第弐話 ~We can't Redo~
二人の距離は交わり、その瞬間弾けるように二人はお互いに振りむきながら術式を組む。
『オン・ハラジャ・ハタエイ・ソワカ
帰依し奉らん、遍く諸仏より万物創造の神へ命ずる
来たれ、梵天の焔杖ァァァァ!』
濃縮された神威をまとい、衛星軌道上に瞬時に創り上げられたのは確かに、見る人間によっては確かに梵天の焔杖と呼べる代物だった。
某国が研究開発中と噂される衛星軌道上より音速の十倍以上の速度で射出される運動エネルギー弾頭。事実上地球上に逃げ場はなくなり、地球全土を某国の支配下に置くために開発されている神の杖のインド軍高官方の間で広まっている呼称。Kinetic Energy Penetratorの極致であり、人類の業の象徴とも言えるだろう。
高出力の電荷を纏ったタングステン・チタン・ウランからなる金属棒は、凝縮された電荷と金属の化学反応によって光が放たれ、広大な蓮の池を覆う黄昏時の雲を染め上げると同時に、電荷を纏った金属塊は射出された。
かの有名な漫画作品、AKIRAにおいても描写された衛星兵器であり、発射された今避ける手段は通常ならばほぼほぼ無いに等しい。
低高度高空プラットフォームより発射される一撃は落下速度約マッハ9.5で、被害半径は広島・長崎原爆と同等かそれを凌駕し、地下数百mの目標すら破壊可能なエネルギーを内包している。其処に甘粕はノリとその場の思いつきで梵天の神咒を練り込み打ちだすという暴挙に及んだ。
物理エネルギー弾頭である以上、極端な話し物理的に存在が無くなりさえすれば避けられる。ただそこに神格としての過剰なエネルギーが練り込まれた一撃は、対神格防御と対物理防御の両方が一定の値に達していなければ一撃死するレベルにまで高められている。
それをこの超至近距離で放って来たのだ。
正気ではない。一周回って頭がおかしい。こいつは『清宮和聖ならばこの程度の一撃、余裕で避けられる』と言うだけの理由で核爆弾に軽く匹敵する衛星兵器を持ち出して来たのだ。
これに対抗するには梵天に有効な神格のエネルギーを引っ張ってきて相殺するか、あるいは神威の影響を受けない防御手段を講じるよりほかにない。たとえば未来予知による絶対回避などがそれだ。
そして幸いなことに、戦場と言う本来両者の意見がすれ違いあう力場において奇妙でも必然でもなければ偶然でもないこの瞬間、両者の意思は一致していた。
『私が譬を語り、私が譬を教え、この世の誠を語る
聞け、そして悟れ。真実はそこにある』
借りるぞ、五郎。
清宮和聖は心の中、神格金属弾頭が到達するまでの0.001秒にも満たない間、親友に祈る様に断ってから術式を組み、発動させる。
もう一つの同質能力同様、とんでもなくシビアな発動条件であるが、条件のうち一つは甘粕自らが満たしていた。あとは自分との勝負で、それが避けるために必要な全ての条件だった。
それは単純な確率論だが、それは第四行の後押しもあって甘粕の神格金属弾頭を避けられる程度には昇華されている。
素粒子物理学、力学、物理学、確率、座標、あらゆる計算を一瞬の後に行わなければならないがそれはこの空間を保っているコンピュータ、天照に任せてしまえばあとは単純。物理学だとか力学だとかは関係ない。
甘粕正彦は清宮和聖を愛している。甘粕正彦は清宮和聖ならばこの梵天の焔杖を避けられると信じている。甘粕正彦は清宮和聖がこれを避ける未来を夢想している。
同様に、清宮和聖は親友の能力を何よりも信じ、ここまで至った自分の力量を信じている。故に、避けられない筈が無い。
蓮の浮かべられた広大な池、ともすれば海とすら形容できる場所を、この空間全てを電荷と神格を纏った金属塊が大穴を穿ち、直後に爆発する。
飛散する電磁波と電子は莫大な熱量を以て周辺一帯を燃やしつくし、黄昏時で止まっているこの空間を黙示録的な光で包み込む。ここに完全回避は成った。この術理はもう一つの術理同様に、相手と術者本人の両者が術者本人の望む結果になることを望んでいることにある。
つまりほんの少しでも術者本人が避けられないと思えばその瞬間に避けることは叶わなくなり、絶対回避は反転し相手にとっての絶対必中にひっくり返るという、自分にとっての一方的リスキーさのみが際立つ。
