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二年前、六月十四日 1

 なぜ花南がしゃべれなくなったか。そこを語るには一刻でも早く脳内から消し去りたい記憶である、あの忌々しい誘拐事件を避けて通れない。

 とても暑い一日だった。二年前の六月十四日、よほど縁があるのかまたしてもレイニー・デイである。ただし、この日は姫ヶ瀬で天候の観測が始まって以来、史上初となる「雨の降らなかった六月十四日」となるのだ。


 猛勉強の末にまさかの星見台学園入学を果たしたおれは、自分でも意外なほど男子校ライフを満喫していた。友人たちと同じく口を開けば脊髄反射のように「彼女ほしーわー」とぼやいていたものの、それはただ単にみんなと揃いのストラップを持っている程度の感覚でしかなかった。見渡すかぎり男子だらけなのが逆に居心地のいい学校だったのだ。


 だからその日が恋に浮かれるレイニー・デイであることにもまったく注意を払っていなかった。もう自分には関係ない、そう思いこんでいるおれにとってはただの日曜日でしかないはずだった。


 朝方に帰宅した父は昼過ぎになってもまだ寝ており、母も出掛けるつもりがなさそうだったため、「遊びに行こうよー」とせがんできた花南と二人、ぎりぎり小学校の校区外となる立地のショッピングセンターへと自転車で買い物にやってきていた。フジマート・ザ・グランドパーク、地元住民は皆略してグランパと呼ぶ。おじいちゃんかよ。ショッピングセンターといっても昨今流行りの超巨大な郊外型ではなく、昔ながらのスーパーに毛が生えた程度のものだ。


 そうはいってももちろん館内に空調は効いているのだが、花南ときたら「にーちゃん暑い」をやたら連呼する。そんな彼女が目ざとく、テナントで入っているアイスクリームショップの新製品の案内を見つけた。


「にーちゃんあれあれ、プリンだって」


 黄色と焦げ茶色が混ざった、おれとしてはいまいち心を惹かれないヴィジュアルだったが、熱のこもった目で見つめてくる可愛い妹にはこう言ってやるしかない。


「なら先に寄るか」


 やった、と花南はその場で小躍りする。彼女いわく「喜びのダンス」なのだそうだ。

 正面入口から少し進んだ場所にそのアイスクリームショップはあった。花南のプリン味とおれのラムレーズン味、それぞれ購入して近くのベンチに腰かける。


「そんな羨ましそうな目で見てもあげないよー」


 釘を刺してくる花南だったが、しかし妹よ、それは誤解だ。やっぱりどう見ても美味しそうには思えんな、と首を傾げていただけなんだ。

 兄妹揃って黙々と、ついばむようにしてアイスクリームを味わっていく。最後にワッフルコーンの欠片を口に放りこんだところで、どういうわけかとても懐かしい声がした。


「花南ちゃんよりも夢中だったね。いつ気づいてくれるかなって思ってたんだけど」


 弾かれたように顔を向けると、すぐ近くに立っていたのはまさかの有坂泉だった。中学に上がっても剣道はちゃんと続けていたらしく、臙脂色の竹刀袋を手に持っている。

 少し背の伸びた彼女は「全然変わらないね、陽ちゃん」とおれの隣に腰を下ろす。あまりの不意打ちにおれときたら驚きすぎて声も出せない。情けないにも程があるだろう。

 対照的に花南が満面の笑みを浮かべて立ち上がった。


「やっほーいっちゃん、久しぶりー」


「こんにちは花南ちゃん」


 二人は挨拶をすませたあと、おれの頭越しにハイタッチを交わす。

 これでようやくおれにも理解できた。泉がここへやってきたのは単なる偶然じゃないってことが。


「おい花南」


 ぎろりと睨みつけるも、にこにこしたままの彼女は「なぁにー」とまるで気にする様子がない。考えてみたら怒ったことなどない兄の威厳なんてすでに行方不明である。

 昔から花南は有坂姉妹にとてもよく懐いていたし、葵も泉もまるで本当の妹のようにこの子を可愛がってくれていたのだ。おれの与り知らぬところで彼女たちが連絡を取りあっていたとしても何ら不思議はなかった。


