第参話 ~魔王ト書イテ馬鹿ト読ミ、勇者ト書イテ気狂イト読ム~ 上
長らくお待たせしました。第三話です。
外の喧騒に彼女は数時間ぶりに目を覚ました。
相も変わらない暗い暗い闇のなか、見えるのは己の剥き出しとなった手足のみ。一寸先は闇なのに、彼女には手に取るように外がどうなっているのかを知覚出来た。己の分身が傷つき戦う現実を。
ただ、己の分身がいくら傷つこうとも、彼女はそこから出ようとは思えなかった。
もうどうでもよかった。両親には大層不義理なことだと理解していたが、それでも自分が消えさえすればこの苦悩から解放される。本能と理性でそれを理解していたから、迷いなんてなかったはずなのに――もう何時間此処で悩み続けたのか、気が狂いそうな数時間はもはや何を思案していたのかを薄れさせて、彼女に死にたい、ただ死にたいと思わせた。
苦しい、辛い、暗い、ドミノのようにいつまでも連鎖して、終わりがない。永遠に循環し続けるドミノのように終わりが見えない。いつまで続ければいいのか、彼女には分からなかった。だから己の手で己を終わらせようとした、はずだった。
『安易な死など認めんよ』
『お前には渇望が足りん。なぜ虐めの主犯格に一矢報いるという気概を持たん?』
『彼女が殴るなら勿論お前に殴り返されることだって覚悟の上だろう。ならば殴れよ。ならば刃向えよ』
目の前が真っ暗になった次の瞬間には、旧軍の軍服を着た男が彼女の目の前に立っていた。何がなんなのか、何を為そうとしているのか、何一つ分からない中、彼女は己の自殺を止められたことに腹を立てた。
ようやっと楽になれると押しあてたカッターナイフが左手首に食い込む瞬間、それを取り上げられたのだから、当然だった。
そして抵抗した末に、この暗闇に囚われた。力そのものは不思議なことに拮抗していたが、それでも世界中心、事象の地平線へと囚われて幾分もしないうちに制覇した男はやはり異常だった。
やがて煙に包まれた鏡の中を経由して特異点にまで堕ちると、彼女の中にあった何かが実体を持って心の中、体の中から抜け出てあのVRの世界に投げ込まれたのを皮切りに、再び闇に包まれた。
もういっそのこと、此処で餓死か衰弱死したって良い。
奇妙な諦観を抱くと、彼女は溜め息をついて丸まる様に体育座りした。
いつの頃からだろう、溜め息ばかりつくようになったのは。溜め息をつくようになるのが大人の階段なら、大人にならなくていい。嫌なことがあるなら逃げだせばいい。生に飽いたなら死ねばいい。そうして生きてきたが故の骨にまで染み付いた負け犬根性。今もまた、彼女は彼女の半身から目を逸らしている。
第参話 魔王ト書イテ馬鹿ト読ミ、勇者ト書イテ気狂イト読ム 上
時の停滞。動く者は何もなく、動く物もまたない。
いや、厳密には百万分の一の速度で動いているのは清宮和聖をして理解している。ただこちらがマイナス百万分の一の速度で動くなら相手はプラス一千億分の一の速度で動いていると云うことを意味する。
そして戦場で敵の動きが緩慢になり己が機敏になると云うことは何を意味するか――それは相手よりも早く、相手よりも多くの攻撃を用意することが出来ると云うこと。それは何よりも強い戦略的優位性となる。
第四行、即ちこの仮想現実世界の神に等しい存在となった彼らにとって、一千億分の一と云わず十分の一だけでも致命的な差だと云うのに、それを大きく上回る呪術的、時間的拘束。これを見逃し余裕綽々とゲームのラスボスのように計画の全容を話して悦に入るような人間ではなかった。
軍刀の刀身を染め上げる神格金属弾頭によって彩られた黙示録のごとき光を両手に確かに握り構え、構えたまま空中を走りだす。上半身を一切揺らさずに。