そして甘粕は最初から避けられると信じ、避けられることを見越して放ち、清宮和聖としてもただで当たってやるつもりはなかった。二人の思惑は一致していた。
「ッッッッ!」
だがわずかに展開が遅かった。持っていかれた左足は時間を巻き戻しでもしない限り癒えることはない。左足を構成する物のほぼすべてが燃やしつくされたのだから極限回復能力であっても回復は絶望的だ。
だがそれすらどうでもよい。問題はこの後に続くであろう既知の一撃を如何にしていなすかにかかっている。
「左足程度、安い売り物だ!」
「ならば俺が買い取ろう」
「売るかよぉ!」
拳を振った先にはあの爆風と電磁波のなか如何に移動したのか、甘粕正彦と甘粕の握る軍刀があった。清宮和聖の拳にもいつの間にか籠手の様に展開された鉄塊が装着され、拮抗する。
甘粕の考えている事は、甘粕の理想とする世界は確かに、不特定多数の特定の群にとってはとても生きやすい世界だろう。云っていることにも大体は筋が通っている。だがその思想は全ての進化を否定する。
一瞬一瞬の生命の燃焼は見ていて心に来る物があるだろう。人間はそれに感じ入る感性をすら身に合わせている。だから分かりやすく目に見えなければないも同然で、価値もない。お前たちが望むとおりの物を再現したのだから輝きを見せてくれなど暴論に過ぎる。
その一瞬一瞬ばかりに囚われれば、結果として文明は、人は衰退する。極論、甘粕のやることは近い将来に後詰まりする。今以上にひどい厭世感に囚われ、ただでさえ塵のような人間が多いと云うのに輪をかけて破壊と暴虐を看過するだけの塵以下の塵人間が生まれるのだ。
自分の思想が正しいとも思っていなければ、ただの平和ボケした自称平和主義者の言葉が正しいとも思っていない。思想者であり人格者であり、老害だ。
「老害扱いとは、耳に痛いよ。これでもまだまだ青二才と云われているのだがな。だが俺の云っていること、お前の見て来た現状、その全ては、何も間違っているわけではない
お前がここまでこれたのも、そしてお前と云う存在そのものも、全てはこの世界があったが故だ。その勇気はいったいどこで発揮されてきた?」
そもそも、平和な時分にそんな物を発揮する機会があるのか? 甘粕は核心を突く様に笑みを浮かべ、軍刀に掛ける力を増して行く。
「たとえば、所帯を持った夢見る男は必ずと云っていいほどこういう。愛するお前たちを、永久に守り続けると。一か月もすれば現金輸送者の完成だ。
己は家族を、家庭を、守っている? 笑止千万。ただ金を運び続けるのならATMや現金輸送車でだって可能だろう。そしてその家族はお前の一体どこに感謝している? 飯の種を運ぶだけならそれはもはや守っているとは云わんしそれなら旧石器時代、縄文時代の様な狩猟採取社会でしか適用されぬよ。
要するに、運んで当然なのだよ。それは守っているなどとは言わんしそれをして“誰に養ってもらっている”などと傲慢になるべきではないのだよ」
例外的に複数の不幸と大別される事象に見舞われる者も一定数いるだろう。だが統計を取ってみろ。震災、台風、大火、濁流、土砂崩れ、雪崩。親、伴侶、子供との死別、蒸発、思い出の場所の消失――所詮は誤差の範囲内にすぎん。周りを見渡してみろ、そんな奴等掃いて捨てても余るほどいる。
人生の荒波だと? 馬鹿ものが、小波にもなっていない。少なくとも都合よく神仏や現象のせいにさえすればそれで諦めが付き、災害によって死ぬ危険を減らすために常に努力し続けて来た江戸時代、中世や明治大正の時代の人間から見れば今の平成の時代とて、まるでこの世の桃源郷だろうよ。ともすれば揺り籠で日向ぼっこする赤子の様な気さえするかもしれん。
やがては手足の動かし方すら忘れて、ただその手足で立ち上がっただけで偉業を成し遂げたと誇る、そんな大馬鹿者共が生まれてくる。
甘粕は問いを投げる。
なぁ、そんなただの現金輸送者に誰が感謝していると思うか? その守るとさえ猛り言い放った妻子は少しでもそれに感謝しているか? ただ金と飯の種を運ぶだけの存在であることが守ることであり、勇気その物の発露であると?
