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 机に向き直った東吾は、梓から借り受けた鉛筆を手に、再びノートを広げた。難解なSF小説を傍らに置き、鉛筆を走らせていく。読みづらい文章というのは、書き写すのにも殊更に気がいる。何度も原本に目を移しながら少しずつノートに文字を落とす。

(なんとまあ、汚い字じゃの……)

 ふと呆れられた。

「ほっといてよ」

 よく言われることだ。自覚もある。文字の汚さから、あまりノートを人に見られたくないというのが、東吾の密かなコンプレックスであったりもする。だからと言って直す気もないのが中村東吾の悪癖である。

(もう少し丁寧に書いたらどうじゃ? これでは後から読むにも一苦労であろう?)

「そんなことないよ。自分の字はちゃんと読めるから――って」

 そこまで話して脳梁に雷が落ちた。顔を上げ、あたりを見回す。付近には誰もいない。ただただ本棚と机が配された図書館の姿が広がるばかりだ。

(何をきょろきょろしておる。早う書かぬか)

「待った待った待った。え? え? なにこれ? 幻聴?」

 東吾以外に誰もいないはずなのに声が聞こえるとはこれいかに。

(違うの。妾が語り掛けておるのだから、お主の頭がどうにかなったわけではない)

「はい? どういうこと?」

 思考が追い付かない。鼓膜が揺れる感覚とは違い、頭に直接響いてくるこの感じが奇妙だ。

(そんなに戸惑うこともなかろう? 人以外が人語を解するのがそんなに意外か? 狭量な男じゃの)

「人以外って……」

 そう言われて、東吾の目が握った鉛筆に向いた。するとその声は機嫌よさそうにトーンアップした。

(ふふ、そう見つめるな。照れるではないか)

「いや、え? 鉛筆?」

 信じられないといった表情で東吾は鉛筆を凝視した。

(く、ふふふ。驚いておるの)

 その声は面白そうに笑った。驚くに決まっている。どんな超常現象だ。

(すまぬの。驚かせた。まあ無理もなかろう。妾が語り掛けるなどなかなかあることではないからな。……妾の名はラクシュメイア。今はこの鉛筆に宿りし文筆の女神ぞ。妾と出会えたことを光栄に思うがよい、中村東吾)

(僕の名前……、なんで……?)

 頭の中で問うてみれば、それだけで相手にも伝わるらしい。ラクシュメイアと名乗った鉛筆は(簡単なことだ)と東吾の問いに答えた。

(先ほど受付の嬢ちゃんのところで名を書いたであろう? その汚い字で。見ておったからの。その時に覚えただけのことじゃ)

 こともなげに言うラクシュメイア。そういえば、あの時はボールペンを借りていたなと東吾は思い出した。

(ひょっとして、あの時のボールペンも喋ったりするの?)

 すると、彼女はあからさまにため息をついた。

(そんなわけなかろう。妾のような高位の存在が、そんなあちこちにおるものか。それとも、お主は妾のような者たちにそんな頻繁に出会うのかや?)

(いや、そんなことないけど)

 それどころか鉛筆が喋るなど人生初の経験だ。

(そうであろう? そうでなければ、あれほどに驚くはずもなかろうしの)

 東吾の驚きがそんなに面白かったのか、ラクシュメイアはまたクツクツと笑った。

(まあもっとも、妾が憑依さえできれば、あのボールペンから語り掛けることもできるがの)

 であれば、そうでなくてよかった。あのタイミングで話しかけられていたら、梓に更なる醜態をさらすところだ。何の文脈もなく突然驚き始めるなど、想像しただけで頭が痛い。

(さて、それはよしとしてお主、なぜ写本なぞしておるのだ? そんなことをせずとも、お主には十分すぎる筆力が備わっておろう?)

(そんなことないよ。僕なんてまだまだ)

(謙遜するでないわ。お主、あの小僧であろう? 少し前までちょろちょろここに忍び込んでは自前の本を棚に並べておったあの)

 そのことまで知っているのか。

(妾の目は欺けぬ。まだ荒削りではあるが、お主は天才じゃ。そのお主が写本なぞ、何の意味がある?)

 文筆の女神とやらにそこまで言われるのは、本来ならば誇らしいことなのかもしれないが、今の東吾にとってそれは叱責の響きに聞こえてならなかった。

 思い出すのはあのイマイチな原稿だ。書くことに息苦しさすら感じた苦悩の一本。

 今の中村東吾は、書けないでいるのだ。


(スランプじゃと?)

 陥った現状を打ち明ければ、ラクシュメイアは訝しむような色をその声に乗せた。写本を進めながらの会話というのも悪くはないものだ。

(うん。急に書けなくなっちゃって。今までこんなことなかったのに)

 目の前にある文章を書き写しているだけなのに、何度もペンが止まるのは果たして、この本が難解であるからか、ラクシュメイアが語り掛けてくるからか、それとも、今の東吾が書けないでいるからなのか。

(その機関誌を出すという文芸サークルというやつはあれかの? 涼子が主催しとるところか?)

