四十二
遅くなりました
鈴が眠りに落ちるのを見届けて、その小さな手を上掛けの中に戻してやると、弥勒は静かに部屋を辞した。
編んでおいたわらじを二足袂に入れ、厨で握り飯を作り、静かに厩へと移動した。
馬たちは心得たもので、弥勒の足音を聞いても騒ぎはしない。
むしろ甘えて、柵の向こうから首を伸ばし、弥勒の背中やその首元に鼻先を押し付けてくる。
弥勒はそんな馬たちの首や背をそっと撫でてやりながら、自分の隠し荷が置いてある場所へと歩いていく。
戦となれば威風堂々勇猛果敢に走り、主人のために命を賭す荒々しい馬たちである。
だが、今は。
毎日甲斐甲斐しく世話をしてくれるこの静かで優しい男を、月からをも隠すように、夜の闇に溶けさせてやっていた。
厚手の着物に着替え、旅支度を済ませると、荷を背負い、厩の柱に沿わせて隠しておいた長槍を携えると、厩を静かに出た。
近くにいた一番の仲良しの馬がじっと弥勒を見ていた。
弥勒もその目を見返すと、馬は弥勒の背を鼻先でぐいっと押し出した。
早く行け。
そう言っているようだ。
弥勒が馬を振り返ると、馬はすうっと目を閉じた。
弥勒は荷を担ぎ直すと、厩を静かに抜け、闇に紛れて林に入り、一路街道を目指して一気に走った。
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広次が屋敷に戻ったとき、鈴は熱を出して寝こんでいた。
城から追い出されるように急き立てられ、道中は馬を飛ぶように駆けさせて戻ったというのに、この状況にはさすがの広次も気が抜けた。
あとは足に受けた刀傷が癒えれば全快だと言える春が鈴の看病でそばに控えていた。
盥の水に手ぬぐいを浸し、できるだけ静かに水を絞っているところに、広次が足を清める刻を惜しんで、駆け込んできた。
弥勒は鈴の盥に新しい水を汲んできたところだったが、縁側に腰を下ろした広次の足を清めるのに使った。
鈴が体を起こし、
「こうなると、思っておりました。」
と、小さな声で言った。
弥勒はそっと鈴の肩に厚手の小袖を掛けた。
鈴はゆっくりそれに腕を通し、脇息にもたれた。
「ですが、鈴殿、自害はなりません。
父が許しません。」
「人質ですから、こうなったからには日を改めて磔ですか?」
「いいえ。それもありません」
「堀川殿らしいですね」
春の差し出した薬湯は温かく、器を両手で包むようにして持ち、その熱をじわりと楽しんだ。
弥勒はしばらく鈴の側に控えていたが、二つの盥を持ち上げると、また水を汲みに井戸へと向かった。
井戸の側で腰を下ろした弥勒は、その足元の石をじっと見ながら、戦のことを考えていた。
佐渡川の様子は、春の持ってきた文の通りならばまだ命はあるだろう。
戦局はまずい状況らしいが、佐渡川の戦略を用いるならば、和議に持ち込めるかもしれない。
このままこの国が鈴の国許を助けなければ、間違いなく南の国の勢いはとどまることなく踏み潰しにかかるだろう。
そうなれば、東の国は南の国からの侵略を恐れてこの国を盾にせんと手を結ぼうとするだろうが、すでに西と南の国と良い関係になりつつあるこの国は、東の国とは手を結ばない。
なれば、それを見越して東の国は今こそ立ち上がり、この国に攻め入ろうと考えるだろう。
ーーーお鈴様がもし、自害したなら。
この国は東の国にきっかけを与えることになる。
南の国は、もはや手加減せずに攻め込んで行き、鈴の国許が南と東の戦場となり、周辺諸国を巻き込んでの大乱が繰り広げられるかもしれない。
そうして、高みの見物に洒落込んだ西の国は笑いが止まらないだろう。
自らの兵を動かさずとも、潰しあってくれたならそれに越したことはない。
あらかた終わった頃に平らげに来れば良いのだ。
これは、この国に対しての、佐渡川の大きな賭けなのだ。
お前の国を戦の火で焼きたくなくば、お前の国を安堵したいならば、我が娘の扱いを考えろ。
小さな鈴。
人質に最も適したか弱く、歩くことのできない女子。
だが、なんと大きな布石であるか。
彼女がここに生きていて、そして、この国が動きを間違えなければ、この微妙な力関係の崩れを最小限に抑えておけるのだ。
弥勒は水を汲むと、また鈴の部屋へと戻った。
「お鈴様」
「なんじゃ」
「弥勒はこれにて、佐渡川様の元に行って参ります」
「ならぬ」
鈴は即答した。
だが、弥勒は静かに控えていた。
「お鈴様。
私には難しいことはわかりかねますが、今、佐渡川様にこの国が見限っていないことと、お鈴様の無事を伝えられるのは私しかいません。」
「だが、そなたが無事に戻れるかどうかわからぬのだぞ」
「この戦の世に生まれてきたからには、どこで命を落とすかはわかりません」
「それでも、」
「弥勒はお鈴様の側でお鈴様を守るのが役目ですが、今は、お側を離れることでお鈴様をお守りすることをお許しください」
「、、、死んだら許さない」
「わかりました。たとえ足や腕が切り落とされても戻って参ります」
「首だけになっても、戻ってまいれ」
「それは、また、方法を考えてみます。
ですが、心はいつもお側におりますゆえ」
「私が寝て、朝起きるまでに戻ってまいれ」
「、、、御免」
弥勒は素早く鈴に近づき、手を取った。
驚く鈴が弥勒を見上げると、弥勒はそっと鈴を抱きしめて、そのまま床に横たえた。
弥勒は名残惜しくも体を離し、彼を見上げたまま仰向けの鈴の体に素早く上掛けを掛けた。
「では、お鈴様が眠るまで、ここにおりまする」
鈴はそうっと手を出し、弥勒の膝に握られた彼の手を包んだ。
「かならず、戻ってまいれ。
かならず。」
鈴に手を包まれた弥勒は、反対の手で鈴の手を上から優しく包み、静かに微笑んだ。
ーーーこの温もりが、消えませんように。
お互いに願ったのは、相手の無事だけであった。




