ニケ
【一】
「ね、ニケの顔を描かない?」
高校の昼休み。
葉月はあたしに笑いかけお弁当の最後の一口を食べ終えた。
「いや、別に良いけど顔って言ってもさ」
サンドイッチ、あたしも最後の一口。
「部員全員で描こ? 皆のニケ、見たい」
――テンション高いな葉月。
あたしは牛乳パックから中身を吸い上げる。昼休みの部室は油絵の具の臭いで満ちていて、ここで食事をするには慣れが要る。でも、あたし達はよくここでご飯を食べる。葉月が部室の鍵を持っているからだし、何より落ち着くから。
「ね? 弥生、やろうよー」
葉月は頬杖をついてねだるような口調。確かに、彼女の描くニケの顔を見てみたくはある、が。
「やってる場合なの?」
個展の準備は進んでるのかと訊いたつもりだ。
葉月は弁当箱を脇によけ上半身を投げ出し、机の上に顎をのせて頬を膨らませる。
「あと二枚、四十号と五十号」
「まあまあ大きいの残ってんじゃん」
「何かさ、気分が乗らない」
かっ、とあたしは牛乳パックを投げつけそうになる。こいつはそう言うところが無神経だ。
ただ同時に虚しくもなる。あたしなんかが勝手にライバル視して、馬鹿みたい。
葉月は色んなコンクールで賞を受賞している。一部では既に有名人で、高三の今年、秋に初めての個展を開く。
「はー、まったく……」
あたしはサンドイッチや牛乳パックの殻をコンビニの袋に入れ、口を縛って手に持つ。
「部長のあんたがやるってんならいいよ。ただ、ちゃんと順位はつけよう」
「お、いいよ」
葉月は不敵に笑って、あたしと同じように弁当箱をしまう。
「いやー、弥生のニケ、楽しみだな」
にこりとする葉月。あたしはその笑顔をどこか醒めた目で見る。
いいよ、どうせ高校を出たら絵はやめるつもりだし、そうすれば葉月の絵や彼女の天才性に嫉妬したりのたうち回ったりしなくて済むから。
「じゃあ後で、部活で」
あたしは立ち上がり彼女に背を向け部室を出た。背後でスライド式のドアがゆっくりと閉じられ室内の音が遠ざかり、代わりにすたすたと廊下をスリッパが擦る音が規則正しく聞こえてくる。自分の足音、少し苛ついているのは知っている。
「くそっ」
手に持っていたコンビニの袋を廊下のゴミ箱に勢い良く投げ込んだ。
放課後。
二十人の部員に部長である葉月からニケの顔を描く話が伝えられる。
部員は全員女の子。葉月のファンと化している部員も多く、画力はそれなりだ。
「……で、最後に投票で順位を決めようってことでいいよね、副部長?」
部室の中央で話していた葉月が突然あたしに振り返る。
「うん。それでいいんじゃない」
「葉月さん、締め切りはいつですか?」
二年生の子が手を挙げて問いかける。
「二週間後でいい? 弥生」
「いいと思うよ。あ、みんな、画材は何でも良いからね」
部員達はわいわいと話を始める。ニケの顔ってどんなだっけ、と言う初歩中の初歩の質問から、全身描いてもいいんですか、と質問する者、部長と副部長の一騎打ちじゃん、と言う声も聞こえた。
「ね、弥生はさ、油彩でやる?」
「うん。あんたは?」
葉月は顎に手を遣ってちょっと考え出した。今日のランチを考えてでもいるような表情だ。多分こいつにとってはほんの気分転換、お遊びなんだろうな。また苛立ちを抱く。
「んーと、まだ決めてないや」
えへへと頭を掻く。
ああ、そんな可愛らしい仕草なんて止めてよ、嫌いになれないでしょ。
「そもそも何でニケなの?」
葉月は隣にしゃがみ込み、目の前で部員達が和気藹々と話をしているのを眺めていた。
「えっとね、見たことのないものを見ておきたくなったの」
葉月の横顔を盗み見る。不安に曇っていて、あたしは意外に思う。
【二】
嘗て。
自分には絵の才能があると思っていた。
そりゃ、何かはあるのだろうと今でも信じてる。だけどね、そんなのは本物の天才の前では何の、一縷の役にも立たないんだ。
小学校からの付き合いだけど葉月に絵で勝ったことは一度もない。あたしが取った賞は全部彼女の次か、もっと下の奴だ。このまま、勝てないままで高校生活を終えるのだろうという残念な確信さえある。
だってしょうがない。
考えてみて欲しい、どうやっても越えられない壁を前にして、人に出来ることって何かを。その壁は倒せないし、飛び越えられないし、ましてやぶち抜くことなど夢にも思えない。