(うん。そうだけど。知ってるんだ。涼子ちゃんのサークル)

(まあの。あのサークルがまだ部室を持たなかった頃、あやつらはよくここを使っておったし、涼子は今でも時折顔を見せておるしの。それに、あそこの機関誌はこの図書館にも置いてあるゆえ、メンバーの作品も一通りは見知っておる)

(なるほどね)

(お主こそ、涼子と知り合いとはの)

(幼馴染ってやつだよ。前に藤森にいた時には一緒にここへ来たこともあったんだけど)

 確か四冊目の本を書き上げた時だ。例の本棚に自分の本が並んでいるところを誰かに自慢したくて、東吾は涼子を連れてあの場所に案内したことがあった。当時の涼子に執筆の趣味はなく、図書館に行くことに乗り気ではなかったみたいが、東吾の本を見てその態度をがらりと変えた。

 よく覚えている。その日をきっかけに、国島涼子がペンを執るようになった。

 ただ、彼女が自身の作品を東吾に見せたがらなかったため、彼が涼子の作品を読んだのは先日送られてきた機関誌が初めてであったが。

(ふむ、そうであったか。それは気づかなんだわ。……ところで、そのスランプの件、涼子には伝えたのか? あやつのサークルで書く以上、それは言っておくべきだと思うのじゃが)

 なんだろう、今、話を逸らされた気がする。

(ああ、そのことは問題ないんだ。涼子ちゃんにはもうバレてるし)

(バレている?)

(機関誌の原稿、涼子ちゃんもう読んでるんだよね。で、イマイチって。小手先だけで書いてる感じがするってさ。ズバリ言われちゃってるんだ。展開も伏線もうまいのはうまいけど、それだけだってね)

 心に突き刺さっているセリフだ。昨日なんて眠りに落ちるその瞬間までその文言が頭の中をぐるぐる回っていた。

(ほう、涼子がそんなことを言ったのか。……なるほどの)

(何がなるほど?)

 問いかけると、ラクシュメイアはしばらく沈黙を貫いた。それは、ラクシュメイアがただの鉛筆に戻ってしまったのではないかと疑うくらいに深い沈黙で、文字を走らせていた東吾の手もついつられて止まってしまう。

(……東吾)

 何か話しかけようかと思案しかけたところでようやく声が返ってきた。力強い響きで、である。

(勝て)

 ところが、その言葉は東吾の問いに答えるものではなくて。

(なんだよ急に)

(その機関誌とやらで、涼子に勝て)

 藪から棒なことを言う。そもそもあの機関誌に勝ち負けなどない。

(なに言いだすのさ。勝つもなにも、機関誌は別に勝負じゃないし)

(ならば宣戦布告でもなんでもすればよかろうが)

 是が非でも東吾と涼子を対峙させたいらしいラクシュメイア。

(どうしてそこまで勝負に拘るのさ?)

 この問いには、間髪入れずに答えが返ってきた。

(それがお主の成すべきことだからじゃ)と。

 なんのことやらである。

 東吾に疑問を呈させる時間を与えることなく、ラクシュメイアは語りを続ける。

(東吾、教えてやろう。お主のスランプの原因、それはの、“恐れ”じゃ)

(恐れ?)

(然り。お主、涼子らの機関誌を読んでどう思った? いまひとつだと、そう思ったのではないのか?)

 その言葉を刺された瞬間、東吾の鼓動がドクリと震えた。その通りだ。その時初めて読んだ涼子の小説も、他の面々が書き上げた作品群も、軒並みそろってつまらなかった。決してヘタクソというわけではない。ただ、自分ならばもっと面白いものが書けるという確信が東吾の中で波紋したのだ。

(そして今、お主はその連中の中に組み込まれようとしておる。失望の次に恐怖を味わっておることだろうの。そこで結果、迷うておるのだ。書くか書かざるか。自覚があるかは知らんがの。お主を失望せしめた連中の内でただ一人、お主のみが傑作を書き上げてしまえば、他の連中に挫折を味あわせてしまうやもしれぬ。そのことを恐れ、迷うておるのや。そしてその輪の中で、自分までもが連中の程度に染まってしまうことをの)

 ――ガラパゴスという島があるじゃろう?

 と、語り続けるラクシュメイアは唐突に言った。

(え? ああ、うん。進化論で有名な?)

(然り。孤立しているがゆえに独自の生態系を持つに至った孤島ぞ。差し詰め、お主の筆力はそれじゃ。これまでどの集団にも属さず、どの随筆にも感化されず、ひたすらに己の才覚を磨き続けて今に至っておるはずじゃ。そのためにお主はお主独自の文筆形態を獲得しておる。これがどれほど希少なケースか分かるかえ? 何ものにも頼らず、自分自身で才能を開花させることができる人間は少ない。まさに天性の才能といえよう。それを成したのがお主じゃ)

 べた褒めというやつをここまでさらりとやられたのは初めてだ。

 ラクシュメイアはそこで一拍おいて、評価の矛先を転じた。

(対して、涼子らの文筆は凡人のそれじゃ。既存の要素を組み合わせた継ぎ接ぎの創作。偉大な先人たちから盗み出した技巧を駆使して作り上げた、アーキタイプのキメラでしかない。言ってしまえば……)

