アンカー
それからは散発的なやりとりしか交わされなかった。辰巳さんとおれとで。
傍らの泉はおれの腕を強くつかんだまま、ずっと黙りこくっていた。どうにか泣くのを堪えているようにも見えた。
雨は一向に弱まらず、なおもその勢いを増していっている。
「ちっ、そろそろ限界だな」
穏やかな辰巳さんには珍しく苛立ちを露わに舌打ちをし、派手に水を跳ね上げながら車が停まる。
「どうにかドアは開くだろう。葛見神社もすぐそこだし、後は歩くしかない」
灰色に塗り潰されてはいても周囲の風景には見覚えがある。四年前、穏やかな雨の中を葵と泉とともにおれはこのあたりを歩いていたのだ。
「道はわかるので大丈夫です。でも辰巳さん、車はどうするんですか」
「乗り捨てるさ」
いともあっさりと言い切った。
「無茶な乗り方なのは承知でやってきたんだ。水が引いて、そのときにどうにかなりそうだったら修理してもらうとするよ」
もしかしたら新車を買った方が安くつくかもしれないけど、と辰巳さんは労わるようにハンドルを軽く叩いた。
おれの腕を握ったままだった泉を促し、二人とも車から降りる。道路はおれの膝に届くほどにまで冠水していた。辰巳さんの車が四駆車でなくミニバンやコンパクトカーだったなら間違いなくここまでたどり着けていない。猛烈などしゃ降りの中、色あせた白い車体へ感謝の気持ちを込めてそっと触れた。
「さあ、行こうか」
辰巳さんが先頭に立ち、おれと泉はそのすぐ後ろに続く。
だがもちろん、歩く速度は非常に遅い。何せ膝まで水に浸かっているのだ。おまけに風は吹き荒れ、大粒の雨が体を打ちつけてくる。
それでもどうにか葛見神社の鳥居が視界に入ってきた。あの鳥居をくぐれば、本殿へと連なる長い階段が待っている。
三人して水を掻きわけ掻きわけ、ようやく階段のたもとまであと少しというところまでやってきたとき、こんな雨の日には場違いな人影が鳥居へともたれかかっているのに気づいた。
そして向こうからよく通る声で話しかけてきた。
「遅かったじゃないか。三人か、ユイは来ていないんだね」
常盤くんだった。
それを予期していたように辰巳さんが答える。
「ぼくから言って、彼女には家に残ってもらったんだ。とびっきり美味しい料理を作りながら葵の帰りを待っているよ」
「うん、その方がいいだろうね」
何がどういいというのか、曖昧な返事をした常盤くんはおれと泉へ視線を移してくる。しかし声はかけてこない。
おれにとって、眼前にいても常盤くんはもはや別世界の住人だった。死ぬことすら許されず、世界を渡り歩いて数多くの死と〈かみさま〉たちの末路を見届けてきた人。畏怖する気持ちがないと言ったなら嘘になる。
彼がくいっと階段の先を親指で差し示した。
「アオイは上だよ。さっき、ちょっとだけ話をしてきた」
つられて見上げるも、当然のごとく激しい雨に邪魔されてまるで視界がきかない。ひとつだけわかるのは葵には下りてくるつもりがないってことだけ。
冷たいはずの雨で全身がずぶ濡れになっているにもかかわらず、おれの体中には血と熱とが駆けめぐっていてまったく気にならなかった。
静かに呼吸を繰り返す。何度も何度も、吸って吐いて、また吸って吐いて。
やばいな、あいつに会うのがこんなに緊張することだなんて、今までこれっぽっちも思ったことがなかったな。それほどまでに早く葵に会いたいのだ、おれは。
「タツミ」と常盤くんが声に厳しさを含ませて呼びかける。
「わかっているよ」
苦渋の決断を迫られて、といった体の辰巳さんは眉間に深い皺を刻ませた。
「残念だがぼくの役目はここまでだ。あの子が何を選んだのかは、親であるからこそ理解しているつもりだからね」
それからこちらへと振り向き、長年に渡る剣道での修練によって鍛えあげられた両腕でおれの肩をがっちりとつかんだ。
「花南ちゃんを見殺しにしておきながら虫のいい話なのはわかっている。それでも頼む、陽平くん。どうか葵を、あの子を……」
後は言葉にならなかった。
大丈夫ですとか任せてくださいとか、そういった無責任な返事をすることなく、ただ無言のまま頷いておれは辰巳さんから離れていく。
しかし行く手には常盤くんが立ちはだかった。そして流れるような動作でおれの首に腕を巻きつけ顔を寄せ、他の二人には届かぬよう耳元で囁く。
「いいかいヨウヘイ、キミにだけははっきりと言っておく。とても残念なことだけれど、アオイにはもう時間が残されていない。すでに彼女は最後のトリガーを引いてしまった」
自分でも驚くほど、常盤くんが語った非情な事実をすんなりと飲みこめてしまった。雨を願って独りきりで遥か遠くへ行こうとする、おれのよく知る葵らしいといえば葵らしい。
でもバカだな、と思う。人のことを散々バカだバカだと罵っていたくせに、当の本人がいちばんバカだなんてまるで出来の悪いコントみたいじゃないか。
「ボクがこんなことを頼むのはまったくの筋違いだ。だけど彼女を救えるのはタツミでもユイでも、そしてイズミでもなくきっとキミなんだ。お願いだ、全身全霊をかけてキミの答えを出せ」
昨日の常盤くんには、様々な出来事によって人間的な感情をすでに失っているような印象さえ持った。でも、目の前にいる彼はそうは見えない。何だか少しほっとした。
常盤くんの拘束から解放されたおれは階段へと歩きだす。後ろ向きでひらひらと手を振りながら。
「ま、なるようにしかならんでしょ」
「ヨウヘイ!」
答えはもう決めている。
だからこそ、できるならば一人で葵の元へと向かいたかった。
けれどもそうはさせてくれないのだって考えるまでもないことだった。
「わたしも行くからね。まさか駄目だなんて言わないよね」
挨拶代わりに振っていた腕が泉によって三度握られた。
断ろうものならそのまま腕をへし折られかねないような、そんな意志の強さを感じさせる彼女の眼差しに逆らえはしない。
結局のところ、これは最後までおれたち三人の物語なのだから。




