再会
短い話何で気楽に読んでやってください。
「……同窓会?」
俺、速水透にメールが届いたのは夏休みが始まってすぐのことだった。何でも、一週間後に中学の同窓会をやるのだそうで、日程が合えばぜひ参加してほしいとのことだった。
「気が早いというか何と言うか、まあ、らしいと言えばらしい、か」
卒業式からはまだ三か月ちょっとしか経っていない。懐かしむとか言うレベルじゃないような気がするが、しかし、こういう行事自体は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。
友人の中にもこういった行事やらお祭りごとが好きそうな奴や、率先してリーダーとして行動しそうな奴は何人かいる。大方そいつらが言い始めたのだろう。
メールは今でもよく会っている中学時代からの、いや、小学校時代からの、といった方が正確か、ともかくそんな友人から転送されてきた。
本文の最後にこのメールの大元の送り主の名前とメールアドレスが記されている。
ふむ、大体予想通りの人物だ。
「悪くないな」
夏休みの予定は全くと言っていいほど決まっていなかったし、その日も特に用事はない。部活があるのももう少し先だ。
「なら参加するに決まってるじゃないか」
参加するとの旨を、メールに記されていた送り主のアドレスへと送る。
確実に来るであろうメンバーはおおよそ想像できる。
さすがにそいつらだけだと『いつも通り』過ぎて特別な感じはしないが、少なくともつまらないということはないだろう。
「後はそれ以外に誰が来るか、だな」
誰が来るのか、誰が来ないのか。どんなふうに変わっているのか、あるいは変わっていないのか。
×××
そして同窓会当日。
地元の焼肉屋へと集まったのは、大体予想通りのメンバーだった。
二十人前後だろうか。まあそれなりに集まった方だろう。
ぞろぞろと店の中に入り、六人ずつぐらいに分かれて鉄板を囲んだ。
そして、この同窓会の主催者が挨拶をするよりも早く各々が肉を焼き始め、なし崩し的に同窓会が始まった。
安い食べ放題の店が出す肉など大したものでは無いが、それほど上等な舌を持っているわけでもない俺にとっては、それは全く問題ではない。
要は食えればいいのだ。
久しぶりというほどでもない再開は大したありがたみなど無いが、みんなが高校の一学期をどんなふうに過ごしていたのかを聞くのはなかなか面白かった。
話題は自然と中学時代の思い出話に移り、今日の同窓会に出席していない人間のことについて好き勝手なことを言い始めるようになった。
「なあ、速水」
そう話しかけてきたのは俺の隣に座っていた友人、平賀だった。
「何だ?」
「緑森って覚えてるか?」
「覚えてるも何も、住んでるのは近所だし小学校の時から一緒だったわけで」
ついでに言うなら平賀とも小学校のころからの友人だ。
故に、平賀も緑森のことを知っているはずだ。
「まあそうなんだが……、あいつ、今はどうしてる?」
「どう、と言われてもな……」
「見かけたりはしないのか?」
「いや、そんなことは無いな。全く姿を見てない」
まあ、あえて彼女のことを話題に挙げるなら、そういう話になるだろう。
……しかし、緑森か……。
確かに全く姿を見ていない。
俺のそんな返答に対して、平賀は少し落胆したような表情を見せた。
「そうか……、ってことは、もしかしてずっとあのままってことか?」
「俺が知ってるはずないだろ。でも、まあ、多分そうだろうな」
「緑森が来なくなったのっていつごろだっけ?」
「九月の後半あたりからぽつぽつと休んでて、多分十一月ぐらいからは本格的に来なくなった気がするな」
緑森真実。
彼女は、いわゆる不登校というやつだった。
引きこもりとも言うのかもしれない。
……いや、学校に来なくなっただけで、実際に家に引きこもっているのかどうかは定かではない。しかし、少なくとも俺は緑森が学校に来なくなって以来、近所、徒歩数十秒、玄関から緑森の家が見えるぐらいの場所に住んでいるにもかかわらず、その姿を見たことはなかった。
「しかしあいつが引きこもりとはね……、そういうタイプの人間が、本当に間近に居たってのが俺はびっくりだよ」
平賀のその言葉ももっともだった。
そう言ったタイプの人間が現実にいることは知識としては知っている。しかし、現実として自分のクラスメイトがそうなるとは思ってもいなかった。
ましてや自分のよく知る人間が、だ。
俺と平賀の会話に、俺の正面で肉を焼いていた木村が入ってきた。
「あいつ、小学校の時は無遅刻無欠席だぜ。確か俺と一緒に、なんか表彰状みたいなのもらった気がする」
木村も俺たちと同じ小学校の出身だ。
彼の言葉に対して平賀がすぐに応じた。
「なるほど、お前の取り得はそれぐらいだからな」
「さりげなくけなさないでくれ」
「いや事実だろ。テストは大体平均点のところを授業態度で底上げして、推薦で高校に言った人間の取り得なんてそんなもんだろうよ」
「何故俺のことをそこまで知っているし」
「お前が昔自分で言ってたことだ」
「よく覚えてんな」
「俺の取り得は記憶力なんでね」
二人のやり取りを見ながらふと思い出した。
そうだ。
緑森も、昔は『ここ』にいた。
男子に混ざって、俺達と一緒にバカ話をして、一緒に笑い合っていた。
