三十六
「弥勒様の手は本当に大きいですねぇ」
ーーーああ、また来ているのだな。
鈴は読んでいた書から目を離して、ここからは見えない庭の方に目を向けた。
弥勒と弥勒に話しかける人の声がここまで聞こえてくる。
近くに住む百姓の親子がこの屋敷に野菜を運びに来るのだが、用事が済むとたいてい弥勒と話をして帰る。
親子のうち、父親は寡黙な方だが、先日、野菜を乗せた荷車を倒して難儀していたところを弥勒に手助けしてもらってからは何かと話をしたがるようだ。
娘の方は若く、屈託のない、とても明るい性格で、この屋敷に出入りするだけあってちゃんと躾られた女子だ。
鈴はまた書に目を戻したが、字が一文字も頭に入ってこない。
外からは甲高い可愛らしい声がしてきた。
「弥勒様、西の川の上流に薬草がたくさん生えているって。こないだ薬草を摘んでたでしょう?だから友だちに聞いて回ったの。」
「それはかたじけない」
「いいのよう。それぐらい。いつも助けてもらってるから、私もなにかお手伝いできたらなって。」
「いえ、私はたいしたことは、、、」
「あ、今度一緒に行きましょうか。摘むのをお手伝いしますよ」
鈴は知らず唇を噛んでいた。
明るく、健康な女子。
良く気がつき、朗らかな性格。
ーーー私にはないものばかり。
鈴はそう思うと、自嘲した。
書棚まで手の力だけで身体を移動させて、書を取り替えた。
そうして、また自分の座に戻ろうと振り返ると、そこから庭が見えた。
弥勒の姿はわざわざ探さなくともすぐに目に入るが、今日は、その傍らに親しげに話す女子が視界に同時に飛び込んできた。
いつも誰にでも丁寧に接する弥勒だが、今日はとても楽しそうで、とても気楽な雰囲気に見える。
鈴は読もうと手にした書を棚に戻すと、急いで座に戻ることにした。
嫌な気持ちでいっぱいだった。
そうして庭から目を離し、少しずつ移動して、なんとか平常心を取り戻そうとした。
だが、不思議なもので、平常心とは意外にもあっという間に取り戻せる。
「弥勒様は力持ちですよね。戦じゃなくて田んぼで働いてくれたらみんな大助かりなのに」
ポトンと、何かが心に落ちた。
ざわめいていた気持ちが急に静かになった。
ーーー弥勒を解放してやらなければ。
今度は落ち着いて庭を見た。
二人をしっかりと目にした。
頭の中は、とても冴え冴えとしていた。




