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7

 ――胸が熱い。

 東吾が去った部屋の中で、涼子はそっと自身の胸元をおさえた。心臓がどくどくと高鳴っている。

 幼馴染の復活がうれしい、というのももちろんある。しかし何よりこの胸を高鳴らせるのは、中村東吾と戦えるという現実だった。

 初めて藤森の図書館で東吾の小説を読んで以来、負けん気ひとつで進んできた。東吾にもできるのだ。自分にだってと、そう思ったあの時から。

 国語だって算数だって音楽だって、涼子はいつも東吾よりも上だった。おねぇちゃんだった。教えてあげる立場だった。だから東吾の小説がすごいと思ったとき、自分にもこのすごいものができると、大いなる勘違いをしてしまったのだ。

 書いた。書きまくった。そして書けば書くほど、彼女は中村東吾がいかに天才であるかを思い知った。

 東吾の書き方を真似し、あるいは借りた小説の書き方を真似し、涼子は勉強に勉強を重ねて書き続けた。しかし、届かなかった。東吾にはいつか読んでくれと言うだけで、彼に見せられるような作品は一本も仕上がらないまま。語彙や技法は絶対に自分の方が知っているのに、なぜだろう、東吾の小説の方が何倍も面白くて仕方がなかった。

 そうか、根本の発想力が決定的に違うのだと、早々に自覚した。中村東吾は自分に無いものを持っているんだと。

 それが悔しかった。

 書いても書いても追いつけない。小さくなっていく幼馴染の背中。鋼鉄のスニーカーを改造して改造して、それでも突き刺さってくる茨の道を、颯爽と駆け抜けていく裸足の天才。いったい彼の頭の中はどうなっているのだろうか。どんな夢を見ているのだろうか。

 もし、覗き見ることができたなら。

 もし、中村東吾の夢を覗き見ることができたなら。

 そう願ってやまなかった。心の隅々、意識の深層に至るまで、一点の曇りなくそう願った。

 そんなある日、彼女は夢を見た。はっきりと覚えている。

 当時放送されていた戦隊ヒーローが怪人と戦っている夢だった。ヒーローが怪人を追い込んで、さあいよいよ怪人が巨大化するぞというクライマックスの直前で、一人の少年が現れるのである。そして息も絶え絶えの怪人を庇うように立ちはだかり、こう叫んだのだ。

「涼子ちゃんをいじめるな!」と。

 そこで目が覚めた。それが東吾が見ていた夢だということにはすぐに気が付いた。

 なんて失礼な夢だろう。今思い出しただけでも笑いが込み上げてくる。

「怪人かよ私……」

 目が覚めてそう独り言ちたのは言うまでもない。

 それが契機だった。彼女は力を得たのだ。秘密の力を。

 他人の夢を盗み見て着想を得ていく。文章技巧には自信があったし、あとは発想だけと思っていた彼女にとって、それは正しく幸運だった。涼子は何度も東吾の夢を見て、そこからいくつもアイデアを得た。ただ一つ残念だったのは、そんな作品を夢の本人である東吾には見せることができないということだった。気を悪くさせてしまうと思ったから。

 そんなことをしているうちに東吾が転校し、涼子はなんとなく持て余した気分を晴らしたくて文芸サークルを立ち上げた。結果、機関誌という形ではあるが、東吾にようやく作品を届けることもできた。でも、彼女が持て余した気持ちはちっとも晴れなくて、なぜだろうかとずっと不思議だった。

 それが今解けた。

 この胸の鼓動が教えてくれる。

 涼子は、国島涼子は、自分だけの物語をまだ書くことができないでいたのだ。借り物の力を振るい、ペンを執ってきただけ。でも、それでいいとは思えない。それが鬱屈の正体。

 どくどくと魂が叫ぶ。

 これを逃したら、もう次はないかもしれない。相手は中村東吾だ。

 憧れて憧れて、追いつけないでいる天才。涼子が誰よりも自分の小説を読んでほしいと、そう思い続けている人。その彼が、負けないからなどと宣言をしてきた。

「起きろ、私」

 涼子は自分に言い聞かせて立ち上がった。胸のリズムと同じ速さで歩を刻み、学習机の前へ歩み寄る。机の上には涼子の原稿。今度の機関誌に使おうと思っていたものだ。これもまた、他人の夢のなれの果て。

「私の、物語を」

 原稿を掴み、ゴミ箱へ放り込む。二万三千字。刻まれていた文字は訣別のための(にえ)だ。

 何を書きたいのか。誰に書きたいのか。何のために? 誰のために?

 凡才だっていいじゃないか。書きたいものを書きたいように書くのだ。書きたいものが今目の前にあるのだから。

 自分自身に言い聞かせながら、涼子は机の引き出しを優しく開ける。

 そこには、ずっと昔に仕舞い込んだひとひらの手紙がひっそりと眠っていた。


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