暗い雰囲気の人物じゃなかったし、いじめや成績不振とも無関係そうだった。
少なくとも俺はそう感じていた。
そう、傍から見て彼女には、学校に来なくなるような理由が思いつかないのだ。
「どうしたんだ速水、急にボーっとして」
「……いや、なんでもない」
「肉喰わねーなら俺がもらっちまうぞ」
「そうはさせるか」
木村の箸の動きよりも先に、いい感じに焼けた肉を奪い取る。
……まあ、俺が考えても仕方のないことだ。
緑森がどうしていようと、今の俺には関係のないことだ。
今はそんなことよりも、友人との数か月ぶりの再会を楽しむとしよう。
×××
同窓会が終わり数日が経った。
変わっていた奴、全く変わっていない奴、まあいろいろとワイワイと楽しむことが出来た。それ自体にはまったく不満は無いし、むしろ、また近いうちにでも集まりたい。
しかし、そんな楽しさの余韻とは別に、ある一つのことがずっと心から離れなくなっていた。
「……緑森……か……」
自分一人の部屋で、静かにそう呟いた。
あの同窓会の日以来、どうにも彼女のことが頭から離れなくなっていた。
緑森とは小学校のころからの友人だし、家も近くにあることからよく遊んだりもした。あいつの家に遊びに行ったことは何度もある。
……ここで一つはっきりさせておこう。
俺は確かに緑森に対して好意的な感情を抱いている。
好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きだ。
だがこれは、あくまでも『友人として』である。
別に緑森が女性としての魅力のない人間かというと全然そんなことは無いが、どうにも俺は緑森に対してそう言った感情を抱くことが出来なかった。
それはきっと、距離感の問題だろう。
まるで兄妹、いや、姉弟のような関係と言った方がいいかもしれないが、ともかく、あまりにも距離が近すぎるのだ。
当たり前のように傍にいて、あまりにも知り過ぎている。
恋愛なんていう感情を知るよりも昔に相手のことを知り過ぎているから、それ以上踏み出すことが出来ない。
俺と緑森は、恐らくそんな関係だ。
……いや、そんな関係だと、ついこの間までは思っていた。
だが、現実は違った。
同窓会の後、俺は緑森のことをいろいろと思い出してみようとしたが、しかし、予想に反して、俺は彼女のことをまるで知らなかった。
……そう。
何故、緑森真実は不登校になったのか。
今の俺は、その命題に納得のいく答えを用意できない。
小、中学と、彼女の近くに最も長くいた俺ですらそうなのだから、ほかの奴に答えを出せるはずもないだろう。
学校に来ないとい行動をとった彼女に対する周囲の評価は、決していいものじゃなかったと記憶してる。
弱い人間、逃げ出した人間、人生の落伍者……。
そんなレッテルを張り、好き勝手に評価するヤツはたくさんいた。
俺にとっての目指すべき存在、俺の持っているものをすべて持っていて、もってない物の多く持っている、そんな彼女に対する世間の評価は、俺にとっては耐え難い苦痛だった。
だが振り返ってみれば、俺もそんな『世間』と同じような評価を彼女に対して、抱いていなかった、と言えば嘘になる。
ともかく、よく知っていると思っていた緑森真実のことを、実のところ俺は何も知らなかったのかもしれない。
しかし、そうなるとある一つの思いが生まれてくるのが、人間の心というものだ。
『もっと知りたい』。
俺はそう思った。
思ってしまったのだ。
話すことはおろか、顔を一目見る事すらも叶わないような相手のことを、もっと深く知りたいと思ってしまった。
過去の思い出に浸るうちに、もう一度会って話をしたいという思いが強まっていた。
一体何を思い何を考えているのか。
今、一体何をしているのか。
そんなことを少しでも知りたいと思ってしまったのだ。
せめて緑森が、物理的に遠い存在であるならこんなことで悩む必要もなかっただろうが、生憎彼女と俺を隔てる距離は、直線にして数百メートルにも満たない。
手を伸ばし、あと一歩を踏み出せば届く距離。
しかし、その壁はあまりにも厚い。
電話やインターホンに彼女が応じないことは既に知っている。
卒業間近のころ、緑森のことを何とか学校に来させ卒業式に参加させようと、友人と一緒に行動したことがあり、結果としてそれは徒労に終わった。
ちなみにその友人というのは、同窓会で緑森を話題に挙げた平賀と木村である。
まあそんなことはともかく、これだけ近い距離にいながら一切のコンタクトをとれないというのは、とてもじれったいものがあった。
×××
小学生のころ、緑森真実は俺の持っていないものを多く持っていた。
頭脳にせよ、身体能力にせよ俺のことを遥かに上回っていた。
男子と女子の成長速度の差を考えれば無理からぬことだが、しかし、事実として彼女は超えることの出来ない壁だったし、中学生になってからだって成績やテストの点で勝つことは一度たりとも出来なかった。
緑森とはよく遊んだし、その度にいろいろと新しい遊びを教えてもらった。
友達を作ることが不得意な俺が、今に至るまで中学時代の友人と切れずにいられるのは、彼女が縁を繋いでくれたことに端を発するだろう。
