四十四
ーー婿とは、なんのお話でございましょうか?
弥勒は佐渡川からの言葉に、しばらく黙って考え、ぽかんとした顔でそう発した。
佐渡川は首を傾げた。
ーーー堀川め、どういうことだ?
「堀川から何も聞いておらんのか?」
「恐れながら。
堀川様に直にお会いしたのはだいぶ前、それもただの一度きりでございますれば。」
「ーーー鈴は?」
「ご息災にございます。
こちらへ赴く前、熱を出しておられましたが、歩く練習に取り組むご様子はとても生き生きとなさっておいでです。」
「歩く、か。
それが叶えば親としてこれほど嬉しいことはない。」
「おそれながら、此度こちらに参りましたのは、隣国はお味方くださるとお伝えするためで、、、」
「よい。
それはわかっている。
そして、それはやはり叶わないであろうこともわかっている。
ーーーそこでだ。弥勒。
お前は、鈴を助けてくれるか?」
「は。おそれながら。
それが私の一生のお役目と心得ております。」
弥勒の即答には佐渡川は満足したが、その言葉には待ったをかけておきたい。
「いや、役目、としてでなく。」
「もしもお役目を解かれたとしても、私の命をかけてお守りしたく存じます。」
命をかけて。
その言葉に佐渡川はようやく満足した。
そして目を細めて、弥勒をじっと見た。
相変わらず大きな身体だ。
その大きな身体を小さく畏まらせて、床に手をついて佐渡川の言葉を待っている。
話すときの柔らかな物腰は、この者の人の良さをそのまま表している。
だが人が良いだけでは、ここまでたどり着くことはできなかったはずだ。
それなりに、世間を知り、危険を知り、生き抜いてきたからこそ成せる技であったのだろう。
佐渡川は、隠し持っていた小さな筆と紙で、素早く文をしたためた。
「弥勒、これより我が佐渡川家は嫡男に継がせる。
密書はすでに渡っているはずだから、儂の隠居はそろそろ知れ渡るであろう。
ただいま長男は我が殿の御側にてお仕えしておるが、この情勢では儂が息子の働きの妨げになるであろう。
このままではこの国は危ない。
それは誰もが分かっているが、世の動きは予測できぬゆえ、この混乱は仕方のないことだ。
今の情勢が変われば、この危機を脱するため、我が息子も働き所を得るであろう。
ある意味、同じ場所を目指した鈴は、この国のために人質を買って出たが、もはやそれは意味のないことになる」
佐渡川は文を折りたたみ、弥勒ににじりよった。
「弥勒よ、鈴は機を見て自らが死ねば、儂が自由に動けると思っていた。
そうすればあるいはこの国を救い、我ら佐渡川家が殿に取って代わる、または取って代わらねばならない事態になると考えていたに違いない。
同盟を結んだとはいえ、親交があるとはいえ、堀川はいずれ我らが攻め滅ぼすことになる可能性ももちろん含んでいた。
そして、もしも全ての予想が外れ、儂が封じられることあらば、それも自害の機となる。
だから、その機を見ることができる鈴が申し出たのだ。
だが、事態は変わった。
もはや、鈴が死んだところで、儂は動けぬ。
そして、この後のこの国の行く末を良き方へと変えることは叶わぬ。
そして、儂は、むざむざと、我が娘の命を、我が一族の命を、一つとして決して無駄に散らしたくはないのだ。
ーーーだから、弥勒よ。
鈴を頼む。」
佐渡川は、弥勒の手のひらに文をギュッと握らせた。
弥勒はそれを捧げ持つと、その機を狙っていたのであろう、佐渡川は弥勒の脇差を素早く掠め取り、鞘を投げ捨てた。
弥勒があっと思った時には、佐渡川は静かに、だが、素早く廊下へと滑り出て、庭先へと降り立った。
一度だけ弥勒を振り返り、行けと、笑った。
最期の所作はこれほどになく美しく、無駄のない、そしてほんの一瞬の刃のきらめきが、佐渡川から命の火を消した。
この国の軍師が、大胆にも自害を遂げたその時を、弥勒は目に焼き付けた。
その場を、こんなに上手く抜け出せたのは何故なのか思い出せないが、弥勒は呆然としながらも、屋敷を後にしていた。
長槍と、この屋敷の主人の旗印を背に、足軽よろしく、兵糧を積んだ荷車を押すのを手伝いながら、外に出ていた。
気持ちや考えがくっきりと形になった頃には、山道を物凄い速さで登っていた。
朝駆けで通い慣れた、懐かしい祠でやっと足を止め、湧き水を飲んだ。
その水は、かつては祠と鈴に捧げる神聖な水であった。
鈴とここへ来た時に初めて口をつけた、思い出深い水であった。
そして今は。
佐渡川の死を悼み、これからを踏み出すための始めの儀式としての水となった。
ーーー私は何をしに来たのか。
ーーー私の脇差が、佐渡川様の命を奪ったこのことをお鈴様にどう告げろというのか。
考えることは山とある。
だが、鈴の元に戻るための道のりはまだ長い。
必ず戻れと言われた以上、何が何でも戻らねばならない。
弥勒は竹筒に水を汲んだ。
そうして、背に背負った少ない荷から新たなわらじを取り出し履き替えた。
何が何でも戻る。
そう口に出して言い、戻るための道をどう進むかを忙しく考えながら、山越えするためにまた険しい山の道を登り始めた。




