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無限沢狩猟集団 路上戦闘記

作者: 木村 瑠璃人

《無限沢》――――それは殺人鬼を狩る狩人、人間でありながら非人間を任じ、闇に埋もれた殺人鬼を狩る狩猟者。

    × × × ×


「――――それが、どうして悪いことになるのですか?」


 片田舎の一環学校、その大学舎の美術研究室で、『絵描き』は感情で訴えた少女に冷たいその言葉を返した。


「殺人行為、人殺し、人を死に至らしめる行為を行使する悪辣の権化――――確かに、『殺人者』という存在はそういった存在であることは間違いありません。ですが、そうである人間が即座に『悪』という概念へと結びつけることに関してはいささか以上に間違いが多いと思います。少しきつい言葉を投げかけますが、あなたはもう少し物事を深く考えてみてはいかがですか」


 大人びた物腰、すらりと伸びた銀の長髪。すっきりととった背筋を伸ばしてキャンバスに向かいながら、その向こう側の少女へと『絵描き』は言葉を投げかけた。

 数多の経験によって裏打ちされた重みある言葉が、少女の言葉を縛り付ける。

 それでもなおキャンバスの向こう側に座る少女が『絵描き』へと臨んだのは、ただ自分の中にある常識という壁を守るための、本能じみた何かによってだった。


「そんなっ! そんなの、どうしてそんなこと言えるんですか! 現に壱里ちゃんは、人殺しをしてたんですよ? そんなの、とっても悪いことなのに、何で――――」

「ですから、その『悪い』という視点が何を以て『悪』と呼ばれているのか、そこをまず考えてみるべきだと、私は言っているんです」

 冷たく突き放すようなその言葉に、少女はたじろぐ。


「人殺し、殺人……確かに悪いことでしょう。社会的視点に乗っ取ってみるのならば。ですが知っての通り、世界というものは何も『社会』一つによってできているわけではない。その『社会』にしたところで国と時代によって変遷を繰り返しているモノですし、さらに言うのであれば、『悪』という概念ですら時代と国と人間によって移ろっていくものです。そこに照らし合わせたとき……果たしてあなたの言う『悪』は、その中においても『悪』と言われ続けるのでしょうか?」

「………それ、は……」

 投げかけられた問いに、少女は沈黙した。


 冬の迫る薄暗がりの美術室の中、絵の具の油と木材の甘い香りが日常から感覚を解離させる。

 異国めいた空気の充填され、石膏像の群衆やキャンパスの異国が作り出した甘い芳香のこの部屋は、さながら『絵描き』の国。銀の髪、青く光る眼を持つ幽玄の妖精が王国だ。


「『善』と『悪』は表裏一体……それは、あなたもご存じでしょう。『悪行』はすなわち『善行』の対極に位置する行為で、『善行』はすなわち『悪行』の反対側にある行動。

 しかしだからと言って、『善行』によって『悪行』が中和できるわけではない――――そう、あなたが甘くもそう考えているような結果には、決してならないのです。それはただの自己満足による欺瞞……貴女の嫌う殺人者の動機と同等の価値を持つ思想ですね」


「っ!」

 図星を刺され、少女は目をむく。決して言葉には出してはいない、己の抱く理想像。『悪』を行ったのであれば同じだけの『善』を重ねればいい。そんな甘っちょろくも信じていた理想は、『絵描き』の現実によって脆くも崩れ去る。


「『善』は『悪』の対極――――確かにそれ自体に間違いは在りません。ですが、ここで言う対極とはなんだと思いますか? 

プラスに対するマイナス、凸に対する凹、光に対する闇――――ええ、それはある意味では正確でしょう。しかし、本質的には正確ではない。

善悪における対極とは、すなわち同じ事象の表と裏。同じ物体を別々の二方向から見た結果に過ぎない。私が今描いているこの絵がそちらからは白紙に見えるように、同じものを別の方向から見た結果、そこに別の物が見えてしまったという、端的な事実によって生まれた対極。それが『善悪』です」


裏の裏は表、表の裏は裏。

例えば窃盗という悪。

奪われた側からは己の財産が消失しただけの結果に見えるそれも、奪った側から見ればそうしなければ守れない命があった故の行為かもしれない。

例えば自殺阻止という善。

止めた側から見れば失われる命を救ったという善行でも、止められた側から見れば自ら死を望むほどの地獄の延長という悪行となる。

例えば――――殺人という悪。


「人を殺す、殺人を犯す。ええ、その行為は紛うことなき悪でしょう。しかしそれはただの社会悪であって絶対悪ではない。故にこそ殺人という行為が起こった際、人はそこに何があったのかを念入りに検証し、悪の所以を明らかにする。そしてそれが社会にとって利益足り得るカタチであった時……社会はそれを黙殺する。あるいは何かを隠すために手近な悪にその責任をなすりつけるかもしれません。

