〈オルタンシア〉にて 4
常盤くんの左腕へ二重に巻かれた半透明のゴミ袋があっという間に真っ赤な鮮血で満たされていく。
ひっ、と息を飲んだのは葵か泉か、それともまどかか。あまりにも理解を超えた光景を目の当たりにしているせいで、おれだってうまく言葉が出てきてくれない。
なのに常盤くん自身は平然としたままだった。
「大丈夫。もし血を床にこぼしてしまっても、すぐに拭けばちゃんと綺麗になるから」
「そんな心配なんて誰もしてねーよ!」
ようやく声になってくれたのは、とんちんかんにも程がある常盤くんへの文句である。一刻も早く病院に運ばなければ助からないかもしれないのに、いったい彼は何を考えて悠長に構えているのか。はっきり言おう。頭がイカレている。
「落ち着きなって。もうそろそろだから」
怒気を孕んだおれをなだめるように言ってから、彼は店内の流し台へと向かっていく。そして腕に巻いていたゴミ袋を外し、中に溜まっていた赤い液体をシンクへ流した。
「血の匂いってさ、ほんと独特だよね」
そう言われて初めて、〈オルタンシア〉店内に充満したむせかえるような鉄っぽい匂いへと意識がいく。胃のあたりが強く圧迫されるのを感じた。
来てはいけない場所に来て、見てはいけないものを見ている。まだ神様を誰もが信じていた時代に禁忌を犯してしまった人へ自分をなぞらえてしまいたくもなる。
キッチンペーパーを使って適当に腕を拭っていた常盤くんが軽く頷く。
「これでよし」
どこがだよ、とおれは心の中で毒づいた。
戻ってくる彼の左腕、肘近くまで捲り上げられた白いシャツの袖が赤く染まっているのにどうしても目がいってしまう。その姿だけで日常がどこかへ消し飛んでしまったのだと理解できる。
だが、本当に異質な存在と触れるのはむしろここからだった。
いきなり突きだされた常盤くんの左腕には一切の傷が残っていなかったのだ。
「どうだい」
目を疑った。何度も目をこすって確かめてみたが、拭き切れていない血の筋がうっすらと残っているだけで、傷と呼べそうなものは何一つない。あれほど思いきりナイフを突き立てたにもかかわらず。
頭が混乱しているのを自覚しつつ、どうにか「手品、ですよね」と常盤くんの顔を見上げて言った。
彼は苦笑いを浮かべて応じる。
「本当にそう思っているのかい?」
葵たちも立ち上がって代わる代わる常盤くんの腕を眺めていた。そしておれ同様、刺した行為そのものが幻であったかのような肌しか確認できずに再び席へと戻っていく。いつも美しい姿勢を崩さない泉ですら、椅子へと体を投げだすようにして座っていた。葵やまどかだって当然似たり寄ったりだ。
異常すぎる状況を前に、考えを巡らせ続けることはすでに困難になりつつあった。精々鸚鵡返しのようにして訊ねるのが関の山だ。
「手品じゃなければ、いったい何なんですか」
「死ねない人間がここにいるよって教えたかっただけさ」
さらりと常盤くんが口にした。それははたして人間と呼べるのか?
ぽん、と刺したはずの左腕を叩いて彼は言う。
「それともこれだけじゃ死ねない証明としては不満なのかな? だったら別に頭でもお腹でも力いっぱいこいつで刺してくれてかまわないよ。結果は同じ、少し時間が経てば何事もなかったかのように元通りになるだけ」
ほら、と常盤くんが鋭い刃の先端をつまんで、こちらにナイフを差しだしてくる。
おれは力なく首を横に振った。もちろん今までの常識を覆してしまう彼の言葉をすべて鵜呑みにはできないし、率直に言って半信半疑ではある。だけどそれは裏を返せば半分は信じるしかなくなっているってことなんだ。
手を上げる者が誰もいないのを確認し、テーブルワゴンの上へナイフを置いた常盤くんは「日が沈むまでには終わらせようか」と切りだした。
「ボクはこれからある病気の話をさせてもらう。ほとんどの人は知らないし、たとえ教えられたとしても信じはしない。そんな病気の話さ。きっとボクは誰よりもその病気と縁がある人間なんだと思う。望んではいないんだけどね」
それからは彼は葵をじっと見つめた。
「アオイ、とても辛い話だと思うが覚悟して聞いてほしい。ずっと以前からキミはその病に侵されているんだ。この先、おそらく治ることはないだろう」
非情な通告をされても、葵の表情にそれほど変化はない。すでにある程度の腹は括っていたのか。とてもじゃないがおれなんかには真似できない、すごい女の子だよ。
だが彼の言葉にはまだ肝心な部分が抜けたままだ。
「病気って……いったいどんな」
心細そうな声で泉が問う。
常盤くんの口ぶりからすれば相当の難病なのだろう。ただ普段の葵にはそれらしき兆候などまったくなかったように思える。
いずれにせよ、今のおれにできるのは彼の話に耳を傾けることだけだ。
「それを語るために、キミたちの時間を少しばかりいただくことにするよ。四百年以上もの昔に遡っていかなきゃならないからね」
こう見えてもボクはびっくりするくらいのおじいちゃんなんだぜ、と自称死ねない人間の常盤くんがおどけてみせた。