「もしくは本気でそう思っているのかも知れんし、そのような事態に直面すれば身を呈してでも守ろうとする者もいるかもしれん。
成るほど素晴らしい覚悟だ。感服するし脱帽ものの気概だ。
それは目に見える脅威がいるからだ。守ろうと誓った家族を守るためには、その誠を示せるのは戦場しかありえん。日常生活の一体何処でその誠が、その勇気が発揮されることがあろうことか。それはお前も経験した道だ」
だから勇気を呼び起こす。たとえ今の世の中では淘汰され排他される存在であろうと、平等に満遍なくお前たちが望みお前たちが真実輝ける場所を用意しよう。
たとえ力が及ばずともそれで良い。立ち向かったという結果は残る。立ちはだかったという結果は残る。自分よりも武威に勝る強者から妻子を、恋人を、兄姉を、弟妹を、祖父母を、両親を、もしくは愛玩動物かそれとも己の心か、それらを守ろうとした結果は残る。
胸を張れるだろう? 清々しい死だろう? 手足を動かし立ち上がっただけで偉業を為したと誇る様な寂しい自慰とは比べ物にならんだろう?
甘粕正彦は清宮和聖に問う。忘れたわけではないだろうと。ここに辿りつく直前、お前は言っていただろう、魔王に人間の輝きを見せてくれるのだと。
『人の栄華の興隆は草花が如し
されど我が言葉は、とこしえに残らん』
その瞬間、あらゆる時間と空間が錆つく音と共に停滞の渦にのまれた。
□
『最も安全で平和的で経済的な侵略手段とは、すなわち“平和そのもの”である』
昨日読んだ哲学書の内容が妙に頭から離れなかった。彼は別に哲学そのものに興味があったわけではないが、ただタイトルに惹かれて衝動買いした。
『時代は崩壊を求めている』
まるでどこかの新興宗教のうたい文句のようで、こんなタイトルならば書いた奴は相当まともじゃない頭をしている事だろう、と思いつつ彼は珍しくそれを読みふけっていた。中身は案の定、そう大してまともな内容ではなかった。ただそれでも、その一文はどうにも彼の心から離れなかった。
今の世界への風刺が満載で、少なくともまともな神経していれば目を逸らしたくなる内容ではあったが、同時に彼女にこそこれが必要なのではと――彼女とは誰だ?
目の前をノイズが横切る様な気がすると、彼はそれを忘れる様に首を振った。時折、このように意味のわからない言葉が頭をよぎることに一抹の不安を覚えるとともに、なにかを忘れているのではと感じさせられる喪失感は不快だった。まるで自分のこれまでの人生が虚構の物なのではと考えさせられるという事実が堪らなく眼ざわりだったのだ。
そんなある日、友人からの電話で外に出て見た彼は、その一文を思い出すとともに、日常が崩壊した音を確かに聞いた。
家の前をゲル状の物体が通りがかって、何処かに消えて行った。
『本日未明より全世界各地にて同様の不明生物が確認されており、国連宇宙開発局はこのように声明を発表しております――』
彼、清宮和聖はその不明生物を見届けると、スマートフォンを急いで操作すると友人の電話番号に電話を掛ける。
これまで真面目に生きて来た中で唯一無二のふざけ合える友達で、だから彼ならあの生物が何なのかの明確な答えを出してくれるという期待もあった。それよりも突然のことに頭が追い付かなかったというのもあるのかもしれなかったが、少なくとも和聖に彼以外に電話を掛ける必要と必然性は無かった。
流石にゲーム関係に疎い彼でも分かる事実、あのゲル状の軟体生物がこの世に本来存在する物ではないこと。そういった類のゲームを愛しているとさえ公言する友人なら、明確な答えをくれると云う確かな事実と確かな期待があった、と云う方が適切かもしれない。
「お~い! 見たか見たか!?」
電話を掛ける間もなく当の本人がやってきたのを確認して、和聖はスマートフォンをスリープモードにして仕舞い、何事か喚きながら近寄ってくる親友、明智五郎を家に招き入れる。
玄関を上がり和聖の部屋に入る。直後、和聖をノイズが襲う。眩暈と吐き気と頭痛を伴い、忘れている何かを思い出させようとするかのようで――和聖は目の前に可愛らしい縫い包みや落ち着いた色合いで構成された年頃の女の部屋を幻視した。