殺人なんて、その程度の行為なんです。

 それが悪であれ、善であれ、それ単体はただの『行為』――――善悪を判断付けるのは観測者に過ぎないただの事象。故にその善悪は観測者の多勢によって決せられるものであって、間違っても絶対などというものはありえません」

 ただし、と『絵描き』は言い置く。キャンパスに走らせる木炭、その手が嫋やかに曲線を描き、


「それでも、善悪抜きに人の命を奪う行為は許容しがたい物であることは間違いないでしょうね」


 その言葉に、少女はいつしか沈めていた目線を上げる。

「善悪なんて、結局のところただの物事の判断基準でしかありません。その人物が社会悪であれ情念悪であれ存在悪であれ絶対悪であれ……それを認められるだけの器を持った人物の前では、ただのその人物に付帯する情報の一部でしかないでしょう。重要なのは、その人物が『善』か『悪』かなどという部分ではなく、許せるか許せないか――――結局、ただそれだけのことなんですよ」

「許せるか、許せないか……」

「ええ、そうです。社会などというシステムの関与しない、絶対の二択、個人の観念。善悪が人の観測によるのであれば、『彼女が殺人鬼である』=『許しがたい』、つまりは『悪』であるという認識は、あなたが彼女の殺人という行為を許せないが故に生じている感覚です。第三者である私から見れば、彼女の行為はむしろ中立に位置しているような気もしますからね」

「………つまり、」

 噛み締めるような一拍の間。

「壱里ちゃんは本当は悪くなくて、私みたいな人たちがそう思ってるから、悪いことをしたってことになってるってことなの……?」

 問いかけよりも確認の色を多く含むその言葉。それに対し、『絵描き』は、


「――――ええ。と言っても、あなた一人が意識を変えたところで揺らがぬほどの数によって、ですが」

 ただ、ゆったりと肯定した。


「概念や善悪なんて、その程度の物。その時代の意向によって千万変化します。例えば――そうですね、あなたは人の命を売り買いすることについてどう思いますか?」

「え? それは、ひどいことだって……思うけど…」

「中世のころには白人貴族のトランプ遊びに大量の黒人奴隷が賭けられていたそうです。また、貴族の領内において、その領主たる人物が領民に対して行う娯楽的な殺人は全く問題ないと判断されていたという記録がありますね」

「……………それは、」

「はい、時代が違うが故、です。しかしその時代に、あなたが白人として生まれていたらそれが酷いことだと考えましたか? 奴隷は酷い、命は平等だという思慮を、抱くことができましたか? ………答えは、どこにもありません。今私たちが忌避している殺人という行為も、やがて必要な行為として許容される日がやってくるかもしれない」


 淡々とした言葉が、少女を切り刻む。自らの常識が、観念が砕けていく音が聞こえる。友人が殺人者であることを知った日、命のやり取りの向こう側に立っていると理解した日に壊れたはずの壁が粉々に砕かれていく。

 苦悩する少女の表情を、『絵描き』はキャンバスの向こうからちらりと一瞥する。追い詰められ、苦悶に満ちたその表情。浮かぶ感情は紛れもない懊悩、どうしていいのか、どうするべきなのかわからずに困惑する、五里霧中の迷い路。


 そんな少女を諭すように、『絵描き』は再び言葉を発した。

「――――話が逸れましたね。結局のところ、あなたはまだ彼女のことを理解するにはあまりに多くを知らなさすぎるのかもしれません」

「………え?」

 ふっ、と二度顔を上げた少女に、『絵描き』は表情を緩める。

「あなたは、彼女のご友人でしょう。そのご友人の未知の面を見て困惑し、その意図が理解できず私に頼った――――それならば、あなたのするべきことは元から一つでしょう。

 話しなさい、彼女と。あの言葉はどういう意味なのか、どうしてやめられないのか。そしてこの先、どうしたいのか。話して、理解して、その上でどうするべきかを考えればいい。

幸いにしてあなたはただ知ってしまっただけの第三者です。故に、あなたが誰かに話さない限り、彼女が殺人者であることを知っている人間とは思われません。その立場をうまく使えば、決断するまでの時間は充分に稼げるでしょう」