普通ならば何もできずに終わっていただろう。事実、これを見ていた誰もがそう思った。だがそんな物撒き餌にすぎないと、直後の一撃で甘粕は理解した。
無数の剣戟。それらは事前に配置され哀れな走狗が狼の巣にかかるのを待っていた。
別に、清宮和聖が時間停滞を解除したわけではない。単純でありながらも密度の濃すぎる時間停滞の命令を解除するには一瞬では足りない。だから和聖は一手を打ったのだ。博打にも近いが、甘粕の性質は、その思考回路は手に取るように分かっていたがゆえに可能とした。
彼の大事な仲間の能力を引き出す為には詠唱が必要だったが、詠唱は必要ない。この一撃一撃に詠唱としての性質を俊行の凝法の創を用いて付与、掛かれば掛かるほど剣劇の嵐に見舞われる剣戟の槍衾。急場しのぎゆえに引っかからなければ全て失敗に終わる可能性すらあったが、奴はうまくかかった。
第一詠唱がこれによって紡がれる。それは全てを取りはらう禊の風。
唵取り去りたまえ。取り去りたまえ、暴悪の相を成す者、マトゥギよ――
全てを断ち切る。それは概念であろうと物理であろうと、切れる物であるなら、取り払える物であるならなんであろうと、まさしく全てを断ち切る。その効果は同じ神の術法であろうとも、今この瞬間出力は拮抗した。
そして甘粕の時間停滞の術理から解き放たれた瞬間、再び和聖はあり得ない物を見る。
いよいよもって呆れた奴だ。それが和聖の感想の全てを占めていたと云っても過言ではない。
なぜなら甘粕は最初の一段目をもろに受けて以降、自身に降り注ぐ無数の剣戟を全て力技で破壊したのだ。それも軍刀一振りだけで、周囲一キロ四方を囲む剣戟の雨あられの全てをはじき、砕き、潰し、切り裂いたのだ。
まともに食らったのは最初の一発程度な物で、それ以外は哄笑を上げて軍刀を振り回す甘粕によって、彼の軍服の繊維一本に触れる間もなく順当に破壊されたのだ。和聖が予測できるように、甘粕にもまた予測できたのだ。一撃目から続く二撃目以降の全てが。
「あぁ、やはり素晴らしいな。お前も、お前の仲間たちも、お前の仲間が見染めた伴侶たちも……美しいよ」
敢えて全ての詠唱を発動させて真っ向から叩き潰したから分かる。若いが故の無謀さ、先行きの不安定さ、人生の恐ろしさ、そして数年後に待ち受けている生きると云う重み。
彼らが若いなりに考え、若いなりにあがき、若いなりに掴み取った答え。
なぜ戦うのか、戦いとは何か、誰のために戦うのか、戦いと平和、戦争と武力防衛の違いとは、それらは極限状態の中で磨き抜かれ超純水のごとき輝きを放っている。そう、やはり己の考えは間違っていないのだ。
人は戦いの中で成長する。人は争いがなければ進化できない。人は戦いの中でしか輝けない。何万年と繰り返し続けてきて飽き飽きしているし認めたくない考えではあるが、間違いではないのだと。その確信が得られている。
だからこそ羨ましかった。守りたい者とやらを手にできた彼らが。
「守るために殺す、守るために壊す――あぁそれで良いのだよ。それこそが答えだ。理由も分からずに殺されるなど看過できんよなぁ? 求めろよ――貪欲なまでになぁ!!」
過覚醒とともに忌むべき記憶がよみがえる。別に目を逸らしたいわけではないし、自分が彼らに直視することを義務付けたのなら自身もまた見つめよう。
彼は思い出される記憶の波に抗い、詠唱を紡いだ。懐かしい記憶に舌鼓を打ちながら、裁きと朝焼けの素晴らしさを脳裏に思い描いて。
『予言は確として、我らに実を齎さん
よってお前たちにも、やがて夜が開け闇が晴れ、お前たちの心を照らしあげる日が来るまで、我が言葉を――明けの見えぬ夜の灯として抱き続けるが良い!
