7 新たなる戦いの始まり
「三静(静思、静語、静行) : 静かに思い、静かに語り、静かに行う」
「謙抑、受容、中庸、無私の四つのこころにより、静穏で快き精神に達し、保持する」
「創造することに心を煩わせず、学ぶことを重んじる」
「劇的なものを求めず、日常生活を重んじる」
「私的所有物は最小限として、社会的資産を共有し余剰な生産は行わない」
「生活していくのに不可欠なこと以外の仕事。広告・宣伝、営業、実体の無い先物・金融取引などの職業は排除して社会の総労働時間を軽減する。
それによって成り立つ社会体制を構築する」
「各個人の日常生活における行動、言動のライフレコーダー化によるトラブル発生時の正邪判断の迅速化、マニュアル化の達成。そして法曹関係職の不要化(邪悪な行動、言動を為し得る人間の、社会からの隔離、排除を目的とする)」
「人格主義、教養主義を主動とする社会の構築」
藤田寛幸の妻。静穏中庸党代表、政務委員長となった藤田愛美は、あらためて謙受会の中心となる、望ましき人間像について、そしてその構築するべき社会について想いをはせた。
その謙受会の唱える精神を中心に世界を再構築することを志したのが静穏中庸党。
―このような教えでよく世界が統一されたものだ。
愛美はそう思う。
なぜ、それができたのか。
それは藤田寛幸という人物が存在したから。
その語る言葉に、その語る姿に人々は魅せられた。
世界全体が、藤田寛幸という男に集団催眠をかけられた。
その集団催眠は数年間続いた。
このような形で世界が統一されるとは。
その驚き、その感動に世界中が熱狂した日々。
いや、熱狂という形容は不適切だ。
その言葉は、謙受会の唱えることと正反対の状態。
静かな、たが十全に満たされた歓喜の波動が世界を充たした。
解決の難しい諸問題を抱え、崩壊に向かっているかに思われ
た世界がこれで救われた。
世の中の多くの人々がそう信じ込んだのである。
その喜びは、人間の本源的欲望とは決して相容れないはずの藤田寛幸の唱える理想の世界を実現させ、維持させた。
が、その集団催眠は数年間で醒めた。
愛美は、むしろよくそれだけの期間続いたものだと思う。
それは人々を信じ込ませるに至った藤田寛幸という男の持っていたカリスマ。
そして、藤田寛幸はもういない。
いや、寛幸がまだ生きていた時期、数年前から世界の風潮は変化していた。
静かなる歓喜に覆われていた世界は、その喜びの感情が日常化すると、あらたなる刺激を求めた。
元々、刺激と競争に溢れた世界で生きてきた人たちなのだ。
愛美の対面には、愛美の義兄。
静穏中庸党副代表、内務委員長である藤田秀一がいた。
静穏中庸党代表執務室である。
「この日本においても、世間では政務委員長の独裁を定めた時限立法の停止と総選挙の実施を求めています」
「そうね」
「世間の求めに応じますか。諸外国でも同様のことが起こっていますし、どの国の静穏中庸党政権もそれを受け入れ近く次々に総選挙が実施されることになります。我が静穏中庸党が勝てそうな国はありませんね」
「こういう場合、独裁的権力を持つ政権はその維持のために武力によって鎮圧するのが普通ですけど、それをする国はどこにもないということね。
まあそうでしょうね。謙受会の唱えることに基づき創設された静穏中庸党が、武力鎮圧などできるわけがない。世間の風潮がこうなってしまった以上、静かに政権の座から去っていくしかないでしょうね」
「そうですね。私もそう思います」
「静穏中庸党の実質的創設者としては、残念に思われますか」
「いえ、そんなことはありません。むしろよくこれだけの年数、政権の座にあることができたものだという思いが強いです」
「そうね。私もそう思います。実施しましょう。この日本でも。総選挙を」
「諸外国同様、素直に下野しますか」
「……」
「世界は、寛幸が登場する前の姿に戻ってしまうのでしょうかね。
そういえば、静穏中庸党政権下においてあれだけ隆盛を極めた超越教もいまどんどん信者が離脱していますね。あの教義、謙受会の唱えることと関わりがあるわけではありませんが、謙受会プラス超越教というのが、ひとつのファッションのようになっていましたからね」
「そうね。でもそのままの姿では戻らないのではないかしら。
静かな熱に浮かされて平常な心ではなかったかもしれないけれど、それでもこの世界は奇跡のような数年間を持ったわ。その記憶は世界の人たちの心に刻み込まれたわ。来たるべき世界は、寛幸さんが登場する前の姿、そのままにはならないと思います」
「はい、でもその世界を、あなたも私ももう傍観者として眺めるしかないのですね」
「本当にそう思っているのかしら、秀一さん」
「……」
「総選挙は実施します。でもまだ負けると決まったわけではありません。日本は寛幸さんを生んだ国です。
寛幸さんがこの世界とそこに存在する人間について抱いた想い。
それを心に持ちつつ、世の人々が今求めていることを叶えていく。
そんな社会も可能なのではないかしら。
ねえ、秀一さん。あなたもそう思っているのでしょう」
秀一は静かに微笑んだ。
「さあ、総選挙で私達が勝てるための公約を考えましょう。あなたの今、心の中にあることを言葉にしてみてください」
「はい、しかし勝てますかね」
「あなたと私が手を組むのよ。どんな世の中になろうが勝てないわけないじゃない」
数年間は傍観者として世界を見守ってみるか。
藤田秀一は、そう思っていた。
が、愛美の言葉を受け入れよう、と秀一は思った。
そのほうが面白そうだ。