別れの灯火
あの日の夏祭りは、今でも忘れられない。彼に甘えた、最初で最後の夏祭りだから。
―――――今日は……夏祭りだ―――――
少し憂鬱で、とても楽しみだ。
今年の花火は、私の目に、どう映るだろうか……。
残り僅かの時間は……彼と過ごしたい。
この景色を誰にも気付かれず、たった一人で一望するのは、今年で十年目になる。
今年は、彼は来てくれるだろうか……。
そう思いながら、墓石に座って海を眺める。太陽の光が海の水面に反射して、私の目に入ってくる。その光は、私の背後に広がる樹木に映り、さざなみを立てている。
「あぁ……退屈だぁ……。誰か来てくれないかなぁ……」
呟いて下を見ると、道路の脇に一台の車が停まっているのが見えた。見た事の無いそれは、私の空っぽの心に、云い知れない高揚感と幸福感を与えていた。
私は墓石から飛び降り、下まで続く坂道を覗き込んだ。それと同時に一気に胸が高鳴って、気が付いたらその人のもとへと駆け出していた。
「慧丞! やっと来てくれたんだね!」
私が寄って抱きつこうとした瞬間に、彼は石に躓いて転んだ。彼が必死になって、守るように掴んでいた百合の花が、蒼天に向けられていた。
―――――私が一番好きな花……覚えていてくれたんだ―――――
心と顔がほころんで、彼に手を差し出してしまう。あの頃と変わらない。少し間が抜けていて、可愛いような、かっこいいような顔を見て、つい苦笑いをしてしまう。その中の照れを隠すように、被っている麦わら帽子を、しっかりと被る。
彼は一瞬こちらを向いて驚いた。見えたのだろうか。いや、見えたとしても、仮にそうだとしても、「幻覚だ」 なんて思って一蹴してしまうだろう。私は確かにここにいるのに……。
彼は立ち上がって、また歩き出した。
しばらく坂を上って、さっきまで私が座っていた墓石の前に百合の花を置いてくれた。白くて綺麗な百合の花は、そこから辺り一体に甘い香りを撒き散らしていた。
「立派な百合だね! ありがとうね、慧丞!」
彼からの反応は無かった。これ程までに悲しい事は無い。もう一度、彼と笑い合いたい。それがもう、叶わない事だと解っているけれど……。
そう思っているうちに、彼は墓に彫られた名前を見ていた。
「西野家之墓」
と刻まれているそれは、私のものだ。
私、西野 美咲は、とっくの昔に死んでいる。その日から、私の時間は止まっている。
もう二度と、動き出す事は無い。
一人遣る瀬の無い悲しみに暮れていると、彼はうつむき重そうな口を開いた。
「……美咲……。今日は、お別れを伝えに来たんだ」
「……えっ? それって……どういう……」
「実は、海外に転勤になってな……来年からも来れそうに無い。きっと、僕はそこで一生を過ごす事になる。……だから今年は、夏祭りで命日のこの日に、君に逢いに来たんだ」
「……そっか……お仕事、頑張ってるんだね……ちゃんと生きてるんだね……」
私は嬉しいような、寂しいような気持ちに襲われた。私の大好きな彼が、記憶の中だけで、同じ言葉を繰り返す人形のようになるのが、とても怖くて、寂しくて、悲しい……。
「……花火。……日本で見る最後の花火は、君と見たかったんだ。……済まない、僕が殺したようなものなのに、自分ばかり勝手な事を云ってしまって……」
「勝手なんかじゃないよ! 慧丞が私を殺した訳でも……。私自身のせいだよ? 自分を過信しすぎていた私の……」
急に胸が苦しくなって、両手で押さえた。その痛みで、十年前の事を思い出す。
十年前のこの日、夏祭りで遭ったことを。私が殺された時の事を……。
誰もいない。どこまでも閑散としていて、言葉で表すことができない何かが襲い来る。やっぱり彼に付いてきてもらえば良かった……。
後悔していた頃、前方から誰かが歩いて来た。点のように設置された街灯に照らされて、その姿が私の目に認識された。
「あっ、北嶋さん、どうしたの? こんな時間に」
それは同じクラスの北嶋 妙子さんだった。クラスの女子の中心で、少し傲慢なところがあるから、私はあまり好きではない。思い通りにならないと、すぐ怒ったり……。
「西野、あんた南 慧丞君と付き合ってるわよね?」
「そう……だけど……。だから何?」
「何で付き合ってんの? 馴初めは?」
「……陸上部で同じ競技で……コツとか教えてもらってから……仲良くなって……それで……。ねぇ、何なの?」
彼女はポケットから革の手袋を取り出し、手にはめた。何をしようとしているのかを訊く前に、北嶋さんは云った。
「別れてよ。私、彼が好きなの」
「……はぁ? そんな事できる訳無いじゃん! ふざけてんの?!」
「これでも?」
肩から提げていた小さなバッグから、刃渡り十五センチ程度の包丁を取り出し、私に向けてきた。
「…………っ!」
「死にたく無ければ、適当に振ってくれない?」
