五十二
「わかりました」
あっさりとした返答に、鈴は呆気にとられた。
「理由は聞かないのか」
「はい。」
弥勒は、止まっていた手を再び動かし始め、出発の準備を終えた。
鈴を背負い、落下防止の紐で巻きつけて、この洞窟を後にした。
狸の親子がこちらを盗み見ているのに気づいて、
「棲家を借りてすまなかったな。助かった」
と声をかけた。
狸の親は、子どもを隠すようにして警戒していたが、二人が洞窟から離れるとわかると、子どもをまずは洞窟へと急き立てた。
鈴は狸の目がこちらを見ている間ずっとその親子を眺めていた。
ーーー
「もう、まもなく、西国ですから」
足早に林を進むと、かつて春の夫を葬った峠に出た。
足を止めて、手を合わせる。
弥勒の険しい横顔や、体から伝わる緊張に、鈴は首に回している腕を緩めようとしたが、逆にその手を取られて、定位置に戻された。
しばらくするとまた何も言わずに弥勒は歩き出した。
すれ違う人が増えてきた。
道々、合流するたび、西へと続く道が太くなっていく。
武士も、百姓も、商人も、西国へ行く者、西国から出て行く者、段々と賑やかになっていく。
鈴は、周りを見て楽しんだ。
「休みますか?」
鈴は首を横に降って、ちょうどすれ違った南蛮人を見ていた。
南蛮人を初めて見た驚きはちょっと表せないぐらいの衝撃だ。
ちょうどその時、急に周りがざわついて、誰かの避けろという言葉に皆で街道から道を外れた。
すると、戦仕立ての武士が何十人も馬で駆けて行った。
そのあとを、足軽たちが走り抜けていった。
弥勒はこの人垣の一番後ろに、小さく隠れた。
「なんや、残党狩りやて」
「ほな、大将、まだ見つからへんの」
「まあ、そういうことやろな。負かした相手なんぞ、ほっといたらよろしのにな。
首を取るまではあきらめへんねやろ。
ほんま武士はややこしわ。
なんにしろ、早よ終わってもらわな、おちおち商売も出来ひん。」
「戦は嫌じゃ嫌じゃ」
弥勒は街道から外れた小道を急ぎ歩き出した。
小道はあまり人通りがないため、足取りは邪魔されることなく、茅野の屋敷を目指した。
この時、すでに、敗戦の将は山の中を敗走中に殺されていて、戦の決着は人知れずついた。
だが、それが世に広まるにはもう少し時間がかかる。
権力とは、まるで、羽根突きの羽根のように、回し飲みの盃のように、手から手へと一箇所には留まらない。
誰が始めた余興かは分からぬが、その余興自体を終わらせない限り、盃も羽根も回り続ける。
今、この時、盃は、羽根は、誰の物なのか。
戦国の世と言われたこの乱世は、形を少しずつ変えて、また新たな争いが起こるのをじっと待っている。
ーーー
茅野の屋敷には夜中に着いた。
突然の訪問であるはずなのに、茅野は弥勒の到着を知っていた。
無事を目に涙をためながらよろこび、また、鈴を歓迎した。
情報を糧とする西国人を侮れないと実感したが、人の良さにその恐ろしさが掻き消された。
こんな夜中でも、贅沢にも湯を用意してくれたので、ありがたくいただくことにした。
鈴はこれまでにも水浴びをしたり、体を拭いたりはしていたが、久しぶりに湯につかることができ、うれしかった。
背を流す下女には早口の関西弁であれこれと言われたが、北方のゆっくりとしたなまりでしか話したことがない鈴にとっては、なにやら呪文やわらべ歌を聞いているような気もして、まともに返答できなかったが、その明るい下女の様子を楽しんだ。
清潔な着物に手を通すと、人心地つき睡魔との勝負になった。
ようよう、二人の下女の手を借りながら部屋に連れて行ってもらうと、そこにはすっかり着替えも済み、さっぱりとした弥勒が板戸の側に控えていた。
「もう、ここでいいです」
下女から手を離すと、よろめく刻も与えずに、弥勒は鈴を抱き上げた。
延べてある床に鈴を連れて行き、やさしく降ろすと、すぐに掛布を鈴に着せかけて、横になるようにと促した。
「今日はとにかく、お休みください」
「弥勒も」
「私は宿直を」
「弥勒こそ休まねばならぬ。」
「いいえ」
「弥勒が休まぬなら、私も起きている」
弥勒は、深い深いため息をつくと、鈴の床の近くに寝ころび、
「これでよろしいですか」
と言って、目を閉じた。
鈴は、自分も横になり、目を閉じた。
「旅をしているとき、弥勒がずっと背負ってくれたし、眠るときも一緒だったから、こうして離れて眠るのは不思議な気がする」
弥勒は優しく微笑んで、鈴の手を取った。
鈴は驚いて弥勒を見たが、弥勒は手を握ったまま仰向けに寝転んでいた。
「こうして、手を握っております。
安心してお休みください」
鈴は気恥ずかしいような、嬉しいような落ち着かない気持ちで握られた手を見ていたが、その温かさと、安心感にやがて体の緊張が解けて、眠りについた。
弥勒は弥勒で、自分の背や近くから鈴の体温が消えたことに、寂しさが募っていたので、たかが手を握るだけでも、ここに生きて、鈴がいるのだという事に安心して、同じように眠りについた。