そういう意味では、彼女はかけがえのない恩人だし、今の自分の性格や趣味の大部分は彼女の影響によって形作られたものであると言っても過言ではない。
中学生になってからは、一緒に遊ぶということこそ無くなりはしたが、よく話すこともあったし登下校を共にすることも多かった。
緑森真実。
彼女は俺という人間にとって、かけがえのない友人であると同時に、天上に位置する存在だった。
だからこそ、今の彼女がこうして『停滞』していることを、俺は許すことが出来なかった。
彼女にはきっと、何かを為し得るような才能があるはずだ。
俺なんかよりも、遥かに高い能力を持っているはずだ。
なのに何故、こんなところで止まっているのか。
俺にはそれが理解できなかった。
×××
そろそろ夏休みも後半に差し掛かったころ。
まだ時間があると考え宿題には半分ほどしか手を付けていないが、まあ何とかなるだろう。これは慢心ではない。余裕というものだ。
……いや、あるいはただの怠慢なのかもしれないが、そんなことはこの物語の本筋とはまったく関わりがない。
ともかく、残りの宿題のことを考えながら俺は学校から帰ってきているところだった。
夏休みなのに学校? と思う人もいるかもしれないが、何のことは無い、部活動である。
所属は合気道部。
ちゃんとまじめにやっていれば卒業までに初段がとれるそうなので、まあそれなりに緩い感じで頑張っている。
ともかく俺は帰宅途中だ。
そして、自分の家につくその直前に緑森家の前を横切ることになる。
まあ、だからどうしたというわけではないが、しかし、妙に意識してしまう。
いっそのことインターホンでも押してみれば緑森にあえるかもしれないが、会ったところでどうするというのだろう。
特に何か用事があるわけでもない。
お前の顔が見たかった、等と言うのも、我ながらキモイ。
しかしながら、緑森に会いたい動機は本当にその程度のものなのだから、より一層始末が悪い。
……客観的に自分の思考を見ると、とても気持ち悪い気がする。
何とも犯罪的な香りすらする、一種のストーカーのようだ。
まあ、実際に『何かやらかす』までは犯罪者じゃないわけだし、何を考えていようと俺の自由なわけだが、自己嫌悪にすら陥りそうなこの思考はあまり精神衛生上よろしくないだろう。
いっそ忘れてしまえばいいんだが、生憎のところ俺の脳みそはそこまで便利な構造にはなっていないようだ。
そんなことを考えながら歩いていると、緑森の家が見えてきた。つまりは俺の家まであと少しということなのだが、その時、俺の視線はある一点へと、無意識に吸い寄せられていた。
緑森家の玄関、そこから出てくる人物、緑森真実の母親である。
いや、それ自体は別にどうでもいいことだ。
時刻は十三時二十五分。
別に何時、誰が、何処へ出かけようとその人の勝手だし、俺にとってはどうでもいいことだ。
だが、俺はこのタイミングでこの場所に居合わせ、そして遠目に、しかしはっきりと確認することが出来た。
緑森真実の母親が、鍵をかけることなく出かけたのを。
×××
今になって思い出してみるとあの時の俺は、とてもじゃないが冷静と言える状態じゃなかった。誤解を恐れずに言うならば、というよりも誤解など発生する余地もないぐらい確実に、あの時の俺は狂っていたのかもしれない。
いや、そうでなければならない。
あの瞬間の俺が正気であるなどということがあり得るはずもないし、また、あり得てはいけないのだ。
しかし、あの瞬間はある意味では運命じみていたともいえる。
例えば人生において分岐点というものが存在するのなら、それはきっとあの瞬間だったのだろう。
俺の取った行動の善悪に関わらず、それは多くの人の人生に影響を与えるような決断だったと思う。
×××
俺は緑森家の玄関の前に立っていた。
さりげなく周囲を見渡す。
人はいない。
窓からの視線も感じない。
緑森真実の母親が帰ってくる気配もない。
そのことを確認すると、静かに、しかし堂々と一歩を踏み出す。
無意識のまま何食わぬ顔で緑森家の玄関を開け、靴を脱ぎ、勝手知ったる我が家のように階段を登り、ふと気が付いたときには『彼女』の部屋の、閉ざされた扉の前に立っていた。
目に映るすべて、手足を通して伝わる感触、それらは鮮明に過去の幻影を呼び覚ます。
小学生のころ、幾度となく訪れた場所だ。
あの頃の『彼女』の姿を幻視する。
あの無邪気な笑顔を。
そして俺は、この時初めて自分が今何をしでかし、これから何をしでかそうとしているのか思い出した。
「何やってんだかな、俺は……」
こんなことは馬鹿げている。
確かにその通りだ。
俺にはこんなことをしなきゃいけない理由なんてないし、こんなことをしていい理由も存在しないはずだ。
客観的に見ればただの不法侵入のほか何物でもない。
言い逃れの余地なく、ただの犯罪者である。
とは言え、まだ誰にも気づかれていないはずだ。
このまま何事もなかったかのように引き下がれば、俺は元の、今まで通りの日常に戻ることが出来る筈だ。
今までだってそうしてきたはずだ。
他人の問題に、他人の人生に、そうやすやすと土足で踏み込んでいい道理など……。
「ふぅ……」
違う。
そうじゃない。
そんなことじゃないんだ。
俺は今まで何回それを繰り返してきた?