一度かぶりを振ると、蒸発した父親が残していったという簡素な勉強机やベッドに戻り、一瞬茫然とした彼は思い出したように明智五郎に対し厳し目の語調で言葉をかける。
「――見たよ。何だよあれは」
「スライムだよスライム! RPGだと真っ先に乱獲されるあれだよ!」
「見たところゲル状の軟体動物のようだったが」
「――お前エロ同人誌とか見ないの? よく女騎士が『くっ、殺せ!』っていうあれだよ」
「すまんまったくわからん」
「ア●ルの二次創作同人ゲーで……」
「分からんと云うとろうが……!」
そして二度目の驚愕が到来する。
彼がいつもの癖で軽いチョップを五郎に見舞おうとした瞬間、五郎はそれを事前に察知していたかのように綺麗に避けたのだ。それもいつものことだからという慣れによるギリギリのそれではなく、危なげもなく避けたのだ。
何度やられても、まるでわざと受けているかのような態度を崩さなかった五郎がいきなり、それもいっそ綺麗な動きで見事に避けたことには驚きが隠せず彼は思わず聞いた。それはなんだと。
お世辞にも五郎は運動神経が良い方ではない。かといえば頭が良いわけでもなく、平々凡々。そこいらに居る和聖と同じ凡人で、何か五郎が変なことを言ってチョップで突っ込みを入れても笑って許し合えるような対等な友人関係を結んでいた。
いきなりのそれに調子を崩されるような思いをしながら、けれど子供時代に帰ったかのような奇妙な高揚感で興味本位に聞いたと云うのが正しいのかもしれなかった。
「おまえ、それ――」
「驚いたか? 何か朝から頭が冴えててな、何故だか次に何してくるか分かるんだ」
「――――それは」
それは未来予知じゃないのか――彼がそう言おうとした瞬間、緊急のネットニュースが届いたことを知らせるスマートフォンの着信音が響き、直後にニュースも特報が挟まれる。ネットニュースを見るまでもなく、ニュースキャスターが緊迫感をも孕んだ声音で特報の内容を語る。
それは誰もが予想だにしなかった事実で、和聖も五郎も、食い入るようにテレビを見つめて、繰り返されるそれをもう一度その耳に届かせていた。
一体何の冗談であるか。繰り返されるそれはまるで遠い異国での出来事のようで現実味がない。
『繰り返します。本日午前01時35分、世界各地の原子力発電所が緊急停止していたことが政府より発表されました。関係者の話によりますと原子炉内にて異常を検知したために動作を停止したとのことで、これを巡り現在各国は臨時の首脳会談を予定しており、政府関係者によりますと計画停電は避けられないとのことですが、このことに国民からは批判の声が上がっています――』
流石に素人の彼でも、簡単な原子炉の構造、ファーレンハイト温度、所謂華氏やセルシウス温度、所謂摂氏、ケルビンや分子運動程度の簡単な部分なら中学から高一の理科や科学で学ぶから知っていた。順序が逆であることに。
何かの冗談にしては度が過ぎている。原子炉が凍結だと? 液体窒素でも中にぶちこまれたかもっと低温の物体を投入されて継続的に冷やされでもしない限りはありえないし、緊急停止して計画停電とは即ち核分裂が抑制されたと云うことを意味する。
本来原子炉は停止しても核分裂反応は続く。それが停止して核分裂反応が止まっていると云うことは、緊急停止したから核分裂反応が止まったのではなく、核分裂反応が止まったから原子炉が停止したということになる。つまりこれは報道内容に規制が入っていると云うことをすら意味する。
あからさま過ぎて一瞬呆けたが、それでこれからどうなると云うのか。
以前『即座の脱原発をしても日本のインフラは保たれる』などと世迷言をほざいていた学者が意見を180°翻している事実なんぞ気にならず、その行き先の不透明さが彼を戦慄させていた。
核分裂炉がダメなら太陽光? アホをぬかせ。太陽光発電の電力変換率がどれほどだと思っている。
火力発電? 世界中が火力発電に力を入れ何ぞしたら原油価格高騰程度では済まされないぞ。
水力発電? ダムに水がたまらなければ使えないのだから論外だ。
