脚立
とある町のはずれ。一棟の公営マンションがあった。
高齢化と過疎化が進んだ、この町のこのマンションには、多くの独居老人が住んでいた。その内の一人、川島圭子は今年、77。4階建ての3階に住む彼女にとって、エレベーターのない、このマンションの階段の登り降りは、最近、ずいぶん骨の折れる運動になってきた。やはり、歳には勝てない。
そんなある日、買い物帰りの川島圭子は両手に大きなビニール袋を持ち、一気に3階まで登り切る事ができず、うつむいて、中二階の階段に腰掛け、休んでいた。
「おばちゃん、だいじょうぶ〜?」
顔を挙げた。幼い女の子のまん丸い目が覗き込んでいた。
4、5歳くらい。おかっぱ頭が可愛いらしい。
「疲れたから、休んでるだけだよ。大丈夫だよ」
「あたしが、うしろから押してあげる〜」
「そうかい。じゃ、頼もうかね〜」
女の子は、川島圭子の太もものあたりを精一杯、押した。女の子の援助は、川島圭子が3階まで上がりきるのに全く役立たなかった。
「あ〜、助かった。お嬢ちゃん、力持ちじゃね〜」
川島圭子は、あらためて正面から、女の子を見る事が出来た。今はもう、高1、高3になった、遠い都会に住む、孫娘たちの幼かった日々を想起させた。
川島圭子は、やせた手首に巻いた時計に目をやった。時刻はまだ、3時。4時までに帰宅させれば、親御さんも心配はするまい。
「おばちゃんの所で、ジュースとお菓子、食べてくかい?」
「うん」
ドレミのラあたりの声が、人気のないマンションの廊下に響いた。
部屋にあがった川島圭子は、煎餅とオレンジジュースを用意しながら、女の子の名前と歳を聞いた。
「そら」と叫びながら、右手の手のひらをせいいっぱい、広げた。
「おにいさん、とか、いもうと、はおるんね?」
盆にのせた、ジュースと煎餅を、空の前に置いた。
「いない」
空は出された煎餅にがぶりついた。ガチッというような音がした気がした。空の表情は固まっている。
「空ちゃんには硬すぎたかね。こうやって食べなさい」と言いながら、川島圭子は、ネズミが前歯でものをかじるもの真似をした。
空は、ケタケタと笑った。
そうこうする内に40分は瞬く間に過ぎた。
ーもう、帰さないとねー
「おばちゃんとお話ししてくれたお駄賃ですよ。また、遊びに来てね」と、蜜柑が5個入った袋を渡そうとした。
その時「みかんより、10円がいい」
「なんでね?今どき、10円じゃ、何にも買えんよ」
「いいの。10円がいいの」
訝しく思いながらも、川島圭子は10円を渡した。
ー大金をあげるのも良くない。貯めてなにか欲しい物があるんだろうー
10円を握り締めると、空は暗い廊下の奥に走って消えて行った。
3、4日後、川島圭子が昼食を済ませ、ドラマを観ていると、「おばちゃん」とドアを小さくノックする音がした。空である。
小一時間ほど遊んだ帰り際、川島圭子は、リンゴとお菓子と10円、どれがいいと尋ねた。
空の答えは、やはり10円だった。10円を渡した。
空による心和む時間の提供と報酬の10円。そんなやり取りは、5、6回続いた。
ある日、川島圭子は友人の家に遊びに行った帰り、小さな女の子がマンションの外れにある電話ボックスを開けて入って行くのを見かけた。空だった。
携帯の普及が進んだ昨今、電話ボックスなどそこに一つ残っているだけだ。ほとんど利用する者はいない。
彼女の背丈では、到底プッシュボタンに手が届かない。ボックス内の電話機本体の少し下に手荷物を置くためにアルミの平台が設置されている。
彼女はそれによじ登ろうとする。川島圭子は手助けしたくなるのを我慢して、見守っていた。
なんとか、登り切った空は、10円を入れてボタンを押し、ほんの短い間、話をしていた。川島圭子があげた10円は、電話をかけるためのものだったのである。
ーでも、いったい誰とー
今度、空が遊びに来た時、それとなく聞いてみようかとも思ったが、子供と言えども聞かれたくない事もあろう。やめておく事にした。
そんな事があって以後も、空の訪問は続いた。そして、10円のお土産も。
ある時の訪問の帰り、空のポッケから四つ折になった紙切れがドアに続く廊下に落ちた。気付かない空はそのまま、帰ろうとする。紙に書かれた、09で始まる数字の羅列が覗き見えた。大人の字である。
「もしもし、空ちゃんよ。何か落としたよ」
「あっ、だいじなもの。おっかーが家を出ていくとき、最後にくれたもの」
川島圭子は天をあおぎ、目からあふれ出るものをこらえた。
翌日、川島圭子は商店街の金物屋で、一番頑丈そうなステップ台を購入し、一つ残る電話ボックスの中に置き、自ら、その脚立に何度も登り降りし、それが安全である事を確かめた。
そして、思った。
ー今度来たときには、100円にするかね。たまには、ボーナスもはずまないとねー
ー完ー