奇跡をここに! 明けの明星!』
高位天使の象徴、三対六翼の大天使が後光とともにその場に降臨する。
衆生・世俗に蔓延する穢れの全てを裁かずにはおれない。裁きこそ彼らの愛であり、裁きこそ彼らの正義の象徴で、裁きこそ彼らが崇め奉る神聖なる四文字を持つ者の意向。周囲へ迸る鮮烈な光は全て、この三対六翼から落ちる羽根の一つ一つから放たれているのではないかと思うほどの輝かしさがあった。
穢れの一片すら許容できない、潔癖であるがゆえに清廉潔白なる大天使。故に甘粕とは親和性がある一点においては高いと言える。それは即ち――
「俺はお前たちを愛している! 故にお前たちも輝いていてくれ! 満天の星空に浮かび上がる星々のようになぁ!」
『私はお前たちを愛している。故にお前たちもまた清廉で在ってくれ。造物主たる主の名のもとに、全てを浄化せん』
破壊天使と博愛主義の魔王の言葉が重なる。掛けられる言葉は違えども、彼らの云っている物は同じ。
――そう、愛しているがゆえに壊す。愛しているがゆえに追い込む。なぜならそれが彼らが云うところの愛……そうでなければ立てないのなら殴ってでも立たせる、
そうして脅威を用意すればするほど、お前たちは再びヒトの輝きを見せてくれると俺は信じている。
そうすればお前たちは黙示録にそう在るように神の実在を信じ清廉潔白に居てくれるだろう。
その言葉が彼、和聖に伝わるのとほぼほぼ同時、天使の羽ばたきとともに舞い落ちていた羽根が一斉に和聖の方向を向き、他の羽根を吸収しながら巨大化、やがて臨界に達するとともに幾千条もの光の大群となって降り注ぐ。
避けなければ絶対必中で在り、避ければ避けた場所へ慣性や質量保存の法則などを全て無視して和聖へと殺到する。
天へ、地へ、幾千幾万もの光の大群は距離と気圧による減衰などまるでない物としているかのように和聖の軌跡を追いかける。そんな物は無駄だと云わんばかりに、嘲笑うかのように、天使から放たれる光条は止まるところを知らない。召喚主のように。
ならば手をこまねいて攻撃をまともに受けるわけにはいかなかった。甘粕に目的があるように、彼にもまた目的があった。
全人類の未来のため? 全人類解放のため? 甘粕の野望を止めるため? 笑止。そんな物ただ都合の良いお題目に過ぎない。彼にとって世界とはこの世界で、だから目を覚まさせなければならない存在がいた。
お前は俺という英雄を通して見ていたはずだ。そして知ったはずだ。お前の知る世界にはこんなにも素晴らしい奴らがいるのだと云うことを、お前は知ることが出来たはずだ。お前を助けてくれる人間は確かにいるのだ。お前を見てくれる人間は確かにいるのだ。お前を心配してくれる他者は、こんなにも沢山いたんだよ。
彼は祈るように彼の中に語りかける。それが一番手っ取り早く、この閉塞を打ち破る唯一の方法だと知っていたからだ。
だが結果など火を見るより明らかで、固く閉ざされた心を開くには時間が必要なのは分かり切った問題だった。
だから、借りるぞ。
瞬間、亜光速の域に達していた彼は突如その加速をやめ、幾千幾万幾億の光をその身で受けた。
爆音と裂光が辺りを彩りながら彼の視界が閉ざされていく。四方八方からやむことなく降り注ぐ光によって骨すら残さずに全身が消し飛んで後には何も残さない。その中で彼は詠唱を発した。
いや発すると云う表現はおかしい。目や口どころか脳味噌や心臓、筋繊維の悉くに至るまでが弾け飛んでいる今、言葉を発することが出来る可能性など万に一つない、はずだった。
それは空間の揺らぎに同調していた。背教者を、不信信者を殲滅する偉大な光の発射音は彼の詠唱を助けていたのだ。
『我らは水と霊とから生まれ、水と霊は肉の檻に囚われる定め也
新生せよ、水と肉と御霊の三位一体を以て我らは永遠の玉座へと至る』
瞬間、何事もなかったかのように無傷の和聖が現れる。神威の炎に焼かれて回復は絶望的だった左足すらも少なくとも外見上は完全に再現された状態で。
