最後の花火
あの日の夏祭りの花火は、未だに忘れられない。彼女と最後に見た花火だから。
―――――今日は……夏祭りだ―――――
そう思って家を出た。彼女の好きだった、白い百合の花を数本、近所の花屋で買い、その街へと向かった。
彼女と過ごしたあの街へ。僕が逃げ出したあの街へ。
照りつける太陽の日差しは、段々畑の石垣と、そこをぐるっと囲むように広がる海の水面に反射して、のびのびと育っている夏みかんを、全然、輝かせていた。
僕はそれを懐かしいとも、美しいとも思わず、「あるべくしてある景色」とだけ思って、みかん畑の脇の坂道を歩く。
少しばかりしんどいと思わせる、舗装されていない坂道を歩いていると、地面から少しだけ顔を出した、大きいか小さいかも解らない石に躓き、よろめいた。
空を掻いた手に、夏の日差しが重なるのと同時に、持っていた百合の花束を落としそうになって、無意識のうちに、それを庇うように地面に倒れた。
蒼天に向けた手の中に、庇ったそれがあった。見ると一切の傷も無く、茎はピンとしていた。
僕は安堵の溜息をついた。そして、立ち上がろうとした時だった。白く透明な手を差し出された。見上げると、麦わら帽子を被って、困ったように笑う彼女がそこにいるように見えた。
はっきりと見えなかったが、確かに彼女だった。
……いや、そんな筈がない。なにせ彼女は……。
浅はかともとれる考えを、無理矢理に追い出して立ち上がり、更に上の方へと足を進めた。
家を出るのが遅かったせいか、真夏にしては少し涼しくなってきていた。だが、そっちの方が彼女は出て来てくれそうな気がする。きっと、
「夏の日差しはお肌の敵だよ! ……とか云う私、元陸上部だわ」
と、あの頃のように苦笑して云うことだろう。
全く、透明で美しすぎて、僕の目には映る事がないというのに……。女というのは、理解し難い生き物だ。同じ人間とは思えないぐらいに。
あれこれ考えながら歩いていると、開けた平地へと辿り着いた。奥を見ると、そこにぽつんと墓が佇んでいる。僕はそこにゆっくりと歩いていった。
十年振りだ。それでも相変わらず綺麗にされている。彼女は綺麗好きだったから、自分で掃除しているのかも知れない。
花を生ける筒が無いので、手に持っている花束は墓前に供えた。すると、山の方から穏やかな風が吹いてきた。きっと彼女が喜んでくれているんだ。もしそうなら、良かった……。
墓を見ると
「西野家之墓」
と刻まれていた。僕はそれを見てうつむき、重い口を開いた。
「……美咲……。今日は、お別れを伝えに来たんだ」
さっきまで穏やかに吹いていた風が、ぴたっと止んだ。まるで、僕の言葉に反応しているかのように。
「実は、海外に転勤になってな……来年からも来れそうにない。きっと僕はそこで、一生を過ごす事になる。……だから、今年は夏祭りで命日のこの日に、君に逢いに来たんだ」
これからも来れなくなった理由を述べて、更に続ける。
「……花火。……日本で見る最後の花火は、君と見たかったんだ。……済まない、僕が殺したようなものなのに、自分ばっかり勝手な事を云ってしまって……」
懺悔するように呟くと、十年前の光景が、彼女と行った最後の夏祭りが、花火の開花のように眼前に広がった。
あの頃はまだ、十八だった。高校最後の夏休み、受験勉強の疲れから、つかの間だけ逃れられるこの日、彼女といた。去年から付き合い始め、その間はとにかく、天変地異のような日々で、足元さえ輝いて見えたものだ。
「慧丞、大学決めた?」
美咲が林檎飴を噛りながら訊いてきた。
「決まってない……美咲は? 決めたわけ?」
「私?! ……そうだなぁ、ハッキリとは……」
「やっぱりか」
「あっ! でもでも、国公立目指してるからね! 文学部!」
彼女の慌てた口調と身振りを見ていると、無意識に笑いが込み上げてくる。僕は気付いたら、食べかけの綿飴を持ったまま、腹を抱えて笑ってしまっていた。
「なっ! 何よ! そんな笑う?」
「……ごっ! ごめん! ……だってさ! はははっ! ……はぁぁ……。だってさ、美咲……可愛かったから……」
「……もう、慧丞は……しょうがない人……。ふふっ! ……全く、服ベトベトだよ? ……ほら、拭いてあげる」
彼女は云って、ポケットからハンカチを取り出し、川の水に濡らして拭いてくれた。
そのときだった。月明かりすら見当たらない夜空に、花火が咲き乱れたのは。
「うわっ! ……びっくりしたぁ。……綺麗だね」
突然の開花の音に、彼女の体は僕の胸の中にあった。……驚いたのはこっちだよ……。
それでも平常心を保っているかのように装い、云った。
「綺麗だな……また一緒に見ような」
「うん。私がお婆ちゃんになった時も、隣には慧丞がいて……私達の孫に囲まれてて……それで……」
「何云ってんだよ、気が早いっての。……照れるだろ……」
「……そうだね、ごめんね。……でも、本当に好きだから……」
「解ってるよ、僕もそう考えてたから……」
そう云うと彼女は、嬉しそうに顔を赤く染めていた。まるで手に持っている林檎飴のような、艶やかな赤み。それなのにいざ触れてみると、それとは比べものにならないぐらいに滑らかで……。
これ以上の幸せを、一切感じる事はないと心の底から思ってしまったぐらいだ。
辺りの静寂を搔き消すように、花火の音と光が、そこら一体をそれ色に濡らしてゆく。それには二人して息を飲んでいた。
花火が終わると、張り詰めていた空気が和らいだように、彼女の横顔から笑みが零れた。
「……凄い迫力だったね……」
