さんかく
久々の投稿です。
ちょっと対象年齢層高めだと思います。
「好きです! つき合って下さい!」
気持ちのいいくらい大声で、青年は右手を出して頭を垂れる。
行き交う人は、くすくすと笑いながら、それでも足早に去っていく。
私は、若干のトキメキと、多大な羞恥心で頬を染めながら、青年の肩に手をおいた。
「仕事の関係でつけれないけど、コレ」
首からかけていたチェーンの先、輝く指輪をブラウスの中から引っ張りだし、そっと見せる。
青年の目が大きく見開かれた。
「ごめん、既婚者なんだ、あたし」
名も知らぬ彼は、面白いくらい顔色を失い、漫画のヒトコマのように、地面に両膝をついた。
周りの目が痛すぎる。
何だコレは。
別れ話のもつれ、悪女は私。
でもちょっと待って!
私、彼は初見だから!
今日初めて会った人だから!
誰かれ構わず、そんなことを主張して回りたいくらい、いたたまれない。
「あの、ゴメンね? その、多分私、」
君が思ってるような年齢じゃないよ、と言いかけて、遮られる。
「沙英? どうしたんだ?」
背後からのよく知った声に、私は振り返りもせずにその人物の腕ろ引き寄せ、青年につきつけるようにして叫んだ。
「これが旦那だから! 付き合えないから!」
青年の目が、まっすぐに腕の持ち主に向けられる。
腕の持ち主たる光流は何も言わない。
青年の目が細められ、私に戻ってくる。
私はこれ以上の沈黙は耐えられず、光流の腕を引っ張りながら、駅前を離れた。
帰る道すがら、経緯、というほどのものでもない状況を、私は些か修飾過多に説明した。
「だから、その、本当にあの子とは初対面でさ! 私もびっくりして!」
この動揺っぷりは、かえって怪しすぎるのでは? との疑念に苛まれながらも、これ以上言葉が出てこないところまで潔白を説明し、玄関についた頃には息を切らしていた私に、光流は「ふ〜ん。わかった」と言っただけだった。
あまりのあっさりっぷりに脱力し、先ほどの青年のように廊下に両膝をつく私をおいて、光流はさっさと中に入っていくのであった。
結婚して三年目。
見慣れた横顔を見ながら、夕食を食べる。
光流の視線の先にはテレビがあって、どこがおもしろいのか私には全くわからないバラエティを見ていた。
会話はない。
テレビの中の人たちがたてる笑い声だけが、食卓に響く。
私は早々に食べ終わり、自分の分の食器と夕食の用意で使った鍋などを洗う。
そうしている間に、光流も自分の食器を持ってきた。
「ん」と言う、声とも音ともつかないものとともに差し出される食器。
私も、光流を見ずにその食器を受け取る。
光流はそのままテレビの前に戻り、私は翌日の夕食用の仕込みもこなして、風呂に入る。
髪を乾かした後は、寝室に入り、私は広いベッドの上で一人、読書を始める。
そして、眠くなったら寝る。
大学生の頃につきあい始め、同棲をし、社会人二年目に結婚した。
つきあっていた頃も、同棲していた頃も、特に不満はなかった。
お互いを束縛しない、適度な距離を保てる感覚が好きだった。
それが何故、結婚後になって味気なく感じるんだろう。
「子供はまだ?」という声は最近よく聞かれる。子供が産まれたら変わるのだろうか、とも思うのだけど、じゃぁ、変わった先の関係を光流は受け入れるのだろうか? と思うと、よくわからない。
それを聞く勇気もない。もしこのぬるま湯のような生活が、望んで浸かっているぐずぐずの状況が壊れてしまったとき、自分がどうすればいいかわからなくて。
だから、だらだらと避妊も続ける。
夜中に、光流がベッドに入ってきた気配を感じる。
私はぼーっとその気配を感じている。
ベッドに入った光流は、少しの間、上半身を起こしたままだった。
あれ? と思うけど、私の頭は覚醒には至らない。
私の頭に曖昧な疑問を残したまま、光流はしばらくして、背を向けて眠った。
結局いつも通りの流れに戻ったことに、深い安堵と、ちょっとの涙を流して、私も再び深い眠りに落ちていった。
「やっぱりあきらめ切れません!」
突然の大声に身をすくませる。
私の正面には、昨日の青年が再び立ちはだかっていた。
