020 とある屋敷の一日
これでこの章は終わりです。
次の章は10月15日から開始予定です。
メイドとして働く奴隷ベルの朝は早い。三か月ほど経った今でも朝起きるのに難儀している。14歳で借金奴隷落ちしたベルはすぐに購入者が見つかって運が良かった。奴隷商で15歳になっていれば娼館に売られていた。しかしベルは容姿端麗とは程遠く、自分を買い戻せる頃には老婆になっていると諦めていた。借金取りに捕まった時に「15歳」と偽っていれば独立した大人として奴隷落ちを回避できたかもしれないと言う思いと、そのまま娼館に直行だったかもしれないと言う思いがベルの中でせめぎ合っていた。一家の長である父が借金を抱えたまま事故死したのが不幸の始まりだった。酒か賭博に入れ込んでいればまだ諦めがついた。しかし事業を大きくしようと金を借り、雇った新人を指導している時に事故にあった。その新人とは金銭トラブルがあったのでは、と当時の近所の人が噂をしていたが、ベルには調べる術が無かった。一時期は母が事業を継げないか頑張ったが、父親の所属していたギルドが認めなかった。ギルドは未亡人を守ると言っていたが、借金の取り立てから守るのは筋違いと言って母とベルを見捨てた。ホープエンドでは良くある話の一つでしかない。
ベルを購入した主人が暮らすのは庭付き二階建ての屋敷だ。屋敷は低いが大人の背丈はある壁に囲まれており、野次馬の類では中を見る事が出来ない。井戸は近隣の屋敷六つが共用で使うのが一つある。井戸の上には屋根があり、水汲みが楽になる様に滑車が付いている。屋敷六つは井戸の維持に共用費を取り、専属の井戸番まで用意している。ベルが自由だった頃は近隣の五十世帯が使う共用井戸を使っていた。腐って朽ちた天井の残りがある程度で、水質は最悪に近かった。偶に近所の悪ガキが排出物を中に入れて、大人が数人掛かりで井戸の底を浚う事があった。
屋敷はホープエンドではそこそこ治安が良い場所に建っている。何らかの理由で貴族か上流市民になれない層が中心になって住んでいる地域と聞かされた。隣屋敷の使用人達が貴族の使用人かぶれなのを除けば奴隷の使用人にも普通に接してくれる。ベルは貴族の使用人となった自分をイメージするも、首を横にブンブン振って打ち消す。パトロンの愛人をやっている平民のメイドだけでも衣装に着られている感じがあるのに、貴族のメイドなんて想像するだけでも恐ろしかった。
「ベル、また濡れた犬の真似かい?」
恰幅の良い女性が後ろから声を掛ける。樽の様な両腕には今日使うであろう小麦と野菜を挟んでいる。野菜の種類から肉は無さそうだとベルは密かに落胆する。
「ち、違うって!」
必死に否定するも、相手は肩を竦めて取り合わない。
「それより早くお嬢様を起こしておいで。ダアガス様の朝練が始まってしまうよ」
「分かった!」
「そこは『分かりました』だって言っているんだけどね、まったくこの子は」
「お母さんみたいには出来ないよ! とにかく起こしてくるからぁ!」
ベルは一緒に購入された母親から逃げる様に二階を目指した。ベルの母は未亡人になる前は夫や他の男衆と一緒に仕事を切盛りさせていたので肝っ玉は座っている。屋敷でお嬢様とダアガスに表立って苦情を言えるのは彼女くらいだ。ベルと他の奴隷は執事をやっている奴隷長のマイケラスとベルの母のどっちが筆頭奴隷かで盛り上がり夜更かしする事がある。ベルは奴隷がここまで好き勝手言って良いのかと心配するも、屋敷で力を持っている三人が何も言わないのでベルも黙っていた。母の娘と言う立場は意外と恩恵が多いので、出来ればこのまま奴隷の中で権力を維持して欲しいとすら願った。ベルの母はベルのこういう狡すっからい精魂を心配していたが、当のベルは聞く耳すら持たなかった。
一階の調度品は商人ギルドに所属してホープエンドに店を持つ二級商人の品質に合わせてある。ベルは「成金ぽい」と好きには慣れない。貴族の気に入られている画家の絵が壁に多く掛かっている。マイケラス曰く「処世術」らしいが、ベルは飾るのならもっと可愛い絵が良いと考えた。幸い、ベルは絵画の来歴や画家の半生を数少ない来客に説明しないで良いので必要以上に考えるのをやめていた。自分と同じだと思っている母が大ホールの絵画限定でマイケラス顔負けのウンチクを披露できるとは知ればさぞ驚くだろう。
