人の婚約者のご令嬢を、僕は姫巫女さまの神殿の近くで見たんだ。――姫巫女さまの裁きは、本当にあるんだと思う。
……君のその鈴蘭のブローチも、姫巫女さまの象徴だよね?」
エレノアが息を飲む。その目は潤み、口元は小さく震えていた。
(ああ、やっぱり――)
絶望に目を瞑り、ギルバートは力なく呟いた。
「……分かってる。君が、頼りない僕に、」
「――ええ、そうですわ! 令嬢がたを傷付け、貴方の気を病ませるあの三人に天罰を、と祈ったのです! 何がいけませんの!?」
ギルバートはぱちくりと瞬きをした。
勢いよく顔を上げると、両拳を握りしめて立つエレノアと目が合う。
彼女はフシューっと毛を逆立てる猫のように、全身に怒りをみなぎらせて叫んだ。
「ええ、ええ、あの御三方は、せっかく心から案じてくださっている貴方の忠告に、まるで耳も貸さず! ――学生のくせに夜のお店通い!? 手当り次第にナンパ!? 学生の本分をなんだと心得てますの!?
最後の一人にいたっては、健気なご令嬢を精神的に痛めつけ、おまけに貴方のことを陰で散々……! 天罰が下って当然ですわ!」
がおうと吠える彼女の手の中には、いつか見た、鈴蘭の刺繍のハンカチ。
ギルバートは、言葉に詰まりながら、懸命に尋ねた。
「……ええ、と、エレノア。エレノアは、僕のために、姫巫女さまに祈ってくれたの?」
ギルバートの言葉に、エレノアはツンと顎を上げて答える。
「べっ、別に、貴方のためではありませんわ! 婚約者が不当に扱われるのが、私が我慢ならなかっただけです!」
「……エレノア、顔、真っ赤」
「こ、これは、お、怒っているのです!」
ギルバートの指摘に声を荒らげ、エレノアはプイッと顔を逸らす。
そのあまりに愛らしい姿に、ギルバートの全身を縛っていた緊張が、一気に解けた。
(エレノアが姫巫女さまに訴えていたのは、僕との婚約の悩みじゃなくて、僕の仲間のことだった……)
ギルバートは思わず、安堵で脱力しそうになる。それと同時に、エレノアが、友人に軽く扱われる自分を気にかけ、行動に移してくれたことが何より嬉しい。
感極まり、目に涙すら浮かべたギルバートは、思わず叫んでいた。
「――エレノア! 嬉しい! 好きだ! 結婚してください!」
浮かれまくったギルバートの言葉に、エレノアは火が出そうな勢いで顔を更に赤くした。彼女はしどろもどろに答える。
「……こっ、こんな真っ昼間から、ま、街中で、何を言ってるんですの!? それに婚約者なんですから、結婚するのは当たり前です!」
(――あ、怒るのそっちなんだ)
どうしようもなく頬が緩み、ニマニマとしているギルバートを、エレノアは威嚇するように睨み付ける。そうしてふと我に返ったように、真顔で首を傾げた。
「……それにしても、私が願うまでもなく、婚約者のご令嬢がたは行動を起こしておられたのですね。――余計なお節介でしたわ」
(――いいや、違うよ、エレノア)
気まずげに俯いた婚約者をニコニコと見つめながら、ギルバートは思う。ちなみに、バツの悪そうなエレノア、超可愛い。
(彼らの婚約者と、君と。二人分の怒りと嘆きがあったから、きっと、姫巫女さまは事態を重く見たんだ)
これまでも、姫巫女さまの裁きであろう出来事は、うっすらと日常生活の中でも起こっていた。けれど、今回の三人に関して、些か過激度が増していたのは、恐らく倍の怒りを買ってしまったから。
優しく、獰猛で、真っ直ぐな婚約者のことを、ギルバートは笑顔で見つめる。
こんなに素敵な女の子と婚約者でいられるなんて、自分はなんて幸せなのだろうと。
姫巫女さまを謀ることなかれ。
けれど、人を傷付けず、まっすぐに向き合っていれば、姫巫女さまは必ず祝福してくれるのだ。
少々過激な彼らの守護者は、今日も、この国のどこかで苦しみを抱える誰かを救ってくれている。
――かも、知れない。




