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図書館のカウンターに腰掛けて、松本梓は今日も本を読んでいた。中村東吾に出会ってから三回目の日曜日。涼子から聞いた話では機関誌の原稿締め切りが今日だったはずだ。
「今日も来るかな?」
このところ何度も姿を見せては鉛筆を借りに来る中村東吾のことが脳裏をよぎる。
「まあ、まだ早いか」
時計の針はまだ十時を過ぎたところだ。いつも昼過ぎに現れるから、今日来るとしてもそれくらいだろう。
時計から視線を戻して、梓は読書へと戻った。やはり新作は心が躍る。それが待ちに待った作家の本であればなおさらだ。文字を追い、世界を想像していくほど本の中へとのめりこんでいく。ああ、本当にこの人の随筆は面白いなと思う。
午前中の図書館に利用者は少ない。本に魅入られながら、静かな時間が流れていく。だから、気が付かなかった。
「やっぱりね」
カウンター越しに梓の手元を覗き込む女性がいることに。
「よっ。梓」
ついと目を上げると、視線が絡んだ。声の主は国島涼子。どことなく晴れやかな雰囲気が、その表情から見て取れた。
「涼子さん……」
「部室行く前に、梓に会っとこうと思ってね。いい?」
「はい。それは大丈夫なんですが、どうしたんですか改まって」
涼子がわざわざ会いに来るなど、サークル勧誘と機関誌設置の時以来だ。何事だろうかと考えてみても、思い当たる節がない。
「うん。ちょっとね」
涼子は鞄を開けると、そこから一枚の手紙を大切そうに取り出して、梓の前に静かに置いた。
それを目にした梓が息をのむ。
「これ……!」
拾い上げ、手紙と涼子を交互に見る。国島涼子は申し訳なさそうに微笑んでいた。
「こういうのは、直接本人に渡した方がいい」
信じられない。これがまた戻ってきてくれるなんて。
「……そっか。あれは涼子さんだったんですね」
「うん。図書館の東吾の本開いたらこんなの挟まってるんだもん。……あの時は驚いちゃった」
涼子の目線が再び梓の手元に落ちる。そこには純白の本が携えられていた。
「ごめんね? 私が取らなかったら、ちゃんと東吾に――」
――届いていたかもしれない。
そう続いたであろう言葉の連鎖を、梓はふるふると断ち切った。
「それは違いますよ、涼子さん」
決然と言い切る。
「涼子さんがこれをそのままにしておいてくれたとしても、東吾さんは多分、これを見つけることは無かったでしょう。そしてそうだったとしたら、この手紙は東吾さんの本と一緒に閉架送りになっていました」
図書館の閉架は、図書委員の梓であっても立ち入ることは出来ない職員専門のエリアだ。日々必要に応じて閉架から本が呼び出されることは常だが、タイトルはおろか、著者名すらない東吾の本が日の目を浴びることはもう無いだろう。
もし彼女が手紙を抜き取らないでいたら、今頃この手紙もそのまま閉架へと吸い込まれていた。梓がここに託した気持ちごと、闇の中へ。それを奇跡的に免れて今、梓の元へ舞い戻ってきたのだ。もう帰ってくることは無いと思っていた夢の原点が。
「涼子さんが守ってくれたんです。私の想いを」
涙が溢れてくる感覚がした。
ああもう、どうして自分はこう涙もろいのだろう。最近なんだか泣いてばかりいる気がする。白い本の作者が東吾だと分かった時も、自分の名を東吾に告げた時も、今だってだ。
梓の目から流れ落ちようとする雫を、涼子がそっと拭い取った。
「泣くのは、それをちゃんと東吾に渡してから」
涼子に言われて何とか涙をこらえる。それでも流れた分は、涼子が優しく拭ってくれた。
「一つだけ、聞いていい?」
「はい、なんでしょう?」
「どうして私だって分からなかったの? あの時は」
「……あの時は、自分でもまだ、慣れてなかったから」
それを告げると、涼子は納得したような顔になった。
「なるほどね」と。目の前の優しい上級生にも、似たような経験があったのかもしれない。
うんと頷いて、涼子は表情を引き締めた。
「それじゃあ、私そろそろ行くね。東吾は多分、夕方くらいかな? そのくらいには来ると思うから、梓、待っててやってね?」
「ええ、もちろんです。渡さなきゃいけませんから、今度こそ」
「うん。しっかりね」
梓にエールを送った国島涼子が、軽やかに身を翻す。が、
「あ、そうだ」
すぐにまた梓に向き直った。
「東吾が来たら、一つだけ聞いておいてほしいんだけどさ……」と。
涼子の願いの内容を聞いて、梓はしっかりと頷いて見せる。その質問は、梓自身も投げかけたいと思っていた。
「わかりました。……東吾さん、答えてくれるといいんですけどね」
「大丈夫。今の東吾なら、ちゃんと答えてくれるはずだから。最近楽しそうなんだよね、あいつ。ま、私もだけどさ。……それじゃ、よろしくねっ」
それだけ梓に託すと、涼子は今度こそ振り返らずに図書館を後にした。
時計を見る。まだ昼にも差し掛かっていない。
梓はそっと手紙を仕舞い込んで、またゆっくりと読書に戻った。