二階の調度品は変だ。ベルはどう変かは説明できないが、彼女はどうしても何か違和感を感じる。マイケラスに問うても「そう言うものだ」と取り合わない。ベルが想像上の謎のパトロンとしか知らないロギなら「迎撃用の砦」だと答えていた。マイケラスとダアガスは敵がいずれ攻めてくると確信していた。ロギは正体すらつかめない黒幕がそんな短絡的な行動に出るとは思えなかったが、それはロギが敵を過大評価していたに過ぎない。ロギが敵を過大評価していなければ、ホープエンドは地図から消えていたので、マイケラスとダアガスに取っては良い方に動いた。
二階の真の姿をぼかしたところで、ベル以外の女性メイドは本能的に二階に来るのを殊の外回避する傾向にある。それでも掃除などで最低限の往来はあり、ベルは床掃除をしている同僚奴隷の横を軽やかに通り過ぎる。目線と手の動きで挨拶を素早くすまし、ベルはアリシアの部屋に辿り着く。
「まだ安眠中って事だし、ここはドンドンからのキックかな?」
先ほどのやり取りでアリシアがまだ寝ていると聞いて、ベルは部屋に入る方法を口に出す。右手でドアを大きく二回叩く。三秒待って返事が無いのならドアを蹴って開ける。本当は手で開ければ良いのだが、それだとアリシアが起きない。ドアが蹴られる行為を敵襲と感じて自然と目を覚ます。ベルが知らないアリシアの悲しい過去で染み込んだ処世術だった。
ドン! ドン! シーン……
「おりゃあああ!」
ベルが勢い良くドアを蹴る。一瞬だけ待って部屋に入る。アリシアが寝ぼけていると偶にベルを押し倒して首筋に剣を当てるのでベルとしても命懸けだ。何故自分の主人を起こすのにほぼ毎日命をかけないといけないのかとベルは自問自答するも答えは無い。ドアを蹴る行動が日常的になったためか、ドアを蹴らなければ良いと言う考えに至れない。
「ふわぁああ、ベル。後もうちょっと」
ベッドの中で何かがもぞもぞと動く。
「お嬢様! ダアガス様の朝練に遅れますよ!」
「まだ庭から殺気が飛んできていないからぁ……」
「そんなのが来たら私が死にます!」
アリシアはベッドのシーツにくるまる。ベルは必死に起こそうとする。余り遅いとダアガスに怒られる。ドラゴニアンであるダアガスの感情を読むのは難しい。ベルはダアガスが気分が良いと思えば、実際は激怒していたと後で聞いたりして、とにかく苦手意識が先行していた。それでもダアガスの近くをチラチラしているのは生来の狡すっからい性格がダアガスの近くに居るのが安全だと見抜いていたからに他ならない。
「む~、分かったよ」
アリシアはベルが部屋でまた失禁したら面倒と思い、眠い瞼を開けてシーツを羽織ったままベッドから這いずり出る。
「お嬢様? またですか?」
「えへへ」
「笑いごとではありません! せめて寝間着を着てください!!」
ベルは力尽くでシーツをはぎ取る。残るは一糸まとわずウトウトしているアリシアだ。その姿は彫刻の様に美しく均等が取れている。ベルは自分が男なら間違いを犯す自信があった。ベルですらこれだ。他の男がアリシアの裸を見たらどうなるか。二階がマイケラスとダアガス以外は男子禁制となっている理由の八割がアリシアの脱ぎ癖にあると言っても良かった。
ベルは自分より背が低いアリシアをマザマザと見る。不作法だが、これはベルに許された特権みたいなものだと勝手に納得している。ベルより背が低く胸も小振りのアリシアはベルより年上と言う事になっている。ベルはどうしても信じられないが、つい最近四級に上がった冒険者カードを見せられてはアリシアが大人だと認めるしかない。
「でも着替える時間を短縮……」
「お母さんに言いつけますよ?」
「ベル、それは反則!」
「あ~、はいはい。とにかく練習着を着ましょう」
いつもの微笑ましい会話をしながらベルは練習着を部屋のチェストから取り出してアリシアに投げる。