あたしが出した答えは単純。
壁から逃げる。
圧倒的な天才性から産み出される数々の絵を前にして逃げ出したくならない絵描きなどいない。
だけど反面、彼女の絵に焦がれている自分がいることにも気付いている。逃げたくても逃げられない、どろどろとしたどうしようもなさがあたしには渦巻いている。
放課後、部室。
「弥生、できたー?」
一人で机に向かってスケッチブックに色々とイメージを描いていると、背後に葉月が立った。
「いや、まだ何とも。と言うか」
昨日の今日でしょうが――あたしは振り返りもせず答えた。
隣に座る葉月。手には何も持たず、頬杖をついて。頬に触れている彼女の手、絵の具で汚れた指先や爪に、落としきれない塗料がこびりついている。
「葉月は? 何か思い付いてんの?」
あたしの問い掛けに彼女はふー、と細く息を吐き、大体は思い付いたかな、と言った。
「そりゃね、何でもニケっぽくなるんじゃない? あんたの画力なら」
つい言ってしまう。
「あはは。そんなことはないよ」
軽く流す葉月。
ぱきん、と鉛筆の芯が砕けてあたしは手を止める。机の表面を叩くようにしてスケッチブックを片手で閉じ、椅子に深く座り直した。遠く、少し気の早い蝉の鳴き声が聞こえている。ごおおお、というクーラーの音が耳障りだ。もうじき後輩達がやってくるだろうが、今は葉月と二人きり。
妙な静けさだ。どんなニケの顔を描くか、さっきまで考えていたイメージの余韻を捕まえるのにあたしは必死だ。
「未来ってさ、見えないよね」
唐突な葉月の声に、イメージがどこかへ飛んでいく。
「当たり前でしょ」
「ね、これから私らってどうなって行くのかな」
こいつがこんなことを口にするのを初めて聞いた。
「――何か、あったの」
葉月は自分の言葉にびっくりしたように慌てて手を振った。
「や、ごめん。におわせなんて下らない真似をしたよ。忘れて忘れて」
立ち上がる葉月。今日は部活休むね、と言い置いて出て行った。
部活中、あたしは後輩達がニケを描き出すのを後ろから眺めていた。
「弥生先輩、ここ、どうしたらいいと思いますか?」
「んー、もっとこう……」
あたしは後輩から鉛筆を借りて、陰影の付け方を少し濃くする。
「わ、見た目はっきりした」
「うん。ニケって多分ギリシャとかそっち系だから彫りが深いんじゃないかな」
なるほど、と嬉しそうに微笑む後輩の顔で、葉月の笑顔もちょうどこんなだなと思う。思って、最近はこんな風に笑ってないんじゃないかあいつ、と急に不安に襲われる。
「先輩はもう描き終わったんですか?」
「あたし? んーん、まだ」
「そうなんですね、頑張って下さい。私、弥生先輩派ですから」
「は? 派?」
後輩が頷く。聞けば、今回の勝負はどっちが勝つか部員達の間で賭事とはいかないまでも派が分かれているらしい。
「馬鹿なことやってるねぇ」
「そんなことないですよ」
ねー、と周りの部員に呼びかける後輩。
ねー、と応える後輩の数、どうやらほぼ半々。
てっきり全員葉月派だと思っていたあたしは少し嬉しくなる。
「うん、みんなありがとう。頑張るね」
きゃー、とあたし派の後輩達が盛り上がる。
ただ、それを見た葉月派の面々が険悪なムードかと言えば違う。要するにお遊びだ。もっと言えば本気なのはあたしだけかな。
「ほらほら、手が止まってるよ」
あたしが促すと彼女達はさざめいて作業に戻る。
輪になって思い思いに筆を動かす後輩の姿、あたしは少し離れたテーブルに座りスケッチブックを開ける。さっき書き散らかしたニケの顔、顔、顔。全身を描いたものもあるし、頭部のクローズアップもある。そのどれもが荒く、取り敢えず引っ張っただけの線で描かれている。全部気に入らん、思わず破りそうになるがどうにか堪える。大きな音をさせたらみんなの集中を邪魔してしまう。何ページか送り真っ白な画面と向かい合う。削り直した鉛筆、構えては、みるけど。
――だめだ。
ニケには頭が――顔がない。
エーゲ海のサモトラケ島で発見された時から彼女には頭部がなかった。だから失われた顔がどんなだったかなんて分かる訳がない。正確な再現など無理。もちろん、葉月が言っているのはそういうことじゃないのは理解してるけど。
ニケはかわいい系かクール系か。どっちかと言えばクール系な気がする。葉月はかわいい系で来るか?