いつだって英雄、救世主と云う物は逆境の中でこそ進化するものだと、甘粕は云った。それはとどのつまり、多くの人間が生存は絶望的だと断じれば断じるほど、英雄色の強いこの能力は概念的に補強されていく。こちらも本来ならば先と同様、博打にすら等しいが、これで仮定は確定に変わった。
相変わらず、戯れの好きな奴だ。
ふざけているとは思わない。甘粕の目的とは人間の戦意の高揚。人の勇気と云う物の発露にこそある。そしてことここに至ってその目的は微塵も揺らいでいない。
人の総意の象徴として俺がここにいるのはまだ良い。だがそれでは甘粕の目的にはまだ適っていないのだろう。そう、甘粕は甘粕に抗い立ち向かおうとする者たちを愛している。故に戦おうとしない者たちがいることが何よりも不快で、だがそんな彼らですら愛しているから尻を蹴ってでも立ち上がらせたい。その方法の一つが、これなのだろう。
悪趣味だと思う反面、尚更負けられないと和聖は形容の仕様のない壮絶な笑みを浮かべる。次の瞬間、頭が吹き飛ばされて、また何もなかったように其処に生えた時、和聖は再び甘粕に突撃する。
拮抗する。軍刀と鉄塊が火花を散らして彩り、そして突然和聖は姿を消す。0.1秒後、和聖が先ほどまでいた場所に大天使の砲撃が降り注いで蓮の池にまた芦ノ湖を創り上げる。
彼は姿を消したのではない。甘粕から見て右側、和聖からみて左側に百メートル半、飛び退いたのだ。拮抗していた2秒にも満たない間に迫る砲撃を、微かな羽ばたきの音と光の濃淡、予測される進路を計算し動物的な本能に従い前と左方向以外のほぼ全方向から迫る砲撃を回避したのだ。
飛び退いた先でバランスを崩し、転がるようにして蹲ると、次の瞬間には動かないガワだけの左足を引きずるようにして立ち上がり、再び、三度、吠えた――――この戦いには、たとえプライドを捨ててでも負けられないのだと。
「さっきまではあれ程息巻いて、今は高みの見物か? 甘粕正彦ぉぉ!」
「あぁ、やはりお前は素晴らしいな……お前に決めて良かったよ、清宮和聖!」
楽しいと思ったのはいつぶりだったか。美しいと感じたのはいつ以来だったか。安堵を覚えたのは幾星霜ぶりか。
目的を達したいと云う目的の傍らで、彼はその姿をもっと多くに知らしめたいと云う意思が強くなっていた。それは最初の梵天の焔杖を彼が避けてから、脳内麻薬の過剰分泌とともに抑えがたい欲求として其処にあった。
だが“楽しい”と思うその裏側で、彼は先ほどからずっと、疼くように過覚醒する記憶を懐かしさと、原点を思い出していた。
□
甘粕にとって親と云う物は何よりも敵であった。それを思い出したのも、一般に大学生と呼ばれるような年齢の頃だったが。
別に彼とて、幼子のころからこのような異常極まりない思想を持っていたわけではない。逆に、特に何の変哲もないごく普通の、何処にでもいる虐待児童と云う存在だった。それが、その他者と違うと云う疎外感が、他者とは違う親の存在、それが甘粕を狂わせた根底にあった。
単純に彼は守られたことがなかった。誰かに必要とされたこともなかった。やがて施設に引き取られるとなおさら彼にとって、一般家庭が一般的に享受するそれに渇望にも似た飢えを感じるようになった。
彼の幼少期は暗く、しばらくもすれば彼は自分で自分を守ることを覚えた。施設も結局、ドラマでよく見るような、そんな安心できる場所は用意されていなかった。結果的に、自分で勝ち取るしかないのだと誰に云われるまでもなく理解し実行したのだ。
甘粕にとって守る物とは自分の周り、自分の安寧、それだけだった。他者とは多くが敵になる。やがてそれも中学生、高校生となるあたりには自分の考え方が異常なのだと云うことを理解した。
だが理解できなかった。何故敵となるかもしれない誰かを守ろうと思えるのか。それが一般的に美しいと賛美される行為だとしても。
