世界は呪いで満ちている
いつだってそうなんだ。すべてがどうしようもなく手遅れになってからボクは何が起こっているのかを知る羽目になる。
錬金術師の男が行っていた実験の数々は、素人目にさえも明らかな失敗に終わることが常だった。キミたちならさしずめポンコツとでも表現するんだろうね。そんな彼のことを少なからず好ましく感じていたボクには、どうやら決定的なまでに人を見る目ってのが欠けていたらしい。
イザベルが捕えられる少し前の出来事も話しておこうか。
思春期の女の子が三人もいる前で口にするのはちょっと憚られるんだけど、偶然にも研究室でイザベルの裸を覗き見てしまったことがあったんだ。本当だよ、本当に偶然だったんだってば。俗に言うラッキースケベってやつ?
何が幸運なものか!
彼女の肉体にはさ、隙間を探すのが難しいほど全身にびっしりと紋様が描きこまれていた。紋様だけじゃない、大小さまざまな傷痕もだ。彼女の首から下にはまるで別の生き物がくっついているようだった。十六世紀の人間ならその姿を悪魔と呼んだだろうな。
何も見なかったことにしよう、と情けなくもそのとき思ったよ。早くこの場から立ち去らなきゃってね。
だけど慌てていた間抜けなボクは物音を立ててしまった。誰、と奥にいた彼女が部屋の入口に向かって当然訊ねるわけだ。続けて「マール?」と。
マールってのはポルトガル語で海って意味さ。海の向こうからやってきた人間だからマール、向こうではそう呼ばれていたんだよ。驚くくらい安直だろ。
ついでに言っておくと常盤宗助って名前も実は借り物なんだ。もっとずっと後、第一次世界大戦が始まる前にパリで知り合った日本人画家の名だ。画家といってもまだ無名で、その日の食い扶持にも苦労しているようなやつだった。なのに酒には目がなくてさ。で、ある日酔っぱらった挙句他の酔漢と喧嘩になり、刺されて死んでしまった。薄汚れた路地裏で冷たくなった彼の死体をボクが最初に見つけたんだ。
そのときのボクは、もうすでに他人の死に対して何も感じないほど心が麻痺しきっていたのだけれど、それでも異国の地で何も果たせず命を落とした彼へ何かしら弔ってあげたい気持ちが働いたんだろうね。以後、常盤宗助を名乗って今に至っているのさ。ちなみに常盤には永久不変って意味があるらしい。まったく、何の呪いなんだか。
いけないな、また随分と話が逸れてしまった。
結局、席を外していた錬金術師が戻ってきてその件はうやむやのままで終わってしまった。今にして思えばあそこが大きな分かれ道だったな。
要するにだ、イザベルが抱えていた事情がどうであれ、彼女の手を引いてすぐに逃げだすべきだったのさ。だってそうだろう、どう考えたって体中に傷を負っている女の子が幸せなはずないんだから。
それからしばらくボクたちの間には妙な空気が流れていた。でもさほど長くは続かなかったよ。程なくしてイザベルに魔女の嫌疑がかけられてしまったからね。
実際に目にする機会はなかったんだけど、魔女狩りが特にひどかったのはドイツやフランスだって言われているんだよ。ま、キミたちならそれくらい知っていて当然か。
ポルトガルやスペインといったイベリア半島の国では比較的穏やかだったってのが定説らしいけど、そりゃあくまで当時にしてはって但し書き付きでだ。
なぜならイザベルは本物だったんだから。
もちろん、文献などで描かれているような荒唐無稽な魔女だったとかではないよ。夜な夜な悪魔を崇拝するサバトを繰り広げ、悪魔の尻にキスをし、幼い子供を生贄として捧げるようなやつが存在していたのは、信仰に熱中するあまり他人の人生を平気で踏みにじってしまう連中の頭の中だけさ。魔女ではなくあいつらこそサヴォナローラよろしくその身を焼かれてしまえばいいんだ。
錬金術師の研究は相当なところまで実を結んでいたようだった。一人娘の肉体を実験台にした、まさしく悪魔の実ってやつだ。
おいそれとは信じられないだろうけどイザベルはね、願ったことを叶えることができたんだよ。そんなことができるのは本来なら神の領域さ。人間が足を踏み入れていい場所じゃない。なのにあの男はイザベルをそこへ近づけてしまった。あいつはイザベルの体を錬金術で言うところの「完全なるもの」、いわば神の苗床にしようとしていたんだ。
それなりに穏やかな日々が終わりを告げたのは、直接的には彼女が兵士たちによって捕えられたときになるんだろうな。事態を知らされてさすがにボクも気が動転したよ。
発端は単純だったさ。イザベルが旧知の仲だった子供の傷を治したのがいけなかった。農作業を手伝っていた際に重傷を負った少年を心の底から哀れに思ったんだろうな、いかにも彼女らしいよ。笑えないことに、イザベルを魔女だと密告したのは少年の祖父だ。
城内の人たちから経緯を聞かされたボクが向かう先はひとつだった。そう、イザベルの父親である錬金術師のところさ。そのときまでは彼のことをまだ信頼していたからね、愚かにも。
あの男は娘がいなくなった部屋で気が触れたようにわめきたてていた。だけどボクの姿を目にした瞬間、にたりと笑みを浮かべたんだ。故あって長い人生を送っちゃいるが、あれほど気持ちの悪い笑顔を見たのは後にも先にもそのときだけだね。
そうだ、わたしにはまだおまえがいたのだ。錬金術師がそう叫んだときにはまだ何のことか全然わからなかった。だけどやつはご丁寧にもちゃんと説明してくれたよ。聞きとるのが精いっぱいなほどの早口で。
いわく、本来ならボクもイザベル同様に真理へと到達するための素材でしかなかったんだそうだ。それをイザベルが「マールには何もしないであげて」と。自分がすべて引き受けるから、と。延々と語り続けていたな、あの阿呆は。娘がいなくなってしまうのだからおまえが意思を受け継いで役目を果たせ、とボクの肩をつかんだんだ。
気づけばあの男は死んでいたよ。初めて己の手で人を殺めたってのに、まるで記憶が残っちゃいない。そこらにあった実験道具で頭でもかち割ったのか、首でも絞めたのか。ただ、自分の中で得体の知れないどろっとしたものが流れた気がした。
それまで人間の死体なんて腐るほど見てきたんだけどね。というか、航海中に死んだことすら気づかれなかったやつの死体は耐えがたい臭気を発して実際に腐ってたな、はは。
あれ、面白くなかった? それは残念。
ともかく、ボクは目の前で絶命してしまっている男のことなんてすぐに忘れた。領主から下賜されたにもかかわらず、錬金術師がぞんざいに保管していた一振りの美しいナイフを上着の内側にそっと忍ばせて部屋を出たよ。
そしてイザベルの行方を必死に追ったんだ。