それっぽい顔ならいくらでも描ける。が、それはニケじゃない。少なくとも何らかの説得力を持ってなくちゃ。
――ニケの翼。
天使のイメージではないし、もともとは女神のはず。
あたしは真っ白な画面に何本か線を引いてみる。
――翼か。
そうか、とあたしは今度は多めに線を引っ張ってみる。だんだんと身体の中からじんわり、岩から水が染み出すような緩やかな速度でイメージが湧いてきた。
鉛筆を使ってそのイメージを画面に広げていく。あたしの手が何かに操られるように絵が浮かび上がってくる。
不意に目頭が熱くなる。
絵を描くのって楽しいなぁ。心にぶわっと楽しさが広がり、訳もなく泣きたくなる。後輩達の前で泣くことは出来ないけど。
でも、何であたしはいつも、いつの間にか葉月とばっかり比べて、自分の絵が駄目だと思うんだろう。こんなにも楽しいのに、それだけじゃ駄目だと、何であたしは思ってしまうんだろう。きっと誰の中にもそれぞれの絵があって、否定されるようなことなんてないはずなのに。
「弥生先輩――」
後輩の子が一人、あたしの机の前に立っていた。
「ん、どした」
あたしは見上げながら目を擦る。僅かに指が湿った。
「あの、今日はそろそろ終わりにしませんか」
部室の壁に掛かった時計、確かに、部活時間はとっくに終了だ。
「ごめんごめん、うん、そうしようか」
あたしがにっこり言うと彼女は他の皆と一緒にイーゼルやガンバスを片付け、帰って行った。
誰も居なくなった部室。
窓から射す西日がじりじりとする。ごおー、と最後に大きく鳴ったかと思うとクーラーが停止する。途端に上がる室温、慌ててスケッチブックを鞄にしまい部室を出た。
家に帰って晩御飯を食べた後はずっと自分の部屋でベッドに寝そべりスケッチを仕上げていた。
不意にスマホが鳴った。
着信音から変えてある。あたしは画面も見ずに電話に出る。
『どもども』
葉月はいつもこうやって電話してくる。あたしはスケッチブックに走らせていた鉛筆を仕方なく止める。
「どした?」
スマホを耳に当ててベッドに寝転がる。天井に貼ってある自分の絵と目が合った。
『や、今日はごめん、変な感じで』
「いいよ別に、あんたが変なのはいつものことだし」
あははは、そうだね、と葉月はころころと笑う。でも何と言うか、顔は笑ってないんじゃないかと思った。葉月とは長い付き合いだ、あたしには彼女が唇を噛んでいるような映像さえ見えた。
「葉月」
あたしはベッドに身体を預けたまま声に力を込める。葉月はあたしの次の言葉を待っているのか何も言わずにいた。
「あんた、におわせも大概にしなよ」
スマホの向こう、葉月側の空気は少しだけ重くなった。
『うん、ごめん。実は弥生に言っておきたいこと、あるんだ』
「だから、それはもう分かっ――」
言いかけてあたしに彼女の負の感情が流れ込んできた。驚いたあたしはよく、とてもよく耳を済ます。泣いている声は、しなかった。
『んん、もうちょっと待って。もうすぐ言えるようになるから』
泣いている、あたしには分かった。あたしは何か言おうと口を開き息を吸う。けれど吐き出すタイミングで言うはずだった言葉が消えていく。言葉は消えて、あたしはただ、ただ息を吸って吐くだけの無力な女。涙の訳すら聞くことが出来ない。
『もうすぐ、もうすぐだから』
ぎゅ、とあたしはスマホを握りしめた。みしみしと微かな音たててスマホが軋む。いっそこのまま握りつぶそうかとさえ考えた。破壊できればひとまずこの場を終われると、ひどく後ろ向きなことを考える。