 長く話していた文筆の女神は、そこでようやく言葉を切った。東吾の意識を引き付けるようなわざとらしい閉口。二、三秒の沈黙の後に、ラクシュメイアはまた声を響かせた。

(言ってしまえば、展開も伏線もうまいのはうまいが、それだけの小説。小手先だけの小説じゃ)

 言葉の後ろにニヤリという擬音語が付いていそうな言い方だった。

(それって……)

 脳裏に涼子の顔が浮かんだ。書くことに熱を上げて、サークルまで立ち上げた少女。

(誰しも自分に無いものは見えんからの。おそらく、涼子も同じことで悩んでおるのだろう)

 そのくせ、人は自分に無いもの見たがるのだ――と、ラクシュメイアは付け加えた。

(よいか東吾、これはお主らにとっての試練じゃ。ここでお主が書けないようならば、涼子共々長いトンネルに入るじゃろう。それは妾とて望むところではない。お主にも涼子にも、文筆を好んでいてほしいと願うからの。文筆の女神として当然な。……だから勝て。打ち負かせ東吾。そうしなければお主らは進めぬ。苛烈な(いくさ)のあとの荒涼な大地でしか見えない景色が、お主らには必要なのだ。馴れ合いではなく、戦友(とも)としてな。涼子もうすうすは気付いておるはずだ。そしておそらく、心のどこかでそれをお主に期待しておる。だからこそ招き入れんとしておるのだ)

 そこまで言ってようやく語り終えたのか、ラクシュメイアは今度こそその饒舌を閉ざした。

 つまり、なんだ、東吾が涼子らと戦うことで彼女の道が開けると、ラクシュメイアはそう言いたいらしい。そしてその筆力が東吾にはあると。

 しかしである。

(言いたいことは分かったけど、その、そんな簡単に書けるようにはなれそうにもないっていうかさ。なんていうの? その書き方が取り戻せたら苦労しないっていうか)

 要するに書けない現状を如何ともしがたいのである。

 弱気を漏らせば、意外にもラクシュメイアは口調を和らげた。

(なに、焦る必要はない。ゆっくりと取り戻せばよいのだ。……そうだな、まずは手始めに……、ふむ。東吾、初めて本を書いた時のことを思い出せ。無知で無垢だったころのお主をの)

(初めての時?)

(然り。そもそもお主は、なぜ書こうと思ったのだ?)

 問われて、思い出す。夏の日差しとクーラーの匂い。母が準備する朝食の香りが、鼻孔をくすぐった気がした。

(戦隊もののヒーローがね、好きだったんだ)

 記憶の海に意識を沈めて、東吾はあの瞬間へと回帰した。


 小さなころ、戦隊ヒーローが好きだった。日曜日の朝、決まって放送される戦隊ものが好きで、東吾は毎週それを楽しみにしていた。ヒーローが戦う中で、もしそこに自分が居合せたらどんな風に戦うだろうかと、様々な想像を膨らませながら彼は放送を楽しんでいた。想像を膨らませて膨らませて……、そんなある日の日曜日、ああもうどうにかこの話を作りたいと、そう思った。あいにくと絵はヘタクソで、漫画を描くという可能性は無い。できることといえば字を書くことくらいで、ならばと東吾は筆を執った。書いて書いて書いて。中村東吾の処女作は勢いのままに二週間で脱稿の時を迎えた。

 今思えば滅茶苦茶な出来栄えだったが、それでも、書き上げた時のあの感動は本物で、今なお心の中でピカピカに輝いている。

 そしてあの日、ハチャメチャな処女作が出来上がったあの時、中村東吾は思ったのだ。これが本屋さんに売っているような本になったら、どんなに素晴らしいだろうかと。一点の曇りなく、心の隅々までその思いに満たして、願ったのだ。

 ――それは、忘れえぬ瞬間だった。

 手にしていたノートからぼわりと、手品のように白煙が上がり、それが霧散したその時、東吾の手の中に純白の本が収まっていた。


(うん、だから、この力があるならもっと書こうって。書いて、本にして、それで……)

 回想とともに思い出したのは、彼の力のルーツだった。

(ほう、それで?)

 それでゆくゆくは――。言いかけて、彼は言葉を噤んだ。

(ううん、ごめん、忘れちゃった)

 まだ言わないでおこう。なんとなく、言ってしまえばそのそばから、言葉とともに飛び立っていってしまいそうな気がした。

(ふん、まあよいわ。……それで? 東吾、お主はこんなところで写本なんぞしていてよいのかの?)

 いたずらっぽくラクシュメイアが言う。敵わないものだ。

(ああ、そうだね。ちょっとうずうずしてきたかも……、うん、ちょっとだけだけど)

(今はそれでよい。書きたいように書け。書きたくなるような手助けならば、妾がいくらでもしてやる)

 優しく言ったラクシュメイアの声に背中を押されて、東吾は難解なSF小説をゆっくりと閉じた。


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