そのたびに何回後悔してきた?
思うだけで、願うだけで、しかし、それだけでは何一つとして変わることはない。
「多分、もう二度とチャンスは来ない」
ここまで来たからにはやることは一つだけだ。
覚悟は出来た。
この先何が起こるかは俺にも判らない。
だが、何一つとして変わることのない『今まで』から確実に動くことだけは確かだ。
それが前進であれ、後退であれ、変化だということに変わりはない。
やらないで後悔するよりは、やってから後悔する方がいい。
多分、今はそういう状況だ。
×××
扉に手をかける。
鍵はかかっていない。
手に力を込め、その扉を勢いよく開け放つ。
冷房によって冷やされた空気が溢れ出した。
「――っ!?」
突然の物音に今この家にいる唯一の人物、この部屋にいた少女は驚き、そして物音のした方、つまり、閉じられているはずの扉の方へと顔を向けた。
そして、その視線の先にいる予想外の人物に驚いたのか、眼を見開いたまま言葉を失った。
まあ、普通は驚くだろう。常識的に考えて。
というよりも、常識的に考えて起こり得ないような状況なのだ。
「久しぶりだな、緑森」
俺はそう言いながら緑森の部屋を見渡した。
閉じられたカーテン、本棚に入りきらずに壁際に積まれた漫画、いくつものゲーム機がつなげられたテレビ、しわだらけのシーツが掛けられたベッド、空になった缶やペットボトル、スナック菓子やインスタント食品の容器、脱ぎ散らかされた服、この薄暗い部屋における唯一の光源であるノートパソコン……。
そして、ダボダボのTシャツに短パンと言う格好の、茶色がかった癖毛を腰のあたりまで伸ばした少女。
この部屋の主。
緑森真実。
「大体一年ぶりくらいか。どうだ、元気にしてたか?」
何とも間抜けな問いかけのような気がするが、生憎気の利いた言葉など思いつかなかった。そもそも、俺にそんな才能は無い。
闖入者の問いに対し、少しの間言葉を失っていた緑森が、掠れる声で絞り出すようにして応じた。
「な、何で……、何であんたが此処に居る、速水!」
まあ、もっともな反応だ。
俺自身、どうしてここにいるのかは、実のところよくわかっていない。何となく会いたかったというだけなら、この部屋の扉を開けた時点で達成されているのだ。
「……お前を、ここから連れ出しに来た」
……今度は少し気の利き過ぎた言い回しだ。そもそも俺はこんなきざなキャラではないはずなのだが、自分で創り出したこの状況に、少々動揺しているのだろう。
そんな俺の言葉に、緑森は声を震わせながら応じる。
「速水には……、速水には、か、関係ないことだろ! い、今更、何を……」
「いや、違うな。さっきのは嘘だ」
まあ、正直に言うほかないだろう。
「な、なら、なんで……」
「緑森、俺は……、ただ、お前に会いたかった。それだけだ」
「はぁ?」
「ただお前の姿が見たかった。ただお前の声が聞きたかった。ただお前と話がしたかった。ただお前に触れたかった。お前が今どうしているのか、ただそれを知りたかった」
「は、速水。お前、い、一体何をいっているんだ?!」
「友人に会うのには、その程度の理由さえあれば十分だ」
「ふ、ふざけるなよ! 何キモイこと言ってやがる! わ、私に干渉するな、私に、こ、これ以上関わるな!」
緑森の返答を聞きながらも、俺は彼女の方へと、さらに一歩踏み出した。
「く、来るな!」
拒絶。
当然と言えば当然の言葉。
「これ以上、こ、こっちに来るな!」
突然部屋に現れた不法侵入者に対する反応としては、あまりにも当たり前すぎるその言葉を、俺はあえて無視し床の上にあるものを踏まないようにして歩を進める。
何故緑森に対して近づこうとしているのか、本当のところ俺自身もよくわからない。
だが、俺の脚は無意識のうちに前へと進んだ。
「し、知ったような口をきくな! お前に、速水に私の何がわかる!? わかるものか! わかる筈がない! も、もうこれ以上、私に関わろうとするな!」
「ああ、わからねーさ、お前の気持ちなんざ、これっぽっちもな! でもな、これだけは言わせてくれ。俺はお前のことを、今でも、かけがえのない友人だと思ってる。お前は、俺にとっての誇りだ。お前という友を持つことは、俺にとって、何にも代えがたい誇りだった。だからこそ信じたくなかった。お前が、こんなところでくすぶってるなんてことを! お前が、こんなとこで終わっちまうのを!」
俺と緑森の関係は、言うなれば『鏡像』だ。少なくとも、俺はそう思っていた。
俺は緑森がこんなところで立ち止まってるのが許せない。
何故?