思えば甘粕の思想である戦争の原理とはこの時点ですでに確立されていたのだろう。成績と云う目に見える功績があるからこそ誰かに負けたくないがために成績上位を目指そうとする。それと同義だ。
あるとき、ある女に云われた。お前は弱いと。
『何故だ? 俺は強いではないか』
『守る誰かもいないで、アナタだけを抱いているうちは、アナタは弱いままよ』
『――知った風な口を叩くなよ、お前。守られ方も知らんと云うに、どのようにして他者を守れと云うのか』
『それはアナタが見つける物。アナタは何を守りたいの? アナタは何のために戦っているの?』
青春なんぞ知らぬ。敵となる全てを払いのける。故に同時に、勉学にも力を入れていた。施設も高校までは面倒のみようもあるかもしれないが、大学まではさすがに無理がある。だが甘粕の時勢は大学を出ていることが就労の第一条件だった。
孤児も同然の身分でありながら、だからこそ誰にも文句を言わせなかった。俺より恵まれた地位にいるのに何故お前たちはこの程度もできないのか、若いうちは周りを見下してすらいただろう。
そんな体だから、彼女の言葉が重く染み付いたのかもしれなかった。
だが守られ方も知らない己が、一体どうやって誰かを守れると云うのか。それは文字を習わなかった者に対して文字を書けと云っているのと同じ次元ではないのか?
女は云った。なら私が守ってやる、と。
それは一般に恋人と呼ばれる物だったのかもしれない。少なくとも、それまで凄まじいほどに荒んでいた心は彼女のそばによると安心し、落ち着けた。一種の依存と分かっていても、親子の情と云う物から長らく離れていた甘粕にとってはたとえ同年代であっても、その無償、その果てのなく、その己にだけ向けられる物は何よりも貴い物なのだと、本能で理解できたのだ。
彼女は愛していた。国を、国民を、一般家庭でごくふつうに交わされる会話を、普通の親が普通に子供に注ぐそれを、彼女も甘粕同様恵まれなかったから、それを与えられた。
特に金銭に恵まれなかったわけではなかった。その逆だ。金銭に恵まれ、国権にまで進出していたがゆえに、彼女の家庭は冷え切っていた。
親子の関係の豊かな金持ちや政治家がいるなら、同数親子の関係の冷え切った者たちもいるだろう。そして周りは禿鷹の群れ。けれど一般的に見て豊かで裕福なのは知っていたから、そしてそれらに触れる機会が、決定的に彼女と甘粕を分けたのだろうと、甘粕は考察する。
だからそれを与えることが出来た。守ることが出来た。
だから必然、別れも早かった。
対立する政党が金を握らせた暴漢どもだった。彼女の命は、その柔らかい掌はその柔らかさゆえに、あっけなく散った。
何もできなかった。彼女に最後まで守られ、牙も爪も捥がれ、どうすれば良いのか分からぬままに、目の前で細い腕が、小さな肩が、細い首が、針金のような足が、無残に引き裂かれるのを見ていたのだ。
『私は愚かだった…………いなくなってようやっとわかったよ。何が大切で、私は何を成すべきだったのか。今更悔やんでも、もう取り返しのつかんことだがね……
……あの娘は、君に何か言っていたかね?』
『■■は、全てを愛していると云っていました。川のせせらぎや木の葉のこすれあう音、子供たちの笑い声や家族の団欒、朝焼けや夕焼けの何とも言い知れない寂しさを、真夜中の何と心細いかを――人の営みを、愛していると云っていました』
『そう、か……そうか――――私はあの娘に何もしてやれなかった。けれど、あの娘は自分で答えを掴んでいたのか…………無駄に歳を取っている癖に、金を運ぶことが、豊かになることが家族を守ることだと、そうどこかで置き換わっていた。国民の行く末を憂う前に、家族の行く末も憂うことのできない私が――』
『俺は――俺は、彼女の愛した全てを愛します。そして――そして彼女の愛した人の営みを途絶えさせないために――』
□
だから――見るに堪えない。ならば何を用いれば、彼女の愛し、俺の愛する彼らが見れる?