「ねえ葉月、あたし、ニケ、描けたよ」
どうにか出した声。スケッチブックの中、あたしのニケはもう息づいている。
『そっか、あたしもすぐに描くよ。でね? 私ね――?』
かちり――ギアが変わった。
さっきまでとは違う。葉月が覚悟を決めたと、確信する。
私ね、絵が描けなくなるんだ。
【三】
二週間後。
美術部一同は部室に集まり、皆の描いたニケの顔を鑑賞している。一つ一つカンバスを壁に掛けてぐるりと三百六十度、拙いものやよく描けているもの、多彩な絵が並ぶ。
「やっぱり、葉月さんの絵、素敵……」
「弥生先輩のだって、凄い!」
部員は口々にあたし達の絵を見て感想を漏らす。
葉月の描いたニケの顔は華やかで、サモトラケ島から掘り出してくっつけたと言っても信じられるような自然な笑顔だった。全身は描かれていない、正面顔のどアップ。だからこれがニケの顔かと言われれば誰でもない顔なんだけど、ニケと言われればすんなりと胸に落ちる。この説得力は葉月にしか出せないとあたしは思う。
「うん……ちゃんと、描けた」
葉月の顔、絵の中のニケとはまるで違う色のない笑顔。愛想笑いの方がまだましだ。
「弥生のニケさ、顔は?」
「うん、まあ、それは」
あたしが描いたのは横から見たニケの全身。彼女は両翼を広げ飛び立とうとしているけど、肝心の顔は舞い散る羽根で隠れてよく見えない。じっくりと見れば羽根の何枚かには反射したニケの顔がうっすらと描き込んであるけれど、それはあたしの自己満足に過ぎない。要するに、結局あたしにはニケの顔をきちんと描くことは出来なかった。見たことのないものは、あたしには、描けなかった。
「でも、羽根に映っている顔はなんだか美人さんだね」
「そう? 普通じゃない?」
「敢えてはっきり描かないの、あたしは好きですっ」
皮切りに後輩達の口から次々と感想が語られる。
そうやってあたし達は自分の描いた絵と、他の人が描いた絵に順番に感想を言って、最後にどの絵がいちばん良かったか投票した。
きっと葉月にとってはこれが最後の順番決め。
彼女の目がもうすぐ駄目になるなんてあたしには信じられない。けれど、これから確実に視力を失っていくと葉月は医者に言われたのだ。精密検査の結果が最近出たらしい。
視えなくなるまでは描くよ、と彼女は言った。それはつまり、どこかでは視えなくなって描けなくなると言うこと。それも、遠い未来じゃなくってこと。
あたしは何て言っていいか、どうしたらいいか、全部分からなかった。普通の人でも見えなくなったらしんどいのに、葉月は絵描きなのだ。ううん、それだけじゃなくてこれから、もっと、もっと……。
「一位は葉月先輩です!」
票を集計していた子が周りに報告する。
「うん、ありがとう」
拍手の中、葉月はにこりと後輩たちに応える。あたしは改めて彼女のニケを見た。
結局、あたしは勝てなかった。
見たことのないもの、描くのは難しくて。
葉月の凄さってそこなんだと改めて感じる。
「ああ、本気でやるって言ったのに、顔が描けなかった」
「ん、そんなことないよ。ここにあるのはちゃんと弥生のニケじゃんか」
あたしの絵に近寄って、羽根に映るニケの顔に葉月は指で触れる。
「私、こういうのも好き」
振り返ってあたしに笑った葉月はでもやっぱり目が笑っていなくて、それでもあたしは何かを言うとかは出来なくて、何かを言わなきゃいけないとは思うのに、どう言ってみても葉月の気持ちにはきちんと寄り添えない確信だけはあって。
「葉月……」
「弥生は描き続けてね?」
あたしが何かを言う前に葉月は部室を出て行った。