「……ああ……凄かった……。帰るか?」
「……うん、帰ろう。眠くなってきちゃったよ……」
僕は頷いて彼女の手を引いた。すると彼女は驚いたように僕を見上げ、次の瞬間には照れを隠すように、そっと左腕にしがみついてきた。それには僕も甘受していた。本当に嬉しかった。
その時の彼女の顔は、全然赤く染まっていて、何よりも愛おしく感じた。
「あっ、私こっちだ……。じゃあ、明日も学校でね!」
「おう……一人で大丈夫か? 最近治安悪いし……」
「大丈夫! 私は元陸上部さんだよ! いざとなったら逃げるって」
「……そうだな……解った、じゃあ…………」
僕より一回り小さい彼女が、僕の肩をぐっと寄せ、享受するかのように頬に唇を当てた。一瞬の驚きは、えも云われぬ幸福感に変わっていた。
「ふふっ、じゃあね!」
彼女は笑って手を振った。そんな彼女に対し、唖然としていた僕は、ただ手を上げただけになっていた。走り行く彼女の後ろ姿は、無邪気な幼さと静かな成熟が感じられた。
…………それが、僕が見た彼女の最後の姿だった。
翌日、美咲は死体で発見された。失血死だった。刃渡り十五センチの包丁で、正面から心臓を一突きだったらしい。犯人は僕らの関係に嫉妬した、クラスメイトの北嶋という女だった。
あの時一緒に帰っていれば……。そう後悔していると、耳元で囁かれた。
―――――慧丞起きて……花火、もうすぐたよ―――――
気が付くと夜になっていた。内ポケットに入れていたスマホを取り出して見ると、十九時五十八分を指していた。
「……美咲? ……いるのか?」
ふと訊いたそれに、返事は無かった。それなのに、彼女がそこにいるような気がした。
―――――気のせいだな。きっとそうだ―――――
そう思った次の瞬間だった。眼前で花火が開花したのは。激しい音と共に、彩りを与えるように、鮮やかに辺りを照らしている。
あの頃と違うといえば、場所と、今一人だという事だ。これ程に寂しい事はない。もしも願いが叶うのなら、もう一度、彼女に………。
「……綺麗だな……。でも、何でだろうな……雨が降ってるのに……花火……上がってるって……おかしい……」
視界が滲んで、花火の光がまるで、水に絵の具を垂らしたようになっている。目をこすって、もう一度それに目を向ける。
「……それ以上に……物足りないよな……。綺麗なのに変わりは無いけど、あの頃程では無いな……」
今年の花火は根本的に欠如しているのだ。いや、九年前からそうなのかも知れない。それ程に、大きすぎる程に大きな大切なものを失ったのだから。
それでも左腕には妙な安心感と、懐かしさが纏わりついていた。ずっといたくなるようなそれは、退屈な花火でさえも最後まで見ようという気にさせてくれた。
しばらくして終わると、僕は体を墓に向けて云った。
「ありがとうな、美咲。……そっちに行った時に、また二人で花火見ような」
僕は立ち上がり、彼女の眠る墓に笑って手を振った。いつか彼女が見せてくれたような笑みで。劣っているに決まっている。それでも、別れは笑顔ですると決めていたのだから。
そこを横切って坂を下る。すると背に軽い何かがしがみついてきた。
―――――ずっと待ってる……大好きだから―――――
美咲の声が、すっと体の中に染み込んでくる。それに驚いて固まった。
少し間を空けて振り返ると、はっきりと見えた。
彼女が……美咲がいた。困ったように笑いながら、涙を流して手を振っている。
僕は目をこすってから叫んだ。
「美咲! …………えっ?」
彼女は霧となって消えていた。綺麗に、静かに……。彼女らしいと云えばそうだ。でも……もう一度、抱きしめたかった……。
「……僕も……大好きだよ……。じゃあな……美咲……」
涙ながらに云って踵を返すと、驚きと同時に、更に涙が溢れ出してきた。
さっきまで無かったのに、提灯のような、橙色の優しい光が、僕の帰路を照らしていた。
―――――前しか向けない君の足元……私が照らしといてあげるよ。……もう転んじゃ駄目だよ?―――――
と、その光は僕にそう云っていた。僕は頷き、その言葉を胸に焼き付け、そこを後にした。
夏祭りの最後には、彼女の色に染まっている。十年前もそうだった。彼女が最後に見せてくれた笑みは、どんな花火よりも美しい。
僕の胸に走った衝撃と共に、彼女の笑顔が浮かぶ。焼き付けるように、美しく咲く。
―――――最後の花火が、彼女の笑顔で良かった―――――
夏の柔らかい風が、僕の背中を押した。彼女は僕の胸の中で、もう一度微笑んでくれた。
今年の夏も、時の流れに身を委ねて、その役目を終えようとしていた。
―――――了
あとがき
皆さんおはようございます、こんにちは、こんばんは、兎杜 霜冴です!
今回は二本立てです!
ところで、これを読んで下さった皆さん、きっと……
「お前の得意ジャンルは何だよ!」
なんて思っていませんか? ふふっ、愚問ですよ? 得意ジャンルなんて云ってられるほど、私は成熟していません。
今は、それを探しています。
よし、話題を変えましょう!
あのぉ、私はこれを書いていて、最後に泣いちゃいまして……我ながら涙脆いなぁと……思いまして。
きっとそう、感情移入しやすい体質なんですね! 書いているからこそのそれです!
何云ってるのか解んなくなりました……では、もう一作をお楽しみ下さい!
読んで下さった皆さんが大好きです!
またお逢いしましょう!
今回ばかりは二本立てです!
ではではさよなら~
ありがとうございました!
兎杜 霜冴