四十五
山越えを選んだのは正解だった。
幸いにも草の者や、野武士の類、落ち武者狩りなどの荒くれ者に出くわすこともなかった。
極めて静かに、時々獣の気配を感じて危機をその都度回避しながら、隣国の国境を目指した。
川の上流から、小山を抜けるとおおむね安堵して良い場所まで来ることができた。
思ったよりも早くにここまでたどり着いたことに、ほっとするも、この情勢での両国の国境の手薄さに少々首をかしげた。
弥勒の視界に入ったと思ったそれは、一瞬ののちに、左腕をかすった。
――やはり、すんなりとはいかなかったか。
矢が飛んできた方向を確認しつつ、繁みの中に体を縮めこませてそろそろと移動した。
同じところに二本、三本と矢が飛んできて、そこかしこに落ちた。
弥勒は少しずつその場から回り込み、矢を放つ相手を見る事の出来る場所まで移動した。
思ったよりも矢がかすめた傷からの出血が多く、ジンジンとしびれるような熱さを感じている。
血が落ちれば足あとをたどられてしまう。
あわてて、手ぬぐいで腕を縛り傷を圧迫すると、射止めた相手がどこに行ったか見当違いの場所を見回す者に気付かれないようそっとその場を離れた。
ちょうど隣国の国境に入ったので、弥勒は普通なら人が通らないだろう険しい崖から滑り降り、ふもとへと通じる山道の脇へと素早く身を潜めた。
しばらく脇道を少しずつ移動したが、山道を薪を背負った百姓の女がゆっくり下っているのを見て、弥勒は道へと出てできるだけ静かに、できるだけ慌てないように、ゆっくり歩きだした。
なんとなく、人の気配を感じたのだろうか、随分先を歩く百姓の女がふと振り返った。
そうして、弥勒をみて笠を取り、にやりと笑った。
「やはり、この道で来たのね」
春だった。
――――――
少し林が開けた場所まで来ると、春はその辺で見繕った薬草で弥勒の腕を治療し始めた。
「お帰り。大変だったでしょ」
春はなんでもないような言い方で、のんびりと手拭いを裂いた布を巻きつけていく。
「私もね、あの時、この道で来たから、たぶんここで待てば会えると思ってね。」
そうして、流れるような動作でゆっくりと弥勒のわらじを脱がし、その足にまかれていた布を取ると、手早く新しい布を巻きつけ、新しいわらじを渡した。
弥勒は黙ってそれを履き、紐を結びつけた。
春はすっと立ち上がり、後方に目を走らせた。
「弥勒、合図したらすぐに走れる?
道を教えるから覚えて。
ここから南へ下って、街道を横切って川へ行くの。そうして、そのまま川幅の広さが変わるところまでいけば、草が待っている。」
「春殿は」
「弥勒、今日、お鈴様が連れて行かれた。
私はお鈴様に弥勒を待てと言われてここに来た。
弥勒はこのままお鈴様のところへ。
私には、まだここでやることがある。」
弥勒は長槍をぎゅっと握った。
「春殿」
「さあ、行って!」
春が弥勒を押した。
弥勒は春の言ったとおりに走りに走った。
春が行けと言うならば、あとのことは春に任せるしかない。
無事を祈るしかない。
春は草だから。
草には草の戦い方があって、弥勒が介入することは、春の助けにならない。
ざざっと茂みが動くような音がする。
時々金属の音もする。
だが、弥勒は走った。
山を下るのはあっという間で、すぐに街道が見えた。
荷車を押す親子がいたが、構わず横切り、そのまま川までひたすら走った。
――――――
鈴は捕えられていた。
堀川と広次が、鈴の自害を阻止したことは裏目に出て、この国として人質の扱いを検討するためとして家老の1人、畠田によって城に連れてこられた。
城と言っても、国境を守る最前線の場所であるため、櫓ばかりが目立つ小ぶりの城である。
鈴が本当に歩けないことを知ると、牢ではなく、小さな部屋へと押し込んだ。
鈴は、思ったよりも丁重な扱いを受けていることに驚いたが、出された食事もとらず、水も飲まず、部屋の隅で目を閉じたままじっと考えていた。
―――もう、何度も、機会があったのにもかかわらず、今まで少しでも先延ばしにしていたのがいけなかった。
―――弥勒は父に会えただろうか。
父は無事だろうか。
きっと無事だろう。
そして、次の手を考えているだろうな。
弥勒は戻っただろうか。
戻ってももう会えぬから、今更か。
律儀な弥勒は一生懸命走っているだろう。
いや、父がそばに置いて使っているかもしれない。
それも、いいかもしれない。
部屋を見張る者が部屋の中を覗いて、鈴の様子を見て、また、戸を閉めた。
見張りの間隔をつかんできた鈴は、次に戸が開くまでの間隔を考えながら、腰に隠していた懐剣をするりと手にとった。




