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三年前に彼が藤森学園を去ったのは、別に大した理由があったからではない。普通に平凡に凡庸に、親の都合というよくある話だった。ただ、小中高大一貫校である藤森から転校していったという点においては、彼――中村東吾は稀有な存在であった。ばかりか、三年の時を経て再び藤森に編入してきた出戻りとなれば、藤森学園史上を遡ってみてもそうそう前例はないだろう。
去る時にはさしたる理由もなかったが、戻ってきたのには確たる理由がある。理由は簡単。ここでしか見れない将来があると、向こうの学校にいる間に気が付いたからだ。風土、価値観、環境。田舎独特の古き良き枠組みの中で掴めるような将来を中村東吾は描いていなかったのである。
大都会東京の一角、そこに建つ藤森だからこそ手にすることができる可能性があることを、東吾は三年近くの田舎暮らしで思い知った。
戻ってきたのは、薄情で冷淡な都会だからこそ存在する自由を手に入れたかったからだ。
ちらりと、中村東吾は腕時計を見た。時計の針は間もなく午後二時に差し掛かろうというところだった。連絡の通りであれば、そろそろ迎えがやってくるくらいの時間である。
駅前のロータリー、タクシー乗り場のわきに備えられたベンチに腰掛けて、中村東吾はぼんやりと駅前の風景を見渡した。田舎の盆地と明らかに違うのは、やはり視界に山が見えないことだろう。三年前にあの地方に引っ越した時は、町を取り囲む山々から言い知れぬ圧迫感を抱いたことを覚えている。とはいえ、東京は東京。山の代わりに高々とそびえる建築物に囲まれているのだから、圧迫感というところでは大差はないのかもしれない。
田舎ではありえない量の人波が吸い込まれては吐き出されていく六月の駅舎。ロータリーを壁のように包囲するビル群の隙間を、お世辞にも綺麗とは言えない空気が吹き抜けていく。三年前から変わっていない街並みに、東吾はなんとなく安堵した。
帰ってきた。帰ってきたのだ。この街に。
じわじわと実感が込み上げてくる。そしてようやく、あの学び舎にも……。
「東吾!」
帰郷の思いに心を染めていたところに声をかけられた。鈴が鳴るような軽やかな声。どうやら迎えが来たようだ。
声のしたほうへ視線を滑らせれば、懐かしい顔がこちらに向かって手を振っていた。白黒のボーダーシャツにダメージジーンズ。羽織られた黒色のアウターがひらひらと風に揺れる。茶色に染まった髪の毛は、三年前よりも少し長いか。それに縁取られた表情は、まさに満面の笑みというやつだった。相変わらず元気な子だなと思いながら、東吾はベンチから立ち上がった。
「久しぶり。涼子ちゃん」
小走りに駆けよってきた幼馴染に自然と東吾の表情が綻ぶ。
「うん、本当にね」
深々と頷く幼馴染。三年間、メールや電話のやり取りはあったものの、顔を合わせるということはなかった。そのためか、国島涼子は東吾の体をしげしげと観察した。
「……背、伸びたね。前は私と変わんないくらいだったのに」
「まあね。引っ越してから急に伸びてさ。涼子ちゃんは……、ちょっと痩せた?」
スレンダーになったというか、前よりも引き締まって見える。
「ならいいんだけどね。残念ながらそう見えるように服の趣味が変わっただけ。脱いだら駄肉まみれよ。この辺とかさー」
呆れたような声音で言いながら、自らの脇腹をふにふにと揉みしだく。
「夏も近いってのにさ。もー全然落ちる気配ないし。あーあって感じよ」
涼子はげんなりとした顔でがっくりとうなだれて見せる。“頑張って”以外の言葉が見つからない。
「ま、その話はいいとして!」
東吾がなんと切り返せばいいものかと思案しかけたところで、あっさりと話題が切り替えられた。
「東吾、ちゃんと書いてきたんでしょうね?」
目をキラキラさせて涼子が見上げてくる。期待感たっぷりの眼差しを受けて、東吾の胸に些かの罪悪感が生起する。
「うん、まあ、一応は……」
そう、一応は。
歯切れの悪い返答をどう受け取ったのか。しかし涼子は上機嫌に「オッケー。着いたら速攻読ませてもらうからね!」なんて言って白い歯を覗かせた。