 しゃっ。『絵描き』のキャンバスに素早く線が定められた。

「どうするか、定めるのはあなたです。私はただ善悪を言葉で弄んだだけ……どうするか決めるのは、あなたなのですから」

「あ……はいっ」

「もしわからないことがあったのなら、道を示すことぐらいは引き受けましょう。どの道を行くかは、あなた次第です。わかったのなら、お行きなさい」

「はいっ」

 元気よく返事を上げながら、少女は椅子から立ち上がり、美術研究室の出口へと向かう。その戸口で振り返って、


「あの――――ごめんなさい。こんな変な話、しちゃって……」

「いいえ、お気になさらず。一人で書き続けるというのも、存外に退屈な点が多い物ですから」

『絵描き』のその言葉に、少女は改めて深々と腰を折り、美術研究室を後にした。

 大学舎の廊下を少し緊張しながら歩き、階下へと歩を進める。

 目指す先は、友の元。心なしか軽くなった足取りと心持で、少女は高等舎へと歩き出した。





 そして残された美術研究室で、『絵描き』は目立たぬ位置に腰かけていた、一人の高等科生に声をかける。


「………野分」


 言われて、その男子生徒は立ち上がった。

 群衆に紛れていれば見逃してしまいそうな容姿。目を引くのは校則通り着こなされた制服から浮きあがる赤みを帯びた黒髪と、デザイン性の欠片もない同色のスニーカー程度の物。その没個性的な容姿は、しかしその身に纏う雰囲気と浮き上がったその色の意味を理解した時に、一気に猟奇的な印象へと変わる――――


「事情は、把握できましたね? 対象名は仁科壱里。本校高等科、あなたと同い年です。証言も得られましたのでこれで確定、あなたの『仕事』に、滞りはないでしょう」

 淡々とした声で、『絵描き』は先の相談から得られた情報を少年へと伝達する。隠し事など何もない、ともすれば酷薄とも言える単純さで告げられた情報に、少年は頭を下げた。


「ええ、すみません先輩。こっちの事情で面倒をおかけしました」

「いいえ、別に構いません。『魔女』さんは私の知人でもありますから、その知人であり後輩でもある人物の手伝いは義務のようなものです。今更一人二人の死人で騒ぎ立てるほど、私の日常は穏やかではありませんし」

「……ありがとうございます。では約束通り、なるだけ早く終わらせるので、早ければ今晩中にでも片が付くでしょう。その際には、またご報告に」

「はい。では、またその時に。――――ああ、間違っても幸人を巻き込まないようにしてください」

「わかってますよ。――――では」

 言って、その少年は美術研究室を後にする。



 ………そう、善悪がただの物の見方の違いというのならば。

 そして、それを知りながら静観を決め込んだ『絵描き』がいるというのならば。

 知りながらも無関係を決め込み、純然たる己の理由で行動に出る『狩猟者』がいたとしても、おかしくはない。

 それはシステム。あらゆる殺しを許さぬ機構。故にそこに善悪はなく、ただ作業としての順序があるのみ。

 一人残された『絵描き』は、二人の去った出入り口を一瞥し、一人思う。



 どちらに転んでも、一人は死ぬことになりますね、と。



    × × × ×



 ――――屈めた頭上を、鋭利な刃の風が嬲った。


 はらりと切り離された数本の髪が舞う。吹き出そうになる冷や汗、収縮しそうになる筋肉。撥ね続ける鼓動、加速し続ける視界の中、少女は手中の刃を下方から振り上げた。

 滑らかに滑る匕首の白刃。薄く湾曲した刃は、しかし反らされた男の顎先をわずかに切ったのみで、空を切る。大局を決めるにはあまりにも小さな手応え、この程度の傷では行動に支障を生むこともあるまい。


 内心で舌打ち一つ、止まる間もない。無理な姿勢から男の手が翻る。戻る横一閃を垂直に立てた刃で受け止め、肩先から男の体へタックル、たたらを踏んだその胴へ、再びの一閃を見舞う。が、見舞うはずの一閃は右から伸びた男の左手によって柄を抑え込まれてそもそも放てず、返す一手として迫ったのは迎撃の右肘――――


「………っ」

 うめき声を上げながらもなんとか左で受け止め、押しのけるようにしてバックステップ、そこへ迫る男の刃を、左から右への振り抜きで迎撃する。

 するり、と肉を切った手応えが少女の手の中に去来した。

「ぐぁっ……!」

 上がる男のうめき声。それでも手中の刃――ナイフを落とさなかったのは、男の生存本能故だろうか。悪くない。内心で男に対する評価を改めながら、少女は息を弾ませたまま陰る町明かりに浮かぶ敵の姿を凝視する。


 夜の町は町でありながら町ではない。

 町とはすなわち人が作る場所、人が住み、人が営み、始めてそこは町となる。動くもののない町はすなわちただの建造物の群衆で、眠る者しかいない町もまた、町自体が眠っていると表現されてしかるべきである。

 故に、眠る町は別世界。町という人によって成る生命が見る、一夜の夢の場所だ。

 そしてそこは夢の場所であるが故に死角も多く、それが通常意識されない場所であるのならばなおのこと。故に市街地の外れ、忘れ去られたように存在する陸橋下の薄暗がりは、町からも忘れ去れた無法の場とも呼べるのである。


