序章「ジョン・Q・パブリックの手記より抜粋」
『私が目を覚ましたのは湖の中だった。目を開けると歪んだ水中の視界があった。状況を理解した私は驚きのあまり「あっ」と言おうとして肺に水を送り込んでしまった。
溺れる、ということだけが頭にあった。私は錯乱状態の中、本能のままに、上へ、上へと浮上しようとした。服が水の抵抗を受けてそれを邪魔したが、それらを脱いでから浮かび上がろうとするだけの冷静さはなかった。
無我夢中でたどり着いた水面で必死に息を吸った。そこは幸運にも湖で、泳げば届く位置に陸があった。呼吸が落ち着いてから泳ぎだし、重い体を自ら引き上げて陸に倒れこんだ。
私は横たわりながら、「ここはどこだろう」と考えた。見覚えのない場所であったし、何より水中で目覚める理由などないはずだった。
しかし、記憶をたどっても、最後の景色が思い浮かばなかった。日常を思い出すことはできた。毎朝コーヒーを入れて新聞を読むこと、愛車で職場へと行くこと、仕事はおおむね順調であることなどだ。だが、直近の出来事を思い出すことができなかった。不可解なこの状況にいたる原因ならばすぐに思い出せようものなのに、一向に記憶はよみがえらない。
私は冷えた体をさすった。太陽は昇り始めたところのように見えた。ともかく移動しようと身を起こし、周囲を見回した時だ。
湖面におぞましい物の影が映った。何と形容しようもない。ただ、恐怖、嫌悪、絶望などの厭うべき感情を煮詰めたような物だ。それは言語を超越した未知の意思伝達法を用いて私に語りかけた。
「この世界で翻弄されるお前の姿を見せておくれ。私は飽き飽きしていたのだ」
私はしばらく動くことができなかった。手足から体温が抜け落ち、身体じゅうが震え、許容しがたい状況を吐き出すように胃の中を土地の上にぶちまけた。
そうして長い時間が経った。日は既に高くなっていた。力の抜けた手足に鞭打ち、私はようやっと立ち上がることができた。
私は歩いた。人のいる場所へと行き、元の日常へと戻りたいと願った。あのおぞましい物を思い出すたびに目がくらんだ。幻覚だと思いこまねば正気でいられなかった。あれがここは地球ではないと言ったことが気にかかったが、頭からその可能性を振り払った。
日が少し傾いてきたころになって、私は巨大な塀を遠方に見つけた。遺跡だろうか、観光地ならば人がいる。一縷の希望が見えたと思った瞬間、塀の向こうから花火が上がった。白い煙が空に浮かび、遅れて爆発の音が聞こえた。そして、私は信じがたいものを目にした。
爬虫類のような出で立ちでありながら蝙蝠に似た巨大な翼を有し、恐竜のような頭部を持つ生物が、花火とともに空へ飛び上がったのだ。推定3マイルの距離からでも視認できるほどに大きな謎の生物。それはファンタジーの世界にのみ存在するはずの、「ドラゴン」と称されるものによく似ていた。
その時、私は悟った。理解してしまった。私はあのおぞましい物によって日常から連れ去られてきてしまったのだと。ここは私の知る世界ではないのだと。そして、私はあれの退屈を紛らすために利用されるのだと。
私はこの悪夢から早く覚めたいと願い続けている。毎夜目を閉じるたびに、かけがえのなくつまらないあの日常を望んでいる。
しかし、あれは私を手放しはしないのだ。私がこうして苦しんでいる以上、私にはあれを慰める玩具として生きる道しか残されていない。私の安寧はどこにあるのだろうか。あれの飽きが来るまでか、あるいは幸運にも死に絶えるまでか。ああ、しかし、理を逸脱した私の末路にはきっとあれがいる。あれが真っ当な最後を許すはずがない。ああ、私は、私は……』