今の人類には新エネルギーが必要だった。なるたけ高効率・高燃焼力・高変換率で安定して採取することの可能なエネルギーが。
彼の耳は遠く、遥か遠くの出来事のようにテレビの内容を聞いていた。
『そんなすぐに火力発電だけで日本全国の電力を賄えるわけないでしょう? 特に今回の場合は世界中ですよ? これ幸いと火力発電に世界がシフトしていけば埋蔵燃料だって底を突きますよ』
『ですが大沢さん、昨年10月15日の放送では一貫して火力発電を推しておられたはずでは? ご自身の著書にも即座の脱原発は為されてしかるべきであるとMS行書体にフォント72と云うあり得ないフォントで力説されていたはずでは?』
『人なんだもの、意見くらい変わりますよ』
この時の彼らが知る由もないことであったが、このまま推移すればやがて世界は燃料争奪戦争、後の世界で第一次オイル戦争と呼ばれる物が勃発し、やがて第三次世界大戦へと波及して行くのは確定的だった。甘粕がこの世界の中心で見てしまった現実、近縁未来であり実現確率86パーセントの、あり得た現実。
某国の陰謀、欺瞞の正義、安定した経済活動と安定した経済戦争、それらを改めて盤石の物とすべく各国が燃料を求める機運が高まるはずだった。
そこに甘粕は一石を投じた。安易に常備軍を動かせない、内部の脅威。それは強大であればあるほど鎖となりやすい。
『え~、希望の党連立与党である立憲民主党総裁、前原 啓一代表にお越しいただきました。前原さん、よろしくお願いします。
早速ですが、前原代表は新種の生物に対してどのような措置を検討しておられるのでしょうか?』
『目下検討中です』
『生物が発見されてからそろそろ12時間経つわけですが、いささか対応が遅すぎるのではないでしょうか?』
『全力を持って対応させて頂いております』
『原子力発電所の緊急停止に付きまして、何か代替案などは――』
『兼ねてよりの選挙公約である2030年度までの脱原発が前倒しになっただけであり、誤差の範囲内に過ぎません』
遅すぎる――
彼、清宮和聖はあり得ない物を見たように、なんの危機感も抱かない権力者を睨みつけて毒づく。
対応が遅すぎる。どうやら十二時間前にはすでに発見していたと云うのに、まだ何の被害も出ていないから放置するなど馬鹿のやること以前に危機感がなさすぎる。世界中で現れて被害が出ていないからと云って安全だという保証もないと云うのに。
これではまるで後手後手だ。それが彼の感想の全てを物語っていると言えた。
危機感などなく逆に丁度良いとさえ言いきった政治家に対して、自分が選んだわけではないことが彼にある種の余裕とある種の諦観を抱かせ、同時にやはりこうなったかという思いが強くなった。
もともと彼は一強政治を打ち砕くと云っていた彼の政党を支持していたわけではなかった。税金の使い道の具体化もされず、ではその一強政治が終わった後の道筋はどうなのかと云う疑問すら曖昧なままで全ては決したのだ。
ただの人気取りのための希薄な言葉に、明確化されない実現後の展望について、誰も疑問を挟むことなく解散総選挙を勝たせてしまったのだ。その結果など東日本大震災でありありと付きつけられていたにもかかわらず。
その結果が、今目の前に提示されていることの全てだと諦めると、彼は再びやってきた既視感と頭痛を抑えるようにベッドに腰をかけ、うろたえたように親友が声をかけた。
「――マジなんだよな、これ」
「なに?」
「テレビが俺たちのこと脅かそうとしてこんな凝った仕掛けしたんじゃねぇのかな……? いや、あり得ないだろ、そんな急に原発が止まって計画停電なんて、スライムに何の対策もないとかよぉ…………」
そうか――お前も……。
若干の憐れみと認められないと云う感情を持った者同士として、彼は告げなければならなかった。これが現実であると云うことを。
お前のそれは間違っていない。だが現実から目を背けるな、その先は闇しか待っていないのだから――そういう祈りもあったのかもしれないが、彼にはとんとわからないことだった。
