三十五
戦のない世とは、夢物語の中の話だ。
戦国の世とは、常に、死ぬよりも、生き方を重視する。
常に、死はそこにある。
生とは、死ぬまでに何を為すかを問うものである。
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西国で茅野が物資の調達や大口の注文に明け暮れ、弥勒が戻ってくれたら助かるのだが、と、文をよこした。
弥勒は、その気持ちこそ喜び、また、商人として過ごした年月を懐かしく思い出したが、西国に行く気は全くなかった。
茅野は商人とは表の顔であるが、その采配たるや西の強国のお気に入りである商人の今井と遜色ないほどの商いぶりである。
裏では草のものを使い分け、あちこちに情報網を張り巡らせて、商品とともに情報を売っている。
今は亡き和尚の昔馴染みで、結構な年齢の割には目端の鋭さは若い頃から変わっていない。余程西の水が合っているのだろう。
その茅野が短期間であっても弟子にしていた弥勒を、未だ頼りにしたいとは、何があったのか気にはなるところだ。
だが、弥勒は誰にも何も言わずに文は処分した。
数日後に、春が屋敷から消えた。
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鈴はここ最近の堀川での生活が安定しているせいか、穏やかな気持ちで過ごしている。
弥勒が近くに侍っているのは、考えていた以上に安心できる。
気ままにふるまい、言いたいことを言い、時々はやり込められながら、その絶対的な温かさを心に抱き込んだ。
弥勒の静かな佇まいは出会った頃から変わらない。
最近は鈴との会話に気安さと面白みがでてきたが、それは商人として鍛えられたおかげだろうか。
ただただ、心が休まるのだ。
この、そよ風に頬をくすぐられているような、優しい気持ちになるのだ。
竹筒に冷たい水を入れ、運んできた弥勒は、鈴のそばに座り、お待たせいたしました、とその水を渡した。
竹筒を受け取る時、弥勒の指が鈴の手に触れた。
背負ったり、抱きかかえたり、手を引いたり、馬にともに乗る時は体ごと庇うように触れているというのに、指が触れたぐらいで弥勒はしばらく動揺した。
対して鈴も、なぜか触れられた時に鼓動がどくりと強く打った。
そうして、何も言わぬままでいると、また、何事もなかったように、二人の時は流れだした。
お葉が部屋を訪ねて、広次がやってくると、弥勒はすぐに部屋を辞し、下働きの男の手伝いに行った。
部屋を出て行く弥勒の背中を、鈴はじっと見ていた。
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早歩きで厨のある方へと行き、顔なじみになった下男に挨拶をした。
ここへ来ればやる事はたくさんある。
とりあえず、薪割りをして、水汲みをする。
その合間合間に、頼まれる雑事をこなし、かまどのそばに乾いた薪を運び込む。
力仕事はお手の物だ。
だが、なぜか今日は手が細かく震え、薪をつかみ損ねることが多々あった。
それなのに心は浮きたっていて、その足取りの軽さは仕事をますますはかどらせていた。
そよ風が吹き、弥勒の頬を撫でた。
この小高い場所にある堀川の屋敷の敷地からは、ずっと向こうまで田畑を見渡せる。
初夏の夕日は、田植えの済んだ水田を美しく輝かせていた。
弥勒は仕事の手を止めて、その平和な一日の終わりをかみしめた。
ーーー明日も晴れるだろう。
ーーー明日はお鈴様にこの景色をお見せしよう。
そう、決めると、また仕事に戻った。
弥勒の顔は、本人も知らず穏やかに微笑んでいた。