葉月の背中に翼がありはしないかとあたしは探した。
けれど、そんなものはどこにも見当たらなかった。
【四】
葉月の個展は大盛況だった。
残っていた二枚は結局描けなかったみたいだけど、そこはニケの絵で勘弁してもらったようだ。アーティストが高校生という物珍しさも手伝ってか、連日大盛況。
展示した三十点あまりの絵は全て売れた。
最終日。
人気のなくなったギャラリー、あたし達は壁に掛けられた葉月の絵を眺めている。
「これ全部売れたとか、凄いね」
「まあね、自分でもびっくりしてるよ」
葉月は床にしゃがみ込み、あたしを見上げる。
「ね、全部写真に撮ってくれた?」
スマホを葉月に振ってみせる。
「後でデータ頂戴ね」
あたしは頷き、頑張って何でもない風の声を出す。
「あと、どのくらい?」
小学校からの付き合いだ。高校まで十二年、あたし達は互いの側に常に居た。どちらかが大きく変わるなど考えたこともなかった。
「二年か、三年」
既にもう、結構ヤバい、と葉月は小さな声で付け足した。
想像以上の進行速度、あたしは言葉もない。
「弥生、覚えておいてね」
私が描いた絵を、その、全てを。
いつか消えてしまう彼女の光、でも、彼女が生み出した光は消えたりしない。
「わ、分かってるわよ。任せといて」
ことさら笑って葉月の顔を見る。
あたしに出来ることは何だろう。
絵をやめると言ったことなんて忘れて、あたしは最近、そればかりを考えていた。
【五】
「きれいな色だね、葉月」
「でしょ? 秋の空に良いかと思って」
二人の前にあるのは一メートル四方のカンバス。
葉月は座り、絵筆を握る。あたしは彼女の横。
郊外の長閑な住宅街にある一軒家。
ここは二人のアトリエだ。
あたしは彼女と組んで作品を発表し、そこそこ世間に注目された。葉月は早々と目の病気を公表し、年々衰えていく視力と戦い続けている。社会はそんな彼女に関心を持ち、活動はたびたびテレビでも特集された。
「うん、だいぶ良くなった」
そっか、と葉月は嬉しそうだ。もう、目は殆ど見えていない。にもかかわらず、葉月の描く絵は人の心を鷲掴みにする。
「次、どこがいいと思う?」
あたしはカンバスにざっと目を通してちょっと考える。いま描いているのは風景画だ。秋の並木道、カメラは人よりもかなり低く、見上げるような視点。高い空の下を人がぽつぽつと行き交い、爽やかな空気感が画面の外に漏れ出ている。
「何だか空が寂しい気がする」
ありがとう、葉月は筆を絵の具に浸し、カンバスにかざす。
「あー、確かに……この辺……」
葉月は大胆に筆を動かす。不思議とそれは見えているような運筆で、鮮やかな秋の空を描き出していく。実は見えているのではないか、そんな気さえした。だったらどんなに良いか。だが現実には、今の葉月は狭くなった視野の外を想像力で補い、全体を絵画として成立させているのだ。それがどれだけ大変か、あたしにだって分かる。
「さ、今日はこの辺で終わろうか」
葉月は筆をパレットに戻す。立ち上がる。よろめきはあたしが支える。
「紅茶でも飲む?」
頷く葉月を、そばのテーブルに座らせた。
「はいどうぞ」
二人で紅茶を飲み、クッキーを食べる。さくさくと音を立てながら、あたしは絵の中と同じような秋の空をアトリエの窓から眺める。思えば、高校を出てこのアトリエで二人暮らしを始めてから、三年が経っていた。
「弥生ってさ、今どんなの描いてるの」
あたしはアトリエの隅にある自分の作業場所に目を遣る。こちらからはイーゼルが見えた。