「……絶対に嫌! 私達はずっと一緒にいるって、約束したから!」
「そんなの知らない! 別れろって云ってんだよ!」
「どこまで自分勝手なの! 莫迦じゃないの!」
絶対王政のようにクラスの女子を支配する彼女の事だ、きっとこんなに云われた事が無いのだろう。それが図星だと云わんばかりに、下唇を噛んでいる。
しばらく静かになって落ち着いたと思った私は、彼女が手に持っている包丁を見て、云った。
「それ……包丁……。銃刀法違反になるから、さっさとしまって帰りなよ。受験前に警察沙汰になるのは、流石にマズイでしょ?」
「……お前の……その正論がましいのが腹立つんだよ!」
「ちょっ! やめっ! …………うっ…………!」
全身の力を使って、その包丁を刺してきた。それは私の胸の真ん中に刺さっていた。心拍がそれを伝って外に響く。それに伴い血が溢れ出す。
「……ハァ……ハァ……っ! ……ぁぁっ……………」
私はその場で五、六歩よろめいて、膝から崩れ落ちた。
「……はっ……ははははは! …………やった……これで、南君は……」
北嶋さんは高笑いして逃げ去って行く。手や服にべっとりとこびりついた私の血が、彼女に優越感を与えたように。
「…………かはっ! ……っ! ……慧……丞……。ごめんね…………私………もう、駄目…………みたい…………」
瞼の重さに耐えきれず、私は目を閉じた。横たわっているせいか、息が苦しい。……全身に力が入らない。……寒い。その間にも、血は絶え間なく溢れ出す。消えゆく私の命の火は走馬灯になって、彼との思い出を見せてくれた。
―――――あぁ……最後に彼に甘えておいて良かった……。もう一回ぐらい、キス……したかったなぁ―――――
心の中で呟いて、軽く笑った。笑うつもりは無かったけれど、彼の驚いた顔や笑った顔が目に浮かんで、幸せだった事を実感できたから……つい……。
私が死んだと知ったら、彼はきっと泣くし、これから先、どうなるか解ったものでは無い。もし、何も見えない闇が広がったなら、私は……死んだ私は、彼に何をしてあげられるだろうか。
そうだ、答えは簡単だ……。人間にはできなくても、幽霊ならできる事…………。私は………………。
そこまで考えて、私の命の火は消えた。咲いた花火の散り際は軽く余韻を遺すものだ。私のそれも、花火のそれと相違無い。この決意がそれなのだ…………。
「……んっ……やばっ! ……寝てた……。暗いなぁ……あっ! 花火! あと何分……」
―――――花火打ち上げまで五分前となりました。会場の皆様、良い席はお早めに―――――
そんなアナウンスが耳に届いた。
生前、不必要と思っていたそれに助けられるとは……皮肉なものだ。
「慧丞起きて……花火、もうすぐだよ」
聞こえる訳無い。そう思いつつも、つい云ってしまう。体を揺すりたくても、私の手は彼に触れる事ができない。二度と彼の輪郭をなぞる事ができない。
そう思っていると、ふと目に光が入ってきた。彼のケータイの光だ。……起きた? 聞こえたのだろうか。彼はキョロキョロと辺りを見渡して云う。
「……美咲? ……いるのか?」
「……っ! いるよ! ここに! あなたの隣に! ……ねぇ……いるってば……」
きっと気のせいだって思っている。死んだ私がいくら声を上げても、彼の耳に届く訳がない。……解ってる。………解ってるけれど…………。
私の悲しみを搔き消すように花火が上がった。もう驚く事は無い。彼に、あの頃のように抱きつく事はできないし、何より慣れてしまった。
墓前の彼は座ったまま云う。
「……綺麗だな……。でも何でだろうな……雨が降ってるのに……花火……上がってるって……おかしい……」
「慧丞? ……雨なんて……」
彼は泣いていた。目から涙を流して、少しだけ笑っていた。
「……それ以上に……物足りないよな……。綺麗なのに変わり無いけど、あの頃程では無いな……」
彼の心は、ぽっかりと空いていた。私のせいだ。私の死から九年、きっと満たされて無かったんだ。
……申し訳ない事をしたなぁ……。でも、こんなに想ってくれていたなんて……好きでいてくれたなんて……。私の人生では、この短い命の中では、勿体無いぐらいだ。どうしようも無い私を、こんなに……。
嬉しさを抑えられず、私は彼の左腕に、ぐっと身を寄せた。意識をすれば、感触は無くても触れる事はできた。
それからしばらくして、花火は終わった。彼は体を墓に向けて云った。
「ありがとうな、美咲。……そっちに行った時に、また二人で花火見ような」
そして立ち上がりそれに笑顔で手を振った。
全く鈍感だなぁ……私は隣にいるのに……。でも、そこを好きになったんだ……。可愛かったんだ……。
彼はそこを横切って、坂を下って行く。このまま何も云えずにさよならなんて……できない!