緑森への嘲笑が許せない。
何故?
何故俺は、そうまでして緑森に干渉しようとする?
『たかが友人』の為に、何故こんなことをしようと思った?
答えは単純にして明快、簡潔にして明白。
同一であり対極、過去であり未来、理想であり現実……。
緑森は、俺の持ちえないものを持っていた。
決して俺が持つことの出来ない才能を。
俺の中にある、直視したくもないような醜さを。
そう、かつての、そして今の彼女は、俺の理想と現実の、その総ての体現者なのだ。
緑森こそが、俺自身だった。
緑森の過去に俺の理想があり、緑森の今に在り得たかもしれない俺がいる。
だからこそ、許せるはずもない。
故に、耐えられるはずもないのだ。
彼女に対する嘲笑、彼女の停滞、彼女からの拒絶。
だからこそ俺は行動した。
緑森真実の、俺自身の生き方の、その正しさを証明する為に。
……いや、違う。
実際のところ、そこまで深くは考えていないのかもしれない。
言うなればただの本能、衝動的な感覚、直感的な行動……。
そう、重要なのは行動であり結果だ。
思考がどうであれ、思想がどうであれ、今俺は、緑森と正面から対峙している。
「俺は――」
「もう――」
「――ただ――」
「――これ以上――」
「――お前のことが――」
「――私に――」
「――」
「――干渉するな!」
絶叫。
緑森が立ち上がり、机の上にあったものを手に取る。
チチチチチ――――。
刃が伸びる。
カッターナイフ。
刃渡り約七センチ。
カーテンを透過した僅かな日光と液晶画面から放たれる光、その僅かな光源を受けて刃が煌めく。
白く細い腕に、華奢で小さな手に握られたそれが、反射的な衝動によって生み出され増幅された『キョウキ』によって俺へと向かって振り下ろされる。
俺は緑森へと向けて一歩踏み込んだ。
「――っ!」
左手でカッターの刃を弾く。
手のひらに激痛が走るが、それは無視する。
そして、踏み込んだ勢いのまま左手で、緑森のTシャツの胸元を掴み、さらに一歩踏み込む。
――カンッ!
弾かれたカッターナイフが床へと落ちた。
それとほぼ同時に、床に、壁に、閉じられたカーテンに、シーツの上に、紅い小さな染みがついた。
腕に力を込め、緑森へと体重をかける。
華奢な緑森がそれに耐えきれるはずもない。
だが、緑森の衝動は止まらない。
緑森の左手が俺の頬へと延びる。
その細い指が、鋭い爪が俺の頬に触れ、その直後、ガリッ、という嫌な音が響く。
痛みが走ると同時に皮膚が抉れ、紅い液体が伝う。
だが、それだけだ。
数秒と持たずに腕力に屈した緑森はベッドの上へと押し倒された。
「――っ、――っ」
背中を打ちつけた緑森が目をつむり咳き込む。
――。
×××
少しの間、突発的な興奮状態にあった私の、そして速水の、その荒い息だけが、薄暗い部屋の中へと反響していた。
「……?」
うっすらと目を開ける。
な、何だ、この違和感……、いや、異質感。
奇妙な感触、掴まれた胸元、その周囲を伝う汗、……汗? 違う。
湿った服のごわごわとした感触、生温かい、鉄の臭い……。
「――ぁあ……」
ち、違う、違うんだ。
そ、そんなつもりじゃなかったんだ。
いや、そんなはずがない、何で? いや、うそ、どうして、え? わ、私が? 私のせい、うそだ。どうしてこんな、だって、だってそんなこと……、水、液体、赤、朱、あか、アカ……。
血。
速水の左手、カッターナイフ、そんな、私が―――――。
興奮が冷めていく。
まるで、脳内に液体窒素を流し込まれたかのように、思考が冷却されていく。
今、何が起こっているのかをはっきりと理解した。
同時に無数の感情が体の奥底から、激流のように押し寄せてくる。
怒り、悲しみ、恐怖、安堵、後悔、嘆き……。
何故?
何故今になって現れたの?
何故私なんかに関わろうとするの?
何故速水は、こんなことが出来るの?
……私は悔しい。
そんな考え方が出来たなら、そんな生き方が出来たなら、そんな風に振舞えたなら、一体どれほど楽だったか。
そんな当たり前が出来たなら、どんなに良かったか。
だから眩しすぎた。
私にとっては。
それはあまりにも遠すぎた。
私の人生と、お前の人生が交わることなんて、もうこれ以上ないと思っていたのに、なのにどうして、どうしてこんなにも希望を与える?!
