私は頭を撫でてほしい
読んでいただきありがとうございます。
お母さんのほんとうの意味で笑った顔を見たのは、中学校一年生が最後だった。
車の中で、お父さんとお母さんが笑いながら、私の弓道での大会の優勝を祝ってくれている。
私は、この空間が好きだった。
『咲乃。今日は何が食べたい? 父さんがなんでも食べさせてやるぞ』
『えぇっとね……お母さんのオムライスが食べたい!』
『フフッ。本当に咲乃はオムライスが好きね』
『だって、美味しいんだもん!』
『それじゃあ、今日は家に帰って母さんのオムライスだな』
直後。まばゆい光が私の目に入ってきた。
ほんの少しの浮遊感の後。私の記憶はそこで途絶えた。
◇◇◇
お父さんのお葬式から一週間が経った。
私達の日常は変わってしまった。
『お母さん。お母さん。お母さん!』
『………………………』
いくらお母さんに話しかけても、ブツブツとお父さんの仏壇に向かって何かつぶやくだけ。
お父さんの火葬が終わった次の日から、いつもこんな感じだ。
ご飯のときも私が引きずってでも連れて行かないと、食べようともしない。
お母さんはあの事故から狂ってしまった。
『……っ』
私は、今日もお母さんが返事をしないとわかると自分の部屋へと駆け込んだ。
ドアを強く閉めるとそのままベッドの枕に顔をうずめる。
チクタク。チクタク。
静かな部屋の中に、置き時計の音だけが鳴る。
どうしてこうなったの?
そんな疑問を何度も何度も、あの事故の時から繰り返している。
だけど、何度そんなことを思っても、何度涙を流しても、何も変わらない。
あの幸せな時間はもう帰ってこない。
『………うぅっ……ヒッグ……ヒッ……お父さん…』
あれ?
泣いていて気付いた。
気付いてしまった。
お父さんって、どんな声してたっけ?
◇◇◇
お父さんが死んでしまってから約一年が過ぎた。
お母さんは最近動けるようになってから、一人、どこかへ出かけるようになった。
一人でどこに行っているかは心配だったけど、それよりも笑顔で『行ってきます。咲乃』と言えるようになったは、嬉しいことだった。
私はというと、事故の後遺症で弓が引けなくなってからは帰宅部になり、毎日家に帰ってきては勉強をしていた。
そのおかげか、現役で弓道をしていたときよりも成績は格段に上がった。
だからさ。ようやく、私もお母さんも受け入れ始めたと思ってた。
最近の毎日は、充実しているように感じることができていたから。
そう。
あの日。あの光景を見るまでは。
◇◇◇
今日、学校から帰ってくると、いつもはどこかへ出かけていて、いないはずのお母さんが居間のテーブルに座っていた。
学校から帰ってきた私は、そのことに疑問を覚えてお母さんのところへと歩いていく。
『ただいま。なにしてるの? お母さ―――』
『ん?ああ、おかえりなさい。咲乃。ほらあなたも座って。それで、これに祈りをささげなさい』
脳がゆらりと揺れたような感覚に陥った。
直後に感じるのは、背中をつたわる冷たい汗。
自分の心がこの事実を受け入れたくなと叫んでいた。
だけど、私は恐る恐る聞く。
『……お母さん。これ……何?』
『何って咲乃。決まってるじゃない。私達を救って下さるお方の像よ』
お母さんの目を見ると、真っ黒な瞳がどこまでも私を見ている気がした。
お母さんは狂っていた。だけど、どこまでもまともだった。
動悸がはやくなっているのを感じる。
あんなにも開け始めていた視界がグラグラと揺れて、狭まっていく。
そんな中。もう一つの事実が私を追い詰めた。
お母さんの目が怖くて、逸らした先に二つの手帳のようなものがあった。
見覚えのあるもの。それに気付いた瞬間、私はそれを拾い上げていた。
通帳だった。
嫌な想像が私の頭をよぎる。
急いでページをめくった。手が震えて、なかなかめくれてくれなかった。
それでもめくった。見ないという選択の方が怖いと思ったから。
『……あっ。ははっ。はははは』
『ほら。咲乃。あなたも祈りなさい。きっと私達も救われるわ』
笑いしか出てこなかった。
人間、絶望しすぎると笑いしか出てこなくなるものだと初めて知った。
追い詰められすぎると、何も考えられなくなるからその代償行為として笑うんだ。
私の手元には、お母さんと私の通帳が握られていた。
中の残高を確認した私は笑ってた。
私達にはもう、何も残っていなかった。
◇◇◇
中学三年生。
私は勉強をしながら、年齢を偽ってバイトをするという生活を送っていた。
お母さんが宗教にはまってしまってからは、生活の綱だったお父さんの貯金はもうほとんどなくなっていた。
不幸中の幸いにも、私は他の女子よりも成長が早いということもあってか、年齢の偽りには困らなかった。
なんとかお金をかき集め、バイトでお母さんを養いながら、貯金もする日々。
私は疲れていた。
そんな生活を続けていたある日。
バイトを終え、家に変えると一人の男がいた。
五十歳くらいの中年の男だった。
私が帰ってくるやいなや、私の身体を舐め回すような視線でジロジロと見て、ニヤリと笑った。
『――様。あれが娘の咲乃です。ほら、咲乃も挨拶しなさい』
男はお母さんがはまっている宗教の幹部的な人間だという。
お母さんはペコペコ、首を上下させる人形にしか見えなかった。
『………ふん。おい、お前』
『―――え』
私がボーっとしているときだった。
私の背後に回った男が、私の胸に手を這わせた。
『ガキのくせに、中々なモノを持ってるじゃないか』
『―――ヒッ』
ゾワゾワと身体の中をなにかが通り抜けたような感覚を覚える。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