俺は差別も戦争も嫌いだ。そんな物は兵器以外何も生まん。だが――
――目に見える脅威がいれば、それが己ら一人一人ではなく、皆で手を合わせなければならない類なら? あぁそうだ。そうすれば、俺が愛し彼女が愛した皆が見れるはずだ。その輝かしい様を。
ニートになんぞさせはせん。都合のよい逃げなど許さん。何も為さないくせして他者を害して悦に入るような、床擦れの果てに自分の手足で立っただけで誇るような、そんなさびしい満足感など与えんよ。
愛する他者を守って死ねるなら本望だろう? 何も知らずして殺されるなど不快極まるだろう? 自分になんの力もないことに、苛立ちを覚えないか?
全て与えてやる。だから、輝いてくれよ。お前たちのことをただ殴りたいわけじゃない。俺はお前たちを愛している。愛しているから、殴ってでも蹴ってでも立ち上がらせたいのだよ。
数年を要して、甘粕の何処かで何か、ボタンが掛け違った。このボタンが違えば、甘粕はきっと、そこいらで野垂れ死んでいたかもしれないのは誰の目にも明白だった。もしかしたら、それが一番良かったのかもしれないが……。
「俺はお前たちが羨ましいよ。若さなんぞではない。ただ、お前たちのその輝かしさが、その勇気が、何よりも羨ましい!」
そうだ、俺はお前たちを愛している。脅威に対して抗い立ち向かおうとする雄々しい者たち、俺はその雄姿を愛している。羨ましく妬ましく、何より尊く何より神々しい。
別に大業を成せとは云わん。人には人に出来る分と云う物があることも勿論理解しているとも。そのうえでだ、目の前の理不尽に抗って見せろ。
自分を殺そうとする他者に大人しく殺されたいか? 家族を人質に取った卑怯者を縊り殺したいとは思わんか? 真に恵まれた、真に幸せな家庭を作りたいとは思わんか? それとも――何か都合の悪いことがあればアナグラへ逃げ、抗うよりも閉じこもることを優先するか?
もしも、もしも本当にそれしか出来ないなら、ならば俺が立ちあがらせてやる。立ち上がれるようにお膳立てしてやる。だからお前たち――その足で立ち、その目でしかと見よ。逃げることは許さん。
「俺はその輝きを羨み、そして愛している。尊びたいのだよ、声を大にして! ――だから、なぁ……俺にもお前たちのことを、愛させてくれぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
狂気的な笑みを浮かべながら、甘粕は再び術式を組んだ。
『オン・バラバザラ・ソワカ
帰依し奉らん、遍く満たし遍在せし神へ命ずる
大なる食吐悲苦鳥の乗り手――那羅延天!』
古代インド神話、トリムルティを占める『恒久的な正義の不滅なる守護者』を降臨させた――
次回で本当に戦闘パートはラストです。長らくお待たせして大変申し訳ございませんでした。これからもよろしくお願いします。