「そろそろ注文? なら腕の周りをちょっと太くして」
「かしこまりました。残り六日分ですね」
ベルは残っている練習着をさっと数えて、今日くらいに服屋に注文を出そうと考える。アリシアとダアガスの訓練が終わって形を保てる練習着は存在しないので、毎日が新しい練習着だ。訓練が日に二回もあれば、二着がボロ雑巾になる。ベルは冒険者の訓練というものに詳しく無いが、弟子であるアリシアの四肢が飛んだり、内臓が溢れ出したり、腹に大穴が開くのは普通なのか甚だ疑問に思っていた。どんな大怪我をしても瞬時に治るアリシアについては「そう言うものか」と思考を放棄した。ベルは一度好奇心からダアガスに「お嬢様って死ぬの?」と聞いた事がある。その時の返事が「頭と心臓を同時に潰せば、たぶん。怖くて試せないので確実な答えを返せない事を許せ」だった。それを聞いたベル、そして又聞きした全同僚がドン引きして更にダアガスから距離を取った。もしロギが会話に加われたら「死んでもリスポーンする」と答えてダアガスにすらドン引きされていた事だろう。
本来のマイケラスならこの様な命懸けの訓練は命を賭して止めていた。ダアガスすらアリシアの回復力を限界まで引き出す様な訓練は望んでいない。ただ二人はアリシアの敵が襲撃してくると確信している。アリシアには時間が無い。ならば少ない時間で何処まで詰め込めるか。普通の少女なら初日で泣いて音を上げている。ただアリシアには一級冒険者になって攫われた弟を助けると目的がある。それがハードな訓練でも泣き言を言わないアリシアの根幹だった。
「他の予定は?」
「昼過ぎには読み書き、そしてマナーのレッスンです」
「ええ? 面倒」
「ですが最低限読めないと駄目だとマイケラス様が言っていましたよ」
「むう」
「とにかく! 今やっている範囲は私でも習ったんです。お嬢様なら簡単にマスター出来ます」
ベルは必死に煽てる。ベルは母親に最低限の読み書きを覚えさせられた。アリシアのメイドに抜擢された理由の一つだ。しかしベルは知らない。アリシアが次のステップに進む際にはベルも生徒になるのが決まっている事を。既にマナーのレッスンを「お相手」として参加させられているのだから気付けそうなものだが、ベルは楽な方しか考えない。マイケラスから話を聞いているダアガスがベルの戦闘訓練を考えていると知れば目を回して倒れるだろう。
「終わり? それともまた訓練?」
「ああ、それが……」
「何?」
アリシアが口を引きつられて問う。ベルが言葉に詰まるのはアリシアが嫌いな事を言わないといけない時だけだ。
「二つ隣の商人様と会食が……」
「あちゃ~」
アリシアは落胆する。マイケラスから必要性は聞いているが、まだ慣れない。食事のマナーで一番五月蠅くない近所の人だが、目でアリシアを値踏みしているのを隠そうともしない。
「なのでマナーのレッスンが終わり次第、髪の毛をセットするそうです」
ベルはボウボウになっているアリシアの髪の毛に櫛を通しながら言う。訓練前なのでせめて激しい抵抗をする寝ぐせくらいは何とかしたかったが、ベルの腕では寝ぐせには無力だった。
「また装飾品で飾られるのね?」
「ですね! 今回は凄いのを頂いたとか!?」
「らしい」
怪しい商人の事を聞いたロギが魔城の力で迎撃用の宝石類を生み出した。マイケラスはそれを銀細工師に預け、アリシア用の新しい装飾品を用立てた。そこらの貴族はおろか王族ですら纏えないほどの価値があるのだが、アリシアは宝石には興味が無かった。既にコピー品が出回り、裏社会ではアリシアコレクションとして高値で取引されている事にはマイケラスですら気付いてない。
「あ、なんかピリッと来ました! ダアガス様が待ちくたびれています!」
「分かった、窓から行く!」
言うが早いかアリシアは窓から飛び出す。
「だから駄目ですって!」
ベルは怒鳴るも、既にアリシアはダアガスの近くにいる。ベルは例年になく暖かった夏が終わるのを肌で感じながら窓を閉めた。
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