私は走って彼の背中に飛び付いた。そして耳元で云った。
「ずっと待ってる……大好きだから」
彼は驚きのあまり、固まってしまったようだ。その間に墓まで戻った。いつも別れの時は、笑顔で手を振っていたから……今回も………。
私はすっと右手を上げた。でも、うまく笑えない。これが最後だと解っているから、凄く悲しい。
……涙は堪えられないよ……。もう逢えないなんて……嫌だよ……。
目から涙が溢れ出して、頬を伝ってゆく。
そうこうしているうちに、彼はこちらを向こうとしていた。
……さっきの……聞こえたんだ……。なら……。
私は「ありがとう」 と、「元気でね」 の気持ちを込めて、手を振った。
自然に笑顔になっていた。涙は出ているけれど、ぎこちないけど、笑顔でお別れはできた。それだけで、満足だ。
私の存在を疑うように、彼は目をこすった。そして叫ぶ。
「美咲! ………えっ?」
きっと見えなくなったんだ。私は右手の力を抜いて、服につけた。ぎゅっとそこを握って、大きく深呼吸をする。
ずっと考えていた。人間にできなくて、幽霊にはできる事。彼は気味悪がるかも知れないけれど、最後ぐらい彼に何かしてあげたい。よく転ぶ彼に、前ばっかり見る彼に……。
「……僕も……大好きだよ……。じゃあな……美咲……」
彼が云うのと同時に、指を「パチッ」 と鳴らした。それに呼応するように、坂道に橙色の光が現れた。
これを別れの灯火にしよう。もう二度と転ばないように、足元を照らしてあげるんだ。
彼が涙ながらに踵を返すと、また立ち止まった。……余計に泣いてるよ……。どれだけ涙脆いの……。私まで……泣いちゃうじゃん……。でも……これで……。
私は彼の前に回り込んで、いつものような笑顔で云った。
「前しか向けない君の足元……私が照らしといてあげるよ。……もう転んじゃ駄目だよ?」
彼は頷いて、去って行った。
―――――さよなら、私の大好きな人―――――
夏祭りの最後には、彼の色に染まっている。十年前もそうだった。彼との思い出は私にとって、どんな豪華な花火よりも、印象的で美しい。
私の空っぽの心の中に、彼の笑顔が浮かび、あの頃の気持ちが蘇る。
―――――本当の最期を、彼と過ごせて良かった―――――
夏の柔らかい風が、私の体を包み込んだ。彼との思い出を、心の奥底に焼き付けて、ゆっくりと自然に身を委ねた。
私の意識は、透けた体と共に消え、乾いた夏の夜に風になった。
―――――了
あとがき
皆さんおはようございます、こんにちは、こんばんは、兎杜 霜冴です!
いかがでしたか? 二本立てのシリーズ風短編は。
私も一年以上書いていますが(投稿開始は少し前から)、なかなか難しいですね。
言葉を同じにするのがまた……。
こんなに考えまくったのは、異世界シリーズ(今暖めてます)以来ですよ、全く……。
さて、泣きました? 二人を自分と大切な人に重ねて下さい。二人の気持ちになってください。そして、泣け!
…………どうです? この云い回し、結構ウケるんですよ? 笑って下さいね!
そろそろ異世界シリーズやろーかなーとか思っています。原作は完結してますが、添削がまだなので、ゆっくりのんびりとやっていきます。
相棒と頑張ってます!
さて、そろそろ昼食ですね、ではまた。
読んで下さったあなたが大好きです!
またお逢いしましょう!
それまでどうかお元気で!
ではではさよなら~
ありがとうございました!
兎杜 霜冴