あれだけ理路整然としていながらも、やはり彼も混乱の渦中にあって理性で押し留めるのが精いっぱいだった。目の前の現実に対し混乱することが出来るその幸せを羨みながら、残酷なようで胸が痛かったが、彼は五郎の落ち窪んだような目を見つめ返した。その姿はまるで、砂漠で疲れ切った遭難者が先輩遭難者に諭されるような、そんな風景だった。
「――――――受け入れろ、現実だよ」
「なんでお前はそんなに落ち着いてられるんだよ! こんなわっけわかんねえことが連鎖するなんてありえないだろ!」
「俺だってわけが分からん! だから落ち着け! こんな事態に取り乱したところで意味はない。それより俺たちは事態が動くまで静観しているしか出来ないんだよ……!」
まさか昨日までの平和から一変、このような異常事態に落っことされるとは予想だにしていなかった。
何もせずとも進んでいく日常、自分たちから何かを為さずとも世界はうまく回っていて、惰性で学校に通い、惰性で進学し、惰性で就職し、惰性で働いて、何か起こっても対岸の火事として見ていればいい、そういう日常が続く物だと彼は思っていた。
文明的な先進国でごく一般的に生きる以上皆誰もが本質として理解している。何も起こらないし何も為さない。そしてそれが当然の権利として保障されている。
当然のごとく、先一昨日と同じ一昨日、一昨日と同じ昨日、昨日と同じ今日、今日と同じ明日がないことを知っていながら、先一昨日と同じ一昨日、一昨日と同じ昨日、昨日と同じ今日、今日と同じ明日がある物だと信じて疑わなかったしそれが訪れることそのものが当然の権利だと驕っていたのだ。
ならばこの現状に置いて何を為すべきか? 問われたところで、事態が動くのを静観するしかなかった。
それはそうだ。具体的に何が脅威になるのかが分かっていない生物をとりあえず大多数で取り囲んだところで意味はない。そしてまた、人はそうである非日常が日常化して行く。何も為さない何も起こらない日常に再び絶望して、また閉じこもるのだ。
「――何があるか分からない。今日のところは泊ってけ。布団は一式揃ってる」
「悪いな――」
□
東京のシンボルであり、第二次大戦からの復興のシンボルであった首都の象徴、云わずと知れた東京タワーの大展望台の一階、カフェ ラ・トゥールと思しき廃墟で独り、店の備品の椅子に旧軍の軍服を着用した中年太りしている男が腰かけていた。
突然降って湧いた暇な時間を読書に費やす、といった感じの現代人にありふれた余裕のないようなそれではなく、落ち着いて余暇を楽しむ老人のような気さえするがっしりと太い巨木の如き佇まい。そのさまはある種聖然として、というより超然として、見る者すべてにこの男がどこか違う存在だと云うことを気配だけで示している。
やがて今時風のハイカラなライトノベルから顔を上げると、男は独りごちるように持ち主に話しかけた。そのどこか芯のある、けれどそれを無理やり諧謔の皮の下に隠したような不思議な声色は、動く者のいなくなった大展望台全体に広がり浸透して行く。
「最近だとこう言った内容のが若者には好まれるそうだね。クズ鉄ほどの役にも立たないニートや惰性で働いてきただけの中年が、異世界とやらでたくさんの女の子に囲まれて、大局的に見ればほぼほぼ何の苦労もなしに成りあがっていくような群像劇未満の群像劇とやらが」
酷評しながら、男は再びライトノベルのページに目を落とした。せめて読み始めたのなら読み切るのが礼儀だと、それがたとえ虫唾が走るような臆病者と不動者の夢、ともすれば都合の悪い現実からの逃避の込められたものであろうとも、書き上げられた物に罪はない。
眼鏡の奥の、どこか冷徹で、どこか人形じみた相貌は両手にあるライトノベルの文面を滑り、それでも微塵も身じろぐことはない。
不快感は感じてもひたすらに読みながら、数秒もすると再び固く閉じられた口が開かれる。
「高校を中退したようなコミュ障ニートが、異世界とやらに行けば饒舌になって誰もが憧れるヒーローになれるって? 惰性で働いてきただけの中年サラリーマンが、異世界とやらに行けばナイスミドルに見られて若い娘っ子らに囲まれる男の理想になれるって?
