第10話「ある未来の軌跡と覚悟と決意」
月日はあっという間に過ぎていった。
レンとユッサが転生してから早半年。半年というのは一年の半分。人の一生からすれば大した時間ではないのかもしれない。しかし確実に時間は過ぎていて、もっといえば日に日に老化しているのである。
永遠の若さ。永遠の美。
老若男女問わず求める究極の理想。異世界であろうとも『不老不死』など眉唾ものでしかなく、机上の空論もいいところだ。
老化の先にあるものはなにか。その答えはあまりにも簡単であまりに単純。しかし誰もが命あるかぎり遠ざけたく背けたくなるもの。
一文字で表すと『死』である。
時間からは逃げられない。
老いからは逃げられない。
しかしながら、逃げられないからと諦め立ち止まってしまえば思考も止まってしまう。
考えることすらやめてしまうことは、生きていながら死んでいるのと同じことだ。
百歩譲って諦めることも逃げることも構わない。だがしかし思考を止めることは許しがたい。
思考を止めなければ、いつかは『逃げる側』から『追う側』になれると思える。
立場が変われば心持ちも変わる。余裕が生まれ視野が広がる。一本しか見えなかった道も二本三本と見えてくる。
違う道を選択することは『逃げ』なのだろうか。
そもそも『逃げ』とはなんだろうか。
そこで再び思考を始めることができる。結局のところ重要なのは過程ではなく結果。どういう道を歩こうが辿り着ければいい。
だがしかし、決して道を踏み外してはいけない。
それは『逃げ』ではない。道を『踏み外す』ことは『反則』である。物事には近道や遠回りはあれど、きちんと道を辿った結果の時間差であり、道を踏み外してしまったらきちんとした時間差は出ない。
結果は重要だ。過程は二の次、三の次。だがそれは他者からの視点でのこと。
過程はいわば経験だ。近道をして効率のいいやり方を身につけたにせよ、遠回りして一から十まで詳細な順序によるやり方を身につけたにせよ、結果的に同じものを作り出せれば問題ない。
では道を『踏み外す』ことを選んだらどうだ。見るも触るもせず、誰かが作ったものを横から奪い、何食わぬ顔で自分が作ったとするかもしれない。
死からは逃げられないと道を踏み外した過程を経た結果、いったいどうなるのか。
絶望の絶望による絶望のための世界。そう形容するが容易い漆黒の領域。大地に染み込むは、血と涙と汗――体液という体液。
ただし『流血』と『悔し涙』と『冷や汗』である。
世界という箱庭に甘んじた結果、進化は止まり、発想をやめた。それが人類の限界。不変を望むのならそれでもいい。『多数が清く正しい』とする箱庭に収まりたいのならそれでいい。
だが『少数が汚らわしく間違い』とする箱庭に収まることには反旗しよう。
右に倣えが正しいというのなら、左を向く。
握手が和平への近道というのなら、拳を握り闘う。
近道や遠回りが正しいというのなら、道を踏み外す。
たった一度の悲劇。されど一度たりとも許されない悲劇。必要な犠牲などありえない。あってはならない。
死からは逃げられないというのなら、道を踏み外し、思考を止めず、進化する。
世界が箱庭と誰が決めた。
箱庭が箱と誰が決めた。
箱が四角と誰が決めた。
思考を止めず、常識を疑い、既成概念を取っ払う。
どれだけ卑怯、反則、外道と言われようとも構わない。重要なのは過程ではなく結果なのだろう。
現実から目を逸らし、汚いものに蓋をし、上辺だけの正しさに右に倣えをすることが平和なのだろう。
そんな世界は死ななければ直らない。
塗りたくることが美しさというのなら、傷だらけでいい。
共感することが団結というのなら、孤独でいい。
死を迎えることが人生の終末というのなら、生き恥を晒す。
悪と呼びたければ呼ぶがいい。
どんなに正義感が強い勇者だろうと、唯一無二の天才だろうと、悪運の強い曲者だろうと受けて立つ。
心があれば、心を強く持てば、絶対に負けない。負けることは許されない。
皮肉にも喜怒哀楽のうち、怒りと哀しみを強く持ったことがきっかけとなり、不老不死となった。
世界に反旗した結果、誰もが羨む不老不死を得た。
これは呪いかイタズラか。なんにせよ構わない。悪は生まれながらの悪ではない。悪にしたのは世界だ。悪を生んだのは世界だ。
そんな世界はいらない。喜びと楽しみを奪った悪を生んだ世界はいらない。
空は晴々としている。虫唾が走る。
大地には花が咲き誇っている。虫唾が走る。
誰もが笑顔を浮かべている。虫唾が走る。
まただ。何度も何度も頭にくる。
そうやって過保護を貫くというのか。我が子可愛さに何度でも犠牲にするというのか。
ふざけるな。そうやって彼女を弄ぶのはやめろ。
もう好きにはさせない。大女神だろうと関係ない。
俺の愛する――を利用するのなら、漆黒に染まってでも『死』から逃げてやる。