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夜。夕飯の食器を洗い終えて少し、東吾は涼子の部屋の戸を叩いた。その心持はまさしく、宣戦布告を言い渡す使者のそれだ。
「東吾? どうかした?」
涼子はゆったりとした部屋着姿で部屋から顔を覗かせた。
「うん、ちょっとね。ご飯の時に話せなかったことがあって」
そう言えば、涼子は得心したように「ああ、小説の話?」と東吾の意図を汲み取った。
お互い、両親にこの趣味は内緒にしてある。だから涼子が察しを付けたことは、東吾にとって驚くことでもない。
「うん、それ」
短く肯定すると、涼子は東吾に入室を促した。
涼子の部屋に入るのは転校して以来だが、昔と変わらず女の子らしい内装をしている。
「話ってのは機関誌に関して?」
テーブルを挟んで向かい合わせ。国島涼子は風呂上りらしく、茶色い頭髪をしっとりと萎れさせていた。
「まあね。ちょっとだけだけど、僕、また書けるようになったから、その報告がてら」
「ほんと?」
ぱっと涼子の表情が華やいだ。
東吾はこくりと頷く。
「今日、図書館に寄って、そこでいろいろあってね」
あの後、ラクシュメイアの存在を他人に告げるのはどうだろうかと、ラクシュメイア本人に尋ねた。彼女がほかにも多くの藤森学園生と関わりがあるのなら伏せる必要もないが、逆に関わりが少ないのなら、その存在を語れば東吾が奇異に見られるのは明白だ。そのあたりの処し方を聞くと、ラクシュメイアは至って分かりやすい基準を提示してくれた。
――お主の力を知るものくらいに留めておくのが賢明じゃの、と。
要するに、東吾の語りを信じてくれる人間だけにしておけということだ。ということは、転校生の身分でそれに該当するのは幼馴染を置いて他にはない。宣戦布告とともに、彼女にだけはラクシュメイアとの出会いを打ち明けておこうと、東吾は考えていた。
「図書委員に松本さんって子がいてさ」
「ああ、梓に会ったの?」
「知ってるの?」
「まあね。梓が図書委員になったのってあの子が中等部に上がったのと同時だから……、そっか、ちょうど東吾とは入れ違いか」
ということは、松本梓は東吾の一つ下の学年ということになる。
「図書館に文学少女よ? 誘わないわけにはいかないと思ってサークル誘って以来の付き合いなのよ」
「ってことはあの子もメンバー?」
ならば文芸サークルでも顔を合わせることになる。ひょっとしたら例の機関誌に彼女の作品が載っていたかもしれない。
しかし、涼子は苦笑いとともに首を振った。
「すっぱりふられちゃった。図書委員に専念したいんだって。書こうと思えばかけるだろうけど、作り出すよりも出会う方が好きなんだって言われてね。……んで、じゃあってことでうちの機関誌を図書館に置いてもらってたりするわけね。だから、梓とは結構前から面識はあるのよ。仲もよくてね。……っと、腰折っちゃったね。それで? 梓がなんかしてくれたとか?」
梓の話を聞きながら、そういえばあの時、彼女はどうして泣いていたんだろうかと今更ながらの疑問が東吾の中にちらついた。その謎を胸に抱えながら、東吾は話を本筋に戻していく。
「いや、松本さんがってわけじゃなくて、あの子が貸してくれた鉛筆がね」
もっとも、彼女がいなければそもそも写本しようなどどは思わなかったかもしれないのだから、元を正せば彼女のお蔭といえるのかもしれないが。
「鉛筆?」
腑に落ちませんという表情が返ってきた。当り前だろう。
「うん、鉛筆。その鉛筆が、僕みたいなおかしな力を持ってて――」
信じてもらえるだろうか。一抹の不安が東吾の中を駆け抜けていく。怪訝そうな顔のままこちらを伺う涼子に、東吾は告げる。
「その鉛筆、ラクシュメイアって言うんだけど」
瞬間、国島涼子の瞳が大きく揺れた。そして唐突に振り返り、部屋に据えられた己の学習机を凝視する。
「涼子ちゃん?」
呼べばハッとしたようにその視線が東吾に返ってきた。その表情が明らかな驚愕を湛えている。
「もしかして、涼子ちゃんも彼女のこと知ってる?」
「あ、ああ、ええと……」
問えば口ごもり、沈黙する涼子。
なんだこの反応は。想像もしなかった涼子のリアクションを前に、東吾は唖然としたまま彼女の声を待つことしかできない。
何秒待っただろうか、何事かを思案する風に黙り込んでいた涼子は、やがて思考を払い飛ばすようにかぶりを振った。東吾から顔をそむける。
「ううん、知らない。ちょっと勘違いしただけ」
あからさまに嘘をついている態度だった。
ただ、東吾はそれに突っ込むことはしない。長年の付き合いだから分かるのだ。踏み込んでほしくない距離というやつが。
「そう、そっか。うん。……まあ、とりあえずさ、そのラクシュメイアって鉛筆にいろいろ言われて、少しだけだけど取り戻せた感じがするんだ」
涼子もあの鉛筆に心当たりがあるなら話しやすい。東吾はラクシュメイアのことを打ち明けた後に、ついに機関誌のことへと言及を始める。
「でさ、涼子ちゃん」
東吾の空気が変わったことに気が付いたのだろう。顔を逸らしていた涼子が、再びその目を東吾に向けた。
「今度の機関誌なんだけど、書くからには負けないよ、僕」
真っ直ぐに涼子の瞳を見据えて東吾は言う。
「涼子ちゃんやサークルのみんなが落ち込んじゃうくらいのやつ書くから……、僕以外の作品、霞んじゃうくらいのやつをさ。だから――」
だからさ。
「全力でかかってきてよ」
原稿の締め切りまで、あと三週間。東吾と涼子の決戦の火蓋が、この時切って落とされた。