冗談は発想だけにしときなよ。これまで働いたことはおろか人間関係すらまともに構築できてこなかったようなニートが高々子供守ってトラックに轢かれた程度で神様に好かれて? 円満な異世界ライフ? 人生舐めてるとは思わないかい?」
答える人間は誰もいない。地に伏せて誰も身動ぎもしない。明智五郎と同じように、突然に異能を発露させた元ニートたちだったが、その誰もがこの男、板垣征四郎を下すことは不可能だった。
『僕ぁ彼みたいに大層な思想なんて持ち合わせてないんだけどね』
そう嘯き全てを諧謔と甘言の皮に包みこみ、彼が“彼”と呼んだ人間と指揮官以外の敵対する人間すべてに汚わいを投げつけせせら笑う。そういう恵まれた人間関係に恵まれなかった君たちはなんて可愛そうで無様なのか。憐憫の情すら湧いてしまう、その言葉すら甚だ信用ならない彼の世間話だ。
そういう彼には見えていたのだ。一体どういう言葉をかければ誰が不快に思い誰が自分を殺しにかかってくるのかと云う、そういう生来の人間を見る審美眼あるいは観察眼とでもいうべき物が備わっていた。
「惰性で嫌な上司の下で働いていただけの、サラリーマンとしての経験しかないような中年のおっさんが、異世界に行けば女の子に好かれてうっはうはになれるなんて、そんなうまい話あるわけないヨ。ニートが成りあがっていくのが売れなくなったから少々ばかり人生経験に厚みのある設定にしたかったんだろうけどね、ナイナイ! 覚悟も足りなければ意識も足りない。人間以下だよ、そういう塵どもは」
見れば分かる。みなければ分からない。彼はいまだにライトノベルから目を上げないでいる。周り中に這いつくばる現実逃避者の亡き骸になど一切眼を向けずに。
そういうやつらが金を持っているから、そういうやつらにこぞって金を出させるための設定を盛り込んで売りだすとは、堕ちたものだと嘲笑しながら、ではもしもそのパラ引きニートが親の年金を使えなくなったりして金を捻出できなくなればどうするつもりなのか、彼は思っていた。
こういうのが流行るから、本を読む人間は学習に対する意欲がないと受け取る教師が生まれてくる。本と云う物はオタクが読むものと云う意味の不明な論理がまかり通る。
「何故って、そういうやつら大体卑屈だから。何? ブラック企業で働いてたら偉いの? じゃあ僕らは国防の要職と云う名のブラック企業に就いているからもっと偉いネェ?」
皮肉気に、且つどこか愉快気に不敵に男は嘲笑すると、それを持ち主の居たところに投げ捨てた。
あまりに馬鹿らし過ぎる。ブラック企業に就いていたから、虐めで自殺したから、あるいはそれがもとで不登校・ニートになったから――――
――――だからどうした?
お前がそうやって立ち止っている間、誰かは歩みを進めている。周り中から孤立することを望んで孤立したくせにいざ孤立すれば孤独感にさいなまれた結果? 誰かを守って死んだから? そんな可愛そうな俺は誰か人間ですら思いもよらぬような偶然のような必然によって自分の望む交友関係を、自分の望む楽園が都合よく訪れてくれればいいなど暴論も良いところだ。
確かに、行いに対する報酬とやらはアスラ親族の王ヴィローチャナの言うところによれば正当なのだろうし、死に対する正当な対価とは生に他ならないだろう。だが、立ち止まっていた分の負債はどうする? お前たちはそれを都合よく踏み倒したい、楽したいと云っているだけだろう?
そうやって逃げて逃げて逃げたくせに、また逃げるつもりなのか、お前たちは。
今生きている世界が辛いから、今生きている世界ではグダグダと立ち止まってしまうのが目に見えているから――――だからどうした?
変わりたいのだろう? 少しでも親や他人の目を気にしなくても良い存在になりたい、誰かに憧れられるような存在になりたい、それがあのライトノベルの根底なのだろう?
なら、逃げてどうする?
変わりたいと思うのなら、お前が立ち止った世界でやり直せよ。人間死ぬ気になれば、お前たちの望むような誰かに憧れられ、誰かに必要とされ、誰かを愛し愛し合え、誰かと子を為し、金銭的に豊かになれずとも精神面で豊かになれる、そんな理想の未来に行き着くことさえ可能なのだから。
「たとえば歌舞伎町のBARの店主みたいな雑多な人間の相手して渋い歳の取り方しているなら女の子が周り中囲むのも分かるけどさぁ、そんな惰性で生きてきただけのニートや中年に一体何が為せるんだい? 何も為さなくても生きていけることに味をしめて何も為さないで生きてきただけの掃いて捨てられるような屑塵たちが一体どうやって他人を惹きつける魅力を手にできると?」
だがお前たちは何を為さずとも生きていけることを知ってしまっているのだから、そういう塵のような夢ばかりが膨らんでいくのもしようのないことなのかもしれないな。
嘲笑を深めながら、男は呟いた。それは廃墟同然の大展望室に不思議なほど響き渡り、まだ男の奇妙な一人語りは続く。