伸ばせば手が届くと、望めば手に入ると、そんな淡い幻想を、どうして与えようとする?!
私にはそんな資格なんてないはずなのに。
なのにどうして、お前が此処に居る!?
だが、そんな思考とは別に、体が本能的に動き出した。
混濁した感情が決壊し、叫びと涙に乗って流れ出した。
×××
俺は、無言のまま緑森から手を離した。
「痛っ――」
手を開くと、それに合わせて傷口が開き、痛覚が刺激される。
思ってたよりも痛い。
後、傷口が広い、いや、長い、か。
それほど深くはなさそうなので、とりあえず消毒と止血をしておけば大丈夫だろう。
まあ、今はそれよりも、だ。
「……何だ、思ってたよりも元気そうじゃねーか」
泣き叫ぶ緑森に対して、そう呟いた。
「だ、だって、その手、怪我、血、わ、私が――」
「大丈夫だ。大したことはない」
そう言いながら立ち上がり、緑森から離れる。
本当なら、このまま抱きしめて泣きやませたりすると様になるんだろうが、そんなことをすれば、さらに緑森が血だらけになりかねないので断念する。
「とりあえず、傷薬と包帯をもらえると助かるんだが」
×××
「も、もってくる」
直後、バタバタと緑森が部屋を出ていった。
ティッシュを拝借してとりあえず止血。
「……意外とよく切れるんだな、カッターって」
手のひらには真横一文字の切り傷が出来ている。
それほど深くはなさそうだが、いかんせん長すぎる。治るのには時間が掛かりそうだし、何より日常生活にそれなりの支障が出る。まあ、左手だったのは幸いだが。
本当は華麗に攻撃を避け、武器を奪い取ったりしたいところだったが、合気道を習い始めて数か月の俺にはそれほどの能力は無かった。
「とはいえ、自業自得だよな、実際のところ」
無断で人の家に侵入し、その家にいた少女へと詰め寄ったら、カッターナイフで反撃された。そう考えると、緑森にはまったくの落ち度がない。
というか、一方的に俺が悪い。
このまま警察を呼ばれても文句が言えないのだ。
「しかし、ほんとに久しぶりだな、緑森の家に来るのは」
改めて部屋を見渡す。
六畳ほどの部屋の中に、これでもかというほどいろいろな物が詰め込まれている。
床の上に積み重ねられた漫画やゲームは、いくつか俺の知っているものがあった。パソコンの画面に映し出されているのは動画サイトで、そこで再生されていたものは俺が最近見ているのと同じものだった。
「なるほどな……、――!?」
ふと、床に視線を送る。
開き癖のついた読みかけの雑誌、飲み終わったペットボトル、ごみ箱のそばに落ちている紙ごみは、恐らく投げ入れようとして外したんだろう。
そして、脱ぎ捨てられたよれよれの服、いや、服だけでなく下着までそのまま放置されている。
……なんだろう。
この、生々しい生活感溢れる部屋を見ていると、緑森の生活がリアルに想像できるうえに、彼女を女性として意識してしまい、妙な気分になる。
いや、冷静になれ。
変なことは考えるな。
……とりあえず、立っているのも何なので、勝手にベッドへと腰掛ける。
とりあえず落ち着くことにしよう。
……しかし、大きめのサイズのTシャツ、丈の短い短パンやスパッツ、そして白い無地のショーツ、発見できたこれらの衣服から、緑森真実という人間の、普段のコーディネートがおおよそ想像できる。
さすがに、勝手に漁ったりしたわけじゃないし、もちろんそんなことをするつもりもないが、放置された衣服の中から、ブラジャーの存在を発見することは出来なかった。
それはつまり、……まあそう言うことなんだろう。
引きこもり女子のファッション事情なんぞ知ったことではないが……。
……いや待て。
冷静になれ。
これじゃあまるで、俺が下心があって無断侵入してきた変態みたいじゃないか。
確かに無断侵入に関しては弁明の余地はないが、それ以外については完全なる勘違い、誤解によるものだ。
だってそうだろ!?
女の子の下着に興味のない男など、果たしているのだろうか?