「……ニ、ニケの顔」
「え、何それ」
あたしは紅茶を一口飲んで、興味津々の顔をしている葉月に向かって口を開く。
「や、今なら見たことのないものも」
描けるかと思って。
「ふーん。で、どんな感じ」
あたしは首を振る。大昔に描いた時の方がまだましだと思える程、絵の出来はひどい。
「きっとさ」
葉月はマグカップに両手を添えた。彼女の手元にはクッキーの破片が幾つも散らばる。
「見えないものは見ようとしても駄目なんだと思うよ」
「昔はあんたがニケの顔を描こうって言ったんだけど?」
「あはは。そうだったね」
葉月は笑って、紅茶にそろそろと口を付けた。
「でも、あたしだってそうだよ。見たものしか描けない。見えないものは、無理」
葉月の言葉にあたしは思い当たる。
そうか、葉月はあの時。
――ニケの、顔を。
その目で見ていたのだ。
ニケの顔を、彼女だけははっきりと目にしていたのだ、と。
あたしの目をあげるよ――口に出してしまいそうになる。
「見ていい?」
彼女の覚束ない足取りに合わせるようにして二人であたしの作業場所へ。カンバスの前、ニケの顔。
「ん……顔がないんじゃない?」
「よく、見えたね」
「あるかないかくらいはね」
カンバスに描かれているのは首から下しか描かれていないニケの身体。
「あたしはね、やっぱり見たものしか描けないよ。見たことのないものが描けるあんたが、羨ましいよ……」
あたしは彼女の頬に手を伸ばす。
葉月はその頬に手を添えて、軽く目を閉じた。
「もう、それも出来なくなるよ」
「そんなことない、見えなくなったらあたしがあんたの目になる。あんたはあたしを通して世界を見ればいい」
「何言ってんのよ、弥生……無理でしょう? そんなこと」
顔を上げた葉月の目から一筋だけ流れる涙。あたしは彼女の手を取って、そっと包み込んだ。目を閉じる葉月。
「出来るよ。と言うか、あんたから絵を取ったら何も残らないでしょうが」
うん、弥生が言うなら、出来るかもしれないね――呟くような葉月、目を閉じたまま悪戯っぽく笑い、ちょっと迷った顔をした後、あ、と声を上げた。
「ん? どした」
何だか見える気がする、と葉月。芝居がかっていた。
「いくらなんでもそんな訳あるか」
ううん、そんな訳あるよ、彼女は目を閉じたまま辺りをきょろきょろ。
「見えるよ、弥生」
ひどくはっきりした足取り、手をつないだまま迷いなくあたしのイーゼル前に座って筆を取る。躊躇いのない筆捌き。
あたしの視界を共有できたはずはない。
それでも、あたしのニケの身体に葉月の描いたニケの顔が実装される。華やかでこぼれるような笑みは間違いなく、高校の時に見たあのニケの顔。
「ね? 弥生の目が、あたしのになったよ。ありがとうね」
振り返った葉月、目は閉じられている。まさか、ほんとに――?
あたしは彼女をそっと抱き寄せた。
「因みに、今は何が見えるの?」
「何も見えないよ。真っ暗」
あたしは目を閉じていた。
「正解」
二人で笑って、あたしは窓の外、秋の風景に目を遣った。音もなく雨が降っていて、少し曇り空。
「いい天気だね、今日」
葉月の声がした。あたしの衣擦れの音が聞こえたのか。目は閉じたまま。
あたしは込み上げてくる涙が一粒も外に出ないよう必死でこらえる。
だって、もし本当に葉月があたしの目で見ていたらばれてしまうから。
見えると言ってくれた葉月の気持ちを台無しにしたくはなかったから。
「うん、そうだね。快晴――だよ」
あたしはただ、涙を流す行為以外の全てを使って、めちゃくちゃに泣いた。