簡単な内職をやれば家に金を呼び込める。何を為さずとも単純作業でその日の生活の糧を得ることも可能だ。外国だとこうは行かないが、此処は日本だ。そういう子供にでもできる単純作業で金を得ることもまた仕事の一種と数えられる。そういうことをやれるやつはまだましな方だろう。だが中にはとびっきりの阿呆がいる。脳味噌が腐って蛆虫かゴキブリが住まいを作っている。
親の年金を食い潰す穀潰しや、そう言った身の上の癖にインターネット上でだけは威張り散らせるネット弁慶と呼ばれる人種もいる。
別にゲームやインターネットが悪いと云っているわけではなく、それを使う人間の礼儀や公衆道徳が著しく低下していると云う話だ。
いったいそんな人間のどこに魅力と云う物を見出せる? それは確かに、世界は広い。そういうどうしようもないろくでなしを養ってやることに快楽を見出し、そういうろくでなしがいなければ致命的に日常生活に支障をきたすような人間もいる。
だが一般的に見てどうだ? 何も為さず、何もしない。日々を円環のように過ごし、その場に居るだけの置物のような人間に、誰が魅了されるというのか。
「そういうニートや中年にしろ、いや作家にしろ、そういう自分の作った、あるいは望んだ世界に生きるキャラクターってのをヒトとして扱ってないよね? 高校数学で習う範囲なんてすでに古代に出尽くしているんだよ。そんな程度の薄い知識で成りあがろうだなんて笑止千万。そして異世界の常識が必ずしも我々の住む世界の常識とは同じではないことを度外視している。キャラクターはキャラクターとして個性なんてなければ、見ようによっては主人公のみが人間と云ったって過言ではないだろう」
雇用が改善されたところで、働かない奴は働かない。
男は煙草を取り出すと慣れた手つきで火を付け煙を吐いた。とある台湾の零細たばこメーカーが作った、とびっきり甘ければとびっきり辛いのもあり、酸っぱいのもあればしょっぱい物もある、一本一本味にムラのあるくじ引き感覚の煙草。今日のはとびっきり甘かったようだ。
吸い込んだ煙とともに、歯茎が思わず痛みを覚えるほどの甘味が口の中を蹂躙して行くのを感じながら、男は思索にふけりながら同時に口を動かす。
知り合いにこういう奴がいた。30代にもなって20代の頃に取った自動車教習所の講師の資格があれば受かると盲信し、受かるかも分からない自動車教習所の講師になれると何年も応募し続けるだけの人間がいる。それも研修期間なしでベテランとして迎えられると信じている大馬鹿者が。
知り合いにこういう奴がいた。大学を中退して、ならば働き口でも見つけて奨学金だけでも返していけばと云う親の声から耳を遠ざけ、フィギュアやプラモなど、己で働いて稼いだ金で楽しむべき物を親の年金や保険料を食いつぶし、ついには親と仲良く餓死した奴が。せめてもの救いは、腐敗臭漂う汚物のような家で親と抱き合うように死んでいたことくらいだろう。慰めにもならない。
そういう友らは揃いも揃ってそういう内容の夢ばかりを好んでいた。そういう偏見がないとは云わない。いつだって少数派とは多数派に排斥される物だ。だが中には、そう言った類のどうしようもない連中がいた。
だから一つだけ彼らのような人間に云うとするならば、これしかない。
「要するに、人間を決めるのは職務経歴や年の功ではなく人生の濃淡と云うことなのサ。そこに老いも若いも関係ない」
重要なのは人生の長さではない。人生の深さだ。
It is not length of life, but depth of life.
「明日」という言葉は、優柔不断な人々と子供のために考案された。
The word tomorrow was invented for indecisive people and for children.
どちらも有名な言葉だが、まさか知らない者などいるまい。そして彼らの読んでいた物はいつも、薄っぺらかった。物理的にではなく、内容がだ。
ミステリを望んでいるわけではないしミステリばかりが小説ではない。あらゆるジャンルがあったって良いだろう。けれどあの内容の薄っぺらさは、主人公の人間的自己の希薄さは別の意味である種現代社会の皮肉じみていて、不快感ばかりが先だったのを覚えていた。
よっこいしょと声を洩らしながら、男は緩慢に椅子から立ち上がり闇に溶け込んでいく。これが物語の始まりだと言わんばかりに、不敵な笑みをこぼしながら。
「こんな話に一体何の因果があるのかだって? 分からないのかい? 都合よく夢に逃げているような君たちでは、関東軍を倒すことはできないと云うことダヨ」
その翌日、それまで静観を保っていたスライムたちが一斉に市街地で人を襲い始める。
与えられた命令を淡々とこなすがごとく、人口密集地に現れたスライムたちは次々と人を殺していき、自衛隊や軍隊でさえ総力を挙げてようやっと一匹殺せるか否かの、それまで脅威とすら認められていなかった者たちからの反攻だった。
これが、この物語の始まりだった。