いや、断じて下着にしか興味がないとかそういうことではなく、下着姿の女の子、いや、ここはもうむしろ、下着という神秘の聖衣の下に隠された包み隠すことのないその姿の……。
「は、速水、救急箱、もってきた。包帯と、傷薬」
「……ん、ああ、すまない」
この部屋の主、緑森が戻ってきた。
それによって、危うい方へと向かいかけた俺の思考が軌道修正される。
正直助かった。いろんな意味で。
「痛っ――」
消毒した後薬を塗り、ガーゼを当てて適当に包帯を巻く。
やっぱり痛い。
すごく沁みる。
「だ、大丈夫? ……その、……いろいろと、ごめん」
「何でお前が謝る? こちとら斬られて文句の言えないようなことをしたんだ。謝るのはこっちの方だ」
「……どういうこと?」
「お前の家に無断で侵入し、その上お前の部屋へと断りもなく入り込んできたわけで――」
「ちょ、ちょっと待って」
緑森が俺の発言を遮った。
「今、無断で、って言った?」
「ああ、言った」
「私はてっきり、母さんの差し金かと」
「そんな事実はどこにもない」
「……速水、あんたってさ」
「何でしょう」
緑森が、今までにないほどに冷たい視線を向けてきた。
「もしかして、いやもしかしなくても、バカじゃないの!?」
「……否定はしない」
「馬鹿、バカ、大バカ野郎! 一体何考えてるの! 信じられない! 本当に、本っ当に大バカ野郎!!」
「……返す言葉もございません」
「で、何のために、人の家に勝手に入り込んできたの?」
「いや、お前のことを一目見たくて……」
「キモイ! ストーカーか、お前は!」
「ぐうの音も出ん」
自覚はあったのだが、しかし面と向かって言われると、なかなか辛いものがある。
まあ、正論なんだが。
「……ほんとにバカ。昔から何にも変わってない」
変わってない、か。
確かにそうだが、でもそれは、多分緑森の方もだ。
この、遠慮なしの話し方は、間違いなく昔の緑森と同じだ。
「緑森、一つ聞いてもいいか?」
「何?」
……まあ、ここまで来たら聞くしかないだろう。
「単刀直入に言うが、どうして学校に来なくなったんだ? ……まあ、別に言いたくなけりゃ言わなくてもいいんだが」
「別に言ってもいいけど、少し長くなるよ?」
「構わないぜ」
「……中学の時、風邪をひいて休んだことがあったじゃん」
「そう言えばあったような気がしないでもないが、それがどうかしたのか?」
「その時、風邪が治って学校に行ったときに、みんな、まるで変わらずにそこにいて、きっと私が居ても居なくても、このクラスは変わらないんだろうなって。クラスですらそうなんだから、きっとこの世界には私なんかが居なくても、きっと変わらずに存在し続けるんだろうって、そういうことに気が付いたんだ。そう考えたら、何もかもが馬鹿らしく思えてきたんだよ。いったい、自分は何のために何をしているんだろう、ってね」
「だから、なのか?」
「まあ、他にもいろいろとあるんだけどさ。でもそれが、きっかけの一つであはあった。自分が今やっていること、その全部が部だなことのような気がして、何のために学校に行くのかもわからなくて、結局無駄になるならこんなつまんないことをすることに、いったい何の意味があるんだろうって、まあ、そんな感じだよ」
「言っていることの意味、分からないわけじゃないが……、お前、やっぱりすごいやつだな」
「すごい?」
「ああ、すごいやつだよ。だってさ、普通は実行しねーよ。思っていたってさ、そういうことは。本当に学校に行かないなんてこと、普通は選べねーよ」
俺のそんな言葉に対して緑森は声を上げて笑った。
「…………はっはっはっはっは」
まるで、今まで笑い方を忘れていたかのような、そんな笑い方だった。
「……『すごい』か。そんな風に言うとは思ってなかった。そういうところがずれてるんだよ、速水は」
「ずれてる、か。そうかもな、否定はしねーよ。でもな、一つだけ言わせてくれ。……学校は、それほどつまらない場所じゃねーってことだ。人間関係は面倒くせーし、勉強なんてクソ喰らえだ。大量の宿題を出す奴はくたばればいいと思うし、テスト期間が近づくたびに学校がぶっ壊れねーかと願ってる」
「なのにどうして速水は、そんな場所に通い続けているの? まるで時間と労力の無駄使いじゃないか。人生を無駄にしてるとは思わないの?」
「かもしれないな。俺が今までやってきたこと、やっていること、これからやっていくこと、そのほとんどは、きっと無駄なことだ。でもな、楽しいことだっていろいろある。結局はそれだけのことさ。どれだけ無意味でも、いや、無意味だからこそ、楽しければそれでいいってことさ」
速水は少しの間黙りこくっていた。
その間彼女が何を考えていたのか、俺はそのことを推測することしか出来ないが、その表情から、それなりに前向きなことを考えているんじゃないかと思った。
そして、少し時間が経ってから、緑森が口を開いた。
「……なるほどね、速水の言うこともよくわかった。……で」
「で?」
「これからどうするつもり? 侵入者さん。力ずくで私の自由を奪えば、今ならいろいろと好き放題できるとは思うけど?」
それは素敵な提案だが、そんなことをすれば人間としての大切なものを失いそうだ。
「とりあえず帰る」
「え!?」
「言っただろ、お前の顔を見るのが目的だったって。目的は叶ったんだ、もう帰らせてもらう」
×××
「ああそうだ、その服、すまなかったな。いつか必ず埋め合わせをさせてくれ」