「元気そうだな」


 もっと気の利いた言葉があるはずなのに、おれの口からはそれだけしか出てこない。

 だけど泉も「ん、元気」とだけ返事する。

 もう有坂姉妹に会うことはない、そう固く誓ってこれまでやってきたはずだったのに、たった一言二言の会話だけでその決意はアイスクリームやかき氷よりも早く溶けてなくなってしまった。悲しいほどに綺麗さっぱりと。


「そういや今日は泉だけなのか。葵は?」


「さあね」


 途端に泉が不機嫌そうな態度に変わる。しまった、この二人の関係はあの卒業式以降もずっと冷えこんだままだったらしい。

 どうしたものか、と考えているおれをよそに、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねている花南が「あおちゃんはねー」と口を開く。妹よ、小学五年生でその行動はさすがにちょっと幼すぎやしないか。


「今日映画を観に行ってるんだってー。ついさっき終わったみたいだよー」


 言っているそばから花南のスマホがぶるぶると震えだす。ちゃんとマナーモードにしていたのか、よしよし。

 画面を確認した花南が「あ、またあおちゃんからだー」とうれしそうに声を上げた。


「『バスに乗った、ダッシュで行くからそこで待ってて。仲間外れ断じて許すまじ』だってさー。そんなことしないのにねー」


 同意を求める妹の無邪気な言葉には反応せず、黙ったまま泉へと視線を向ける。

 すぐにその意味を察した彼女が肩を竦めた。


「相変わらずでしょ、あの子」


 はあああ、と体中の空気が抜けていってしまいそうな特大のため息をつきながら、泉は軽くこめかみを押さえる仕草を見せる。


「やっぱり葵ちゃんも来るのか……」


 そして大きな瞳でじっ、とおれを見つめてきた。


「せっかくのチャンスだと思ったんだけどな」


 いかに幼い頃からの仲とはいえ、こうも直球を投げこんでこられるとさすがに反応に困ってしまう。いったいおれなんかのどこがいいのか、一度くらいはきちんと眼科で診てもらったほうがいいように思うのだがどうだろう。

 そんなおれたちの様子を眺めていた花南が、唐突にぽんと手を叩いた。


「じゃあさじゃあさ、にーちゃんといっちゃんはしばらく二人きりでごゆっくりー。花南はここであおちゃんが来るの待ってるー」


 いらぬ気を利かせた妹の提案におれは思わず天を仰いだ。といっても目に入るのは老朽化した天井と旧型の蛍光灯ばかりだが。ここ姫ヶ瀬に生を受けた男子として、どう足掻こうともやはりレイニー・デイが放つ磁場とは無縁でいられないのか。


 ほらほら、と追い立てるように花南がおれたちをばしばし叩いてくる。

 何ともいえない空気が流れる中、俯き加減の泉から小さな声で切りだしてきた。


「陽ちゃんさえよければ、その、参考書選びに付き合ってくれる?」


 昔からそうだった。彼女にお願いをされて、おれがノーと断った記憶はこれまでただの一度もないのだ。葵のやつから「えこひいき!」と詰られたりもしたが、あいつの場合はおれを専用の従僕か何かと勘違いしている節がある。そりゃ断りもするわ。

 軽く癖のある花南の髪を柔らかく撫でながら言った。


「──葵が来たら連絡しろよ。すぐ戻ってくるから」


「わかったー!」


 Vサインとともに寄越したこの返事が、今のところおれが最後に聞いた花南の声だ。

 後になってどれほどこの場面を後悔し、やり直したいと願ったことか。だがおれの人生にセーブポイントなんてない。どこにも存在しないんだ。

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