抵抗しなかったことをいいことに、更にスカートの中にも男の手が入ってこようとして………
プチン。
私の中で、何かが切れた音がした。
その後のことはよく覚えていない。
気づくと、私の手は真っ赤に染まっていて、拳がジンジンと傷んでいた。
お母さんは何やら叫んでいるようだが、何も聞こえない。聞きたくもない。
その日。私は家を出ようと思った。
◇◇◇
高校一年生。
私は高校受験を終えると、アパートを借りて一人暮らしをしていた。
お母さんとはもう顔を合わせないと思うと、なんだかとても気持ちが楽だった。
住んでいるアパートも別に綺麗というわけではないけど、大家さんが理解ある人で事情を話すと二つ返事で住まわせてくれた。
なかなかに個性的な人だけど、話していてとても心が安らぐから不思議なものだ。
勉強をして、夜までバイトをする。それを毎日繰り返す。
こんな感じで私はほとんど不自由なく生活していた。
ただ、一つあるとするなら私はあの事件以来、男性不信になってしまったことだろうか。
男が近づくだけで、あの日のことを思い出して嫌悪感を抱いてしまう。
先日も告白を受けた時に思わず殴ってしまった。
伸ばされた手があの日のトラウマをフラッシュバックさせたからだ。
そんなこともあってか、私は高校でも孤立した。
思えば、友人と呼べるものは久しくいない気がする。
私はクラスでよく見る光景を思い出す。
きっと何も不安なく生活しているであろう彼ら。
そんな彼らの笑いながら語り合う姿。
そんな様子を私は―――
◇◇◇
高校二年生。
新しいクラスになっても私の生活には何の変化もなかった。
新たな人間関係を築いているクラスを見ていると、なんだか私だけ取り残されている気持ちになる。
そんなことを思いながらふと、隣を見る。
どうやら取り残されているのは私だけではないようだった。
(なんだっけ、野崎だっけ? なんか同じような名前だし親近感が湧くな)
それより、なぜかこの男子からは嫌悪感も何も感じなかった。どうしてだろ?
(まぁいっか。どうせ明日には忘れるし)
私は日々の疲れを少しでも減らすため眠りについた。
◇◇◇
ある日。
アパートに帰ると、一つの手紙が入っていた。
母からだ。
内容は要約すると、『お金がなくなった。少し送ってくれないか』という内容だった。
私は内容を確認するとダラリと身体を脱力させた。
今回のことではっきりとした。
もう母はあの優しかった頃のお母さんではないのだ。
私の好きだったお母さんはもういない。
私は手紙を破りゴミ箱へ捨てた。
他人からの手紙だ。何の問題もないだろう。
小さな紙切れになった手紙を見つめながら。
そうやって割り切ったはずだった。
だけど、なんで。なんで、こんなにも胸がズキズキするんだろう。
だんだんと目が熱くなってくる。涙が込み上げそうになる。
『優勝おめでとう。咲乃』
『おめでとう』
そう言い、優しく私の頭を撫でてくれる両親。
お父さんとお母さんの優しい声が聞こえたような気がする。
「…………お父さん。………お母さん」
その日。私は久しぶりに泣いた。
◇◇◇
翌日。
私は魂の抜けた屍のように学校へ行った。
正直、今日あったことは何も覚えていない。
気付いたら放課後になっていた。
涼しげな風と、強く私を照らす夕日で目が覚めた。
ガンガンと頭が痛み、思考がボーっとする。
運動部のかけ声や吹奏楽部のトランペットの音がひどく頭に響いてうるさい。
ブワッと風が吹き込んでくる。
「…………もう、疲れたよ」
口からそんな言葉が漏れた。
どうして私だけ?
どうして私はこんなにも苦しんでいるの?
昨日の手紙を思い出す。
母は、私を都合のいい財布としか見ていない。
もう『愛』も『信用』も私にはわからない。
そんなものとうの昔に忘れてしまった。
もう消えてしまいたい―――
また、涙が出そうになる。そんなときだった。
教室前方のドアが突然開いた。
私はとっさに寝たふりをする。
入ってきた人はちゃんと見えなかったけど、だんだんと足音が近づいてくる。そして、私のところで止まった。
「………………っ!……とげ…崎?」
相手は私がいたことに驚いたのか声を上げた。
この声は聞いたことがあるような?
野………ざき、だっけ? 確かそんな感じの名前だったはず。
その後、なぜか野崎は自分の席に座って私を見つめ始めた。
やっぱり、野崎からは嫌悪感も何も感じない。なんでだろ?
私が、そんなことを考えていたときだった。
ポンッと頭に手が置かれる。
そしてそのまま、優しく撫でられた。
その瞬間。私は、何か黒くて重いモノがスッと身体から抜け出すような感覚を覚えた。
そのせいもあってか、思わず目を開けてしまった。
野崎と目が合う。
そして、私は気付いた。野崎に嫌悪感を抱かない理由に。
野崎はお父さんに似ていた。
どことなく、ふんわりしていてそれでもちゃんと芯が通った感じの雰囲気。
「いやっ!これは………そのっ!……なんといいますか……その……ごめんなさい!」
野崎は焦っている様子だった。
だけど、そんなことよりも私はもっと頭を撫でてほしかった。
頭から手が離れたのが、たまらなく嫌だった。
「…………もう、一回」
私はそう言うと、野崎の腕を引いて自分の頭に乗せる。
そしてそのまま目を閉じた。
野崎は困惑している感じだったが、私の様子を見てまた頭を撫で始めた。
ああ。やっぱり。
とても安心する。人の温かさがとても心地よい。
私はまた、眠りに落ちる。
今だけはどうか。私の頭を撫でていてほしいと思った。
【完】
一応は完結です。
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それではまた、つぎの物語で。