そう言うと速水はスタスタと部屋を出て行った。
カーテンの隙間から外を覗くと、ガチャリ、という玄関のドアを開ける音と共に、家から出ていく速水の姿が見えた。
「……とりあえず、着替えなきゃ」
部屋の中をゴソゴソと漁り、着替えを引っ張り出す。
「……あ」
その時初めて、脱ぎっぱなしの物がそこらじゅうに放置されていたことを思い出した。
服やら下着やらいろいろと。
もともと誰かが入ってくることなど想定していない。何がどうなっていようと恥じ入ることなんてないと思っていたけど……。
「……まあ、いっか」
今更速水にそんなものを見られたところで、どうこう思うような感情は持ち合わせちゃいない。
今はそんなことよりも、シャワーを浴びて着替えることが先だ。
他人の血が染みついたシャツを着続けているというのは、何かこう、少々猟奇的な犯罪の臭いがする。
「まさか、こんなことになるとはね」
久しぶりに部屋の外へと出た。
夏場特有の湿度と熱気を浴びて、全身から汗が噴き出てくる。
「こんな理由で、外に出ることになろうとは」
風呂へと行き、洗面所で鏡に映る自分の姿を見る。
「ずいぶんと、変わったな……」
こうしてまじまじと自分の姿を見るのは数か月ぶりだろうか。記憶の中にある自分の姿よりもずいぶんと――。
「痩せてる……、いや、やつれてる、か」
鏡に映る自分の姿を見ながら服を脱いでいく。
痛みきったぐしゃぐしゃの髪、骨と皮ばかりになった隆起に乏しい体、病的なまでに色白い肌……。
いや、そんなことよりも、汗の臭いの染みついた、この全身を上げるべきだろうか。
ともかく、そんな、おおよそ女性的な魅力など欠如した今の自分自身に、ひどく落胆した。
「……!?」
落胆した?
何故?
そんなことなんて、どうでもいいはずなのに。
……ああ、なるほど。
そういうことか。
「……速水、あいつめ」
あまり認めたくはないけど、それでも認めなくちゃいけないみたいだ。
あいつが、今の私にとってどんな存在になったのか。
あいつが私にしたこと。
今、私がこうしていること。
「私を、私のことを変えやがった」
風呂場へと向かい、シャワーの水栓を勢いよく捻った。
冷たい水が勢いよく頭上から降り注ぐ。
とても体に悪そうだが、今は何故か心地よかった。
いつもなら体を洗うのも面倒くさいと思っていた。実際、風呂場に来るのは一週間ぶりだろうか。
なのに今は、とりあえず全身の垢を落として、脂にまみれた髪をどうにかしたいと思っている。
そしたらその後は……。
……そうだ。
面白いことを思いついた。
いろいろと面倒なことはあるかもしれないけど、でも、少しは楽しいことがあるかもしれない。
もしうまくいけば、あの大バカ野郎に一泡吹かせられそうだ。
そしたら見せてもらう。
今までよりももっと楽しいことがあるというのなら、それを私に見せてもらうんだ。
×××
夏休み明け、九月一日。クラスの中にはいつもと変わらない顔ぶれがあった。
「……なるほどな」
緑森の言っていたことが、今ならよくわかる。
俺がどんな夏休みを過ごそうと、このクラスには何の影響も与えることは無いようだし、ましてや、世界なんてこれっぽっちも動いちゃいない。
ただ地球は回り、時間だけが無常に流れていく。
個人の思惑など関係なしにこの世界は存在し続け、例え俺が何をしたところで、何をしなかったところで、大局的には何一つとして変わりはしない。
これほどまでに『当たり前な』クラスの様子を見せつけられると、緑森の気持ちもよくわかるというものだ。
この無力感、何もかもが結局は無駄であるという虚脱感は、絶望にすら値するだろう。
でも、まあ。
だからと言って、だ。
俺が何か行動を起こすということもなく、今日を、そして明日も、その先も、きっと同じような『当たり前』な生活を続けていくんだろう。
体育館での始業式で、校長先生からありがたいお言葉を頂戴した後、教室へと戻り、クラス担任が来るのを待つ。
……少し遅いな。
何か会議でもあったんだろうか。
待つこと数分。
クラス担任が戻ってきた。
「……――っ!?」
その隣に、一人の生徒を連れていた。
教室がざわつく。
そこにいたのは女子。
癖毛が跳ねている茶色がかった長髪。
細く白い四肢。
「みんな静かに。今日から、実はこのクラスに転入生が入る。……じゃあ、自己紹介してくれるかな?」
彼女が口を開いた。
「初めまして」
彼女はそう言うと、一瞬だけ俺の方へと向けてどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
あるいは、そう。
新しい悪戯を思いついた、無邪気な子供のような笑顔を。
……ああ、そうか。
世界なんて、少なくとも、俺にとっての世界なんて、そんなことで変わっちまうのか。
いや。もし、これすらもが定められた運命だというのなら、全てが予定調和だというのならば、今この瞬間ですら何一つ変化など起こっていないのだとしたら、……まあ、そんなことなんてどうでもいい。
これから、きっと面白いことが起こるはずだ。
なら、小難しい理屈なんていらない。
面白ければ、楽しければ、後はもうどうでもいいことだ。
彼女は一息置いた後に、再び言葉を発した。
「緑森真実です。皆さん、よろしくお願いします」
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