昨日はびっくりしすぎて、子細を見ていなかったけど、改めて見ると、明らかに大学生くらいの青年だ。
この帰宅ラッシュのさなかにラフな格好でいることも、彼がまだ社会にでていないことを示しているように感じられた。
「あの、大声、やめてくれない? それに、言ったでしょう? 私、既婚……」
「でも、幸せじゃないでしょう?」
私の言葉を遮って、青年が言った台詞に、私は固まった。
彼は私の何を知っているのか。どこまで知っているのか。途端に、青年が得体の知れない恐怖の対象に見えた。
「何を言ってるの? そんなの、あなたに関係ないでしょう?」
叫びたくなるのを何とかこらえて、でもトゲトゲした言い方を和らげることはできず、私は鞄を胸に抱きしめて言い放つ。
青年は、とても端正な顔を苦笑というか、泣き笑いのような顔にゆがめた。
「僕はあなたの何も知りませんよ。あなたの名前だって、昨日、旦那さんが呼んだので、初めて知ったくらいです。
でも、わかることもあります、沙英さん」
見知らぬ青年が、近くのコーヒーショップを指さす。
「少し、お時間をよろしいですか、沙英さん」
お互いに飲みたいものをカウンターで注文して、お金も自分の分を自分で払う。
青年は、「誘ったんだからおごりますよ」と言ったけど、私の警戒心はまだ解けたわけではない。
下手に飲み物を任せて、変な薬を入れられてもたまらない。
……そこまで考えて、何をバカなことを、と思い直す。
変な宗教や、セミナーに誘われることがあるのだとしても、「私自身をほしがる人」なんているはずもない。
ってことは、心を強く持っていれば大丈夫。
込み合った店内の二人掛けの席について、私は気合いを入れ直した。
くすり、と笑う気配がして、青年を見返す。
青年はとてもきれいに笑っていた。
「沙英さんの考えてること、丸わかりですよ。こんな短い間に、そんなにころころ表情を変えて。すごく可愛い」
油断した。
最後の一言に、カッと顔に熱が集まる。
「僕は宗教でも、何かの勧誘でも、売りつけでも、合コンのお誘いでもありませんよ」
くすくす笑い続けながら、青年は丁寧に否定する。
「でも、でもね! 詐欺師だって、自分が「詐欺師です」なんて自己紹介しないじゃない……」
からかわれていることが悔しくて、恥ずかしくて、ついつい言い募ってみたけど、この言い方だとどっちが年上だかわかりゃしない。
もう、笑いをこらえられない、というふうに口元を覆って体を震わせる青年を見ながら、私は初動の過ちを悟った。
気まずい。
「あの、あのね。私、よく間違われるんだけど、結構、年上なのよ? 背もあんまり高くないし、顔も童顔だし、その……アレなんだけど、二十半ばで、結構、オバサンなの。だからね」
私服でいたら、今でも高校生に間違われることがある。
高校生男子にナンパされたことも一度や二度ではない。
そんなに軽く見えるんだろうか。それとも隙だらけ?
だいたいの子は、私の年齢を言うと、途端に顔をひきつらせて逃げていくんだけど。
大人の威厳って、どうやったら身につくんだろう。
自分の言葉に自分で傷つき始めたところで、青年が「沙英さん」と遮ってきた。
「あなたが年上なのは知っています。
疑う気持ちはよくわかるんですけど、まずは、僕の説明を聞いてもらえますか?」
年下の青年に、明らかに私よりも年上な対応をされている気がする。
手元にあったエスプレッソに口を付けて、頷いた。
青年の説明は、端的でわかりやすかった。
大学とバイト先を行き来する際に、この駅を使っていること。
二年前から、たまに私のことを見ていたこと。
最初はやはり、年齢を勘違いしていたが、仕事の持ち帰りの荷物を見て、その勘違いに気づいたこと。
そして……。
「前はそれほどでもなかったと思います。でも最近は、いつも沈んだ顔をしていて。
電車の中で、正面に座った僕を通り過ぎたどこか遠くを、泣きそうになりながら睨みつけていることもありました。
スマホ見ながら、ため息ついたり。
結婚しているとは知りませんでしたが、誰かとつきあっているんだろうな、とは思っていて。
だから、見ているだけで満足していたんですけど……。
沙英さん、気づいていましたか?
