〈オルタンシア〉にて 3
「約束だ、ユイ」
腕組みをした常盤くんが近寄りがたい空気を放ちながら言う。
「二年前に話し合ったはずだよ。いつかカナが自分の意思で沈黙を破る日が来たなら、そのときはきちんとすべてを伝えようって。真実を告げてあげることがほんの少しであっても幸せな道なんだって、これまでの経験からそうボクは思っているって」
真っ直ぐに見据えてくる彼の視線を唯さんは受け止められない。耐えきれず、といった様子で目を逸らし俯き加減になってしまう。
気づけば口の中が恐ろしく渇いている。それでも空の雑巾を絞ったみたいにして出てきた唾を飲みこみ、どうにか声が出せるよう喉を整える。飲み下す音がこの場にいる全員に聞こえてしまった気がした。
「伝えるって、いったい誰にですか」
訊ねはしたがわかっていたのだ。ここで誰の名前が告げられるのかは。
今日、まどかがおれと葵の前に姿を見せたときからまとわりついていた嫌な予感が、ようやく形をとろうとしている。まるで水蒸気が雨を降らす雲となっていくように。
常盤くんはほんの一瞬だけ、哀しそうな目でその相手を見た。
「──アオイにだよ」
それを聞いたまどかの反応は予想と寸分違わないものだった。
「やっぱり……やっぱり!」
顔面蒼白の葵とは対照的に、先ほどまでとはうってかわって勝ち誇った調子の声でまどかが叫んだ。
そんな彼女を常盤くんが一瞥する。
「そこのキミ、名前は何ていったっけ。まあいいや、どうせ覚える気もない。キミはなかなかに鋭いよ。ボクとユイ、それにタツミは確かにずっと隠し事をしてきた。すべてを目撃したカナがあえて沈黙を選んだことまで含めてね」
ほらみろ、とばかりに口を開きかけたまどかだったが、常盤くんに手で制されてしまい露骨なほど不満を表情に出す。
しかしそんなことで彼は動じなかった。
「ただし、それはキミが思っているようなありふれた出来事じゃない。まったく信じがたい、この世の理を外れた話なんだ」
「はあ?」
小馬鹿にした反応をまどかが見せるも、常盤くんはまるで取り合おうとしない。
それが彼女をさらに苛立たせたのだろう、「ここは本当に卑怯者たちの集まりなんですね」と椅子に座りながら吐き捨てた。
「あたしがまだ中学生だからって甘く見ているんじゃないですか? 核心に迫るのを避けふわふわした言い回しで逃れられるだなんて本気で考えているんだとしたら、救いようがないくらい頭が悪すぎる」
あからさまな挑発に対し、小さくため息をついた常盤くんがテーブルを人差し指の先で叩く。思いのほか大きな音がした。
「ねえキミ、悪いんだけど少しばかり黙っていてくれないかな。ここからは邪魔だ。子供はもうおうちに帰らなきゃいけない時間だろう?」
「何なんですかこの人……! 身勝手すぎるでしょう!」
邪険にされたまどかが怒りを露わにしている。恵まれた育ちである彼女のことだ、こんな扱いを受けたのはもしかしたら生まれて初めてだったのかもしれない。
もちろんまどかに肩入れするつもりはなかった。ただ、先ほどの常盤くんの発言を信じれば、おれが意識を失っていた間に葵が誘拐犯を殺したという線はなさそうに思える。
それにもし、今ここで心中に火種を燻らせたままのまどかを帰らせたならば、宮沢先輩や他の人たちも巻きこんで騒ぎをより大きくしてしまいかねない。
両膝に手をつき、おれは二人の大人へ向かって頭を下げた。
「唯さん、常盤くん。この子は本当に花南の友達なんです。あいつが心を許しているのは間違いないし、恥ずかしい話ですがおれにはできなかったことをしてくれた。いろいろあってもそこには感謝しているんです」
まどかもこの場にいさせてやってほしいというおれの意思表示のつもりだ。
意外な援軍に驚いた様子で、まどかは「陽平先輩……」とだけ口にした。
葵と泉は揃って不安そうに唯さんへと視線を向けている。
「──陽平くんがそう言うのであれば。さっきは花南ちゃんと友達だってことまで疑ってごめんね、まどかさん」
弱々しい声で謝る彼女の姿もまた、おれがこれまで目にしたことのないものだ。
「結局はこうなってしまう運命でしかなかったと考えるべきなんでしょうね。宗助が決心したなら、わたしにはもう止められない」
まるで独り言のような唯さんの言葉だった。
「二年前の時点でちゃんと話すべきだったのかな。わからない。どうすればよかったのか、わからない」
そう呟いたきり、唯さんは手で両目を覆ってしまう。
そんな痛ましい彼女に向かって常盤くんが「すまない」と告げる。だがそれは語りだす合図でもあった。
「とりあえず公平を期して教えておこうか。肉体における急所と的確な攻撃方法を理解してさえいれば、たかだか人間一人なんて素手でもあっけなく殺せるんだよ」
憂いを帯びた彼の口から間を空けず飛び出てきたのは、幼さと美しさが同居したような外見からは想像すらできないほどの劇物である。
経験者の言葉なんだから間違いないさ、そうさらりと言ってのけた常盤くんははたして本当におれの知っている彼と同一人物なのか。
どこまで信じていいのかわからないほどに衝撃的な告白を受けて、葵に泉、それにまどかまでもが呆然としている。どうせおれだって傍から見れば似たようなものだ。ただ一人、唯さんの表情だけはうかがい知ることができない。
誰にも口を挟む時間を与えることなく、淡々とした調子で常盤くんが続ける。
「だけど世の中にはどうあっても死ねない人間だっている。いくら鋭い刃物で突き刺しても、銃で撃っても、毒を飲ませても、火で燃やしてもね」
そんなバカな、と疑う声が喉元まで出かかったものの、常盤くんがまとっている峻厳な気配はそれを許さない。
静かに彼は席を立ち、そして壁面の棚にあるカトラリー入れから一本のナイフを取りだした。柄の部分が木でできているミートナイフ。あのナイフをおれはよく覚えている。以前葵が「日本有数の刃物の産地で作られた業物だってさ」と自慢げに語ってくれたのだ。
そのまましゃがみこんで今度は棚の下をがさごそと漁り、なぜか二枚のゴミ袋を引っ張りだす。さらに不可解なことに、常盤くんはそのゴミ袋を二枚重ねにして左腕を覆ってしまった。
右手に握られていた鋭いナイフをくるりと空中で一回転させ、手元を確認することのない無造作な動きで再び柄をつかんでみせる。ただし逆手で。
常盤くんがおれたち全員の顔を見回した。
「アオイ、イズミ、それにヨウヘイ。すべて話すよ。長くなってしまうけど、ボクのことも含めてすべてをさ」
言うなり、ほんのわずかな迷いも見せず彼は自らの左腕に勢いよくナイフを突き立てた。




