甘夫人の死
甘夫人の死
「これからという時に、死ぬやつがあるか」
絞り出すような声。頬に落ちる温かい涙。あなたの体温。
また泣いているのですね。人の上に立つ者は簡単に泣いたらいけないと、憲和さんも言っていたでしょうに。家族だから許してあげますけど。
「やっとここからなのだ。我らの時は、孔明を得てようやく始まったのだ。今まではまだ出発地点にも立っていなかったのだから」
確かにあなたの不遇の期間は長かった。わたしも麋氏の姉さまも、ずっと戦乱のさなかにいた気がします。徐州では置いていかれて関羽さまにご苦労をかけたし、その後もあなたといると危険なことばかり。我が夫ながら本当にひどい人だわ、劉玄徳という人は。どうしてこんな人を好きになったのかしら。もっと平凡な人に嫁いでいればよかった。
でもとても楽しかった。何故だか思い出されるのは楽しい思い出ばかりなんです。何度も死ぬような目に遭っているのに、おかしなものですね。
「すまない。私はお前たちのよき夫でもよき父親でもなかった。一人の男として失格だった」
本当にあなたときたら綱渡りのような人生。大事な跡取り息子まで危険にさらすような生き方をして。人としてはとても魅力的だけれど、夫に持ったら苦労ばかり。
麋氏の姉さまも、生きていたらきっと同じことを言うことでしょう。武芸に秀でた姉さまのことだから、得意の槍を持ち出してあなたを追いかけ回したかもしれませんね。阿斗を危険な目に合わせてどういうつもり、しっかりしなさいって。気が強くて可愛い人でした。
わたしの産んだ阿斗を守って亡くなった姉さま。麋竺様の妹御。姉さまがいたから、過酷な状況も乗り越えてこられた。姉さまの分までわたしは生きて、幸せにならないといけなかったのに。
あなたの国がようやく落ち着いた時に病になるなんて。
ごめんなさいね。
恨み言ばかり言ってしまって。最後だから許してください。
わたしたちを置いていった時のあなたの悲しみの深さ。ご自分の無力を嘆いて、血の涙を流していたと聞きました。
後ろ盾のないあなたは人の縁が全て。家族を失っても家臣たちの手前嘆くことはできない。家臣たちを優先しなくてはならない。
皆の前では言えなかった言葉が、流せなかった涙があなたにはたくさんある。思いの深い人だから人一倍傷つく。民のために、人のために、いつも。でも人には決して見せない。
「お前は優しいな…その優しさに甘えてきてしまった。どう償えばよいのか」
いいんですよ。償いなんて劉玄徳には似合わない。そんなあなたを好きになったのだから。これくらい覚悟の上です。
そんなに強く手を握らないで。もう逝かないと。
かわいそうなあなた。大事な人に先立たれる運命なのでしょうか。
大丈夫。わたしは知っています。分かっています。夫に持つには困った人だけれど。
こんなに温かい涙を流せる人が、優しくないわけがないじゃありませんか。
優しいのはあなたです。
(了)