今のあなたは、いつ見ても泣きそうです。涙を積めすぎた風船みたいです。
それが割れて、あなたが全部壊れてしまいそうで、……見ているだけじゃ、我慢できなくなりました」
青年はまっすぐに私を見つめる。
正面から見る異性の顔。
なんだかとても久しぶりな気がする。
「旦那さんと別れて、僕とつきあって下さい。僕があなたを笑わせてみせます」
すごい直球だ。
若い。素直にそう思った。
そして、どう返そうか、と口を開きかけたとき、がっしりしたたくましい腕が、後ろから私を抱きしめた。
「ふざけるな。沙英は俺のだ。返してもらうぞ」
身体全体が硬直する。
顔が真っ赤になったのを感じる。
涙が溢れそうになる。
耳元で紡がれた声に、腰が抜ける。
青年は私と、その後ろにいる男を交互に見て、とても透明な笑みをみせた。
「……完敗ですね。でも、沙英さんが泣きそうだったら、また攫いに来ます。覚悟して下さい」
最後に、私ではなく、その後ろの男に目を合わせ、飲み干したコーヒーカップを置いて去っていく。
「うわぁ、格好いい。見た? 何、あのイケメン! あの年齢であれって、どういうこと? これから、どんな化け物になるの?」
「沙英」
「何だか、夢みたいだったよ。いや、夢と言うより、ドラマ? テレビのイケメン俳優のドッキリ、って言われても、私、信じちゃいそう」
「沙英」
「いやいや。美味しい思いをさせてもらいました。満腹満腹」
「沙英」
「こんなシチュエーション、一生にあるかないか、だよね。隠しカメラで撮っといて、ブルーレイにでも焼き付けたい」
「沙英、こっち向け」
誤魔化せなかった。
「ったく。何で、泣いてるんだよ」
光流は、私がいつもアイロンをかけてあげているハンカチを広げて、私の顔を拭ってくれる。
「だ、だって……。嬉しかったんだもの。俺のだって、言ってくれた」
一生懸命しゃべり続けていたのを邪魔され、もう、私には何もできない。
溢れる涙を拭うことも、まだ私を抱きしめてくれている腕から逃れることも。
「私、どこで間違えたのかなって、ずっと思ってたから。このままでいいのかな、ってずっと……」
「……俺もだ。子供いたら変わるのかなって思ったけど、おまえ、小さい子は苦手だって言ってたし。子供ほしいって言ったら、おまえが逃げていってしまいそうで」
耳に届く、少し震える声。
あぁ、そうか。
光流も一緒だったんだ。
私と同じことで、ずっと考えすぎていたんだ。
私は振り返り、光流の目をじっと見た。
正面から、じっと。
「私も、そう。子供ほしいっていったら、光流がいやがると思って。……三年も一緒に暮らしていて、私たち、何をしていたんだろうね」
「俺、これからはちゃんと言葉にするよ。大学の時は、沈黙でいられるのが気持ちよかったんだけど。それだけじゃだめだったんだな」
そうだ。だめだったんだ。
青年から学んだこと。
言葉にする。説明する。
落ち着いて。冷静に。
「愛してる、光流」
「俺も、愛してる、沙英」
いきなり、割れんばかりの拍手が鳴り響き、私たちはそこがまだコーヒーショップであったことに気づいた。
周囲を見渡すと、店員さんや溢れるお客さんたちが、「おめでとう」とか「頑張れよ」とか口々にいいながら、拍手してくれていた。
私は光流を見上げ、光流も私を見下ろす。
私たちは無言で頷き、脱兎のごとく、店内から逃げ出した。
二度とあのコーヒーショップは使えない。
駅前の使いやすいお店だったのに。
雨宿りに使っていたこともあったのに。
私たちは真っ赤な顔のまま、家に帰り着くと、それでも目を合わせて、笑い合った。
「沙英、今日から頑張る?」
いたずらっぽく、光流が笑う。
「そうね。光流も頑張るのよ。家事、分担制にするからね」
「甘めに指導、頼むよ、奥さん」
「厳しく指導するわよ、旦那さん。その分、他の時に甘くする」
「じゃぁ、……甘いのは先払いで」
玄関先の接吻の雨は、いつかの情熱の熾火を身体の奥に見つけてくれた。