 そんな無法の場で、匕首を手に少女は高揚する。右手に馴染んだ抜身の柄、身には戦時の高揚の昂ぶり。身に纏ったパーカーの肌着にはすでに汗が染み込み、長く伸ばした髪は運動によって乱れている。

 身だしなみに気を使う少女にとっては辟易するべきで在るはずのこの状況――――しかし、少女の心は日常ではありえないほど、満たされていた。

 少女の眼前、同じく息を切らせながら対峙するは一人の青年。繁華街へと赴けば一人は見かけるような、派手な服装をしたその青年の手には輝く白銀――小振りのナイフが握りしめられ、その眼は怯えの色を孕みながら油断なく少女の動向を窺っている。


 ファッショナブルに剃られた青年の髭から、血が滴る。

 切り裂かれたナイフを握る指から、血が流れ落ちる。

 垂れ下がった少女の左手首から、ザクロの果粒が地に落ちる。

 血の色を光らせる刃、弾んだ息、互いの手には刃物。その風景は紛うことなき、現代日本においてはまず目にすることはない、また執り行うこと自体がありえない、遭遇したとしても逃げ出す以外に選択肢が見いだされない戦闘――――殺し合いの風景である。


 一挙手一投足が互いの命を狙い、一瞬一瞬が互いの神経をすり減らす。

 得物で勝る少女に油断はない。

いかに経験と武具に勝るとは言えど、少女の体格は所詮さほど運動慣れしていない文芸部の物でしかないのだ。得物を抑え込まれ、押し倒されればジ・エンド。その瞬間死(タナトス)の押し付けたるこの場は崩れ、少女はただ青年の(エロス)を受け入れるだけの肉の器と化すだろう。


 他方、体格で勝る青年にも油断はない。

 勝っているとは言っても、それが意味を持つのはぎりぎりの間合いまで接近したその時の話。得物のリーチに匕首とナイフの差がある今大局を決める要素にはなり得ない上、人殺しの経験という物に青年と少女の間には大きな隔たりがある。青年にとってはそこから生じる恐怖こそが最大の敵。追い詰められればチェックメイト、その瞬間隔たりは穴となって青年を飲み込み、少女の白刃の前に青年の命を散らすだろう。


 完全なる拮抗、故にこの場は緊張に満ちる。接近して隙を見せればその瞬間終わる少女と、恐怖に負ければ死ぬ青年。互いの戦闘技能に大きな差のない現状、勝負を決めるのは互いの弱所を踏んだ時のみで、故に二人はそれを踏まぬよう細心の注意を払い続け、互いのそれを崩すべく、互いが互いを攻め立てる。



 そんな戦いが――――もう二十分以上も続いている。

 すでに神経は擦り切れる寸前で、肉体は崩れ落ちる寸前。数えきれぬ幾多の攻防の末刻まれた傷が互いの体から体力を奪い、滴る血の感触が、わずかに漏れる町明かりを反射する銀色が正気を奪っていく。正気では到底潜り抜けられない死線という舞台の上、そんな場所にありながら、しかし少女は笑っていた。

 軽やかに。

 これ以上ないほどに、楽しげに。

 少女にとって、この青年は久しぶりに自らを昂らせるに足る殺し合いの相手だ。刃を見せても逃げることなく、殺意を見せても背を向けず、傷つけても傷つけられても怯えを見せず、あまつさえ反撃さえ殺意を漂わせながら行うのだ。質としては最上級、ただ傷つけて逃げるだけの『獲物』ではない、相手の停止を以て勝利を判断する『狩猟者』の風格が、この青年にはある。


 一瞬一瞬に命をぶつけ合う高揚、一刹那ごとに実感を感じる昂奮。

 情動をすべてを焼くような究極、それが少女の口角を自然を釣り上げ、その表情を凄絶な物へと変える。今の少女はただの女子高生ではなくただの殺人者。他者の命を以て自らの命を実感する、醜悪の獣に等しかった。

 そして、その笑みに青年が臆した一瞬。

 その一瞬が、互いの明暗を分けた。


「―――――――っ!」


 凄絶な笑みから一足、一気に踏み込み刃の一閃を放つ。青年の目に映る怯え、それでも青年は身を反らして刃を回避する。反撃のナイフ、突きこまれたそれを屈んで避けた。

 耳元に灼熱。首筋へ、血が流れ落ちた。

 興奮が一気に少女の芯を回転させる。振りぬいた刃はまだ生きている。青年の胴はがら空き、防ぐ刃は突きこまれて背後、避ける踏み込みは踏み込まれて次がない。命運を分けるとすればこの一瞬、この刹那。怯えによる逸り、そこから繰り出された隙の比較的多い一撃。これを逃せば次はない。体力差で劣る自分、この瞬間こそが最期の分かれ目となるだろう。だから殺せ、自分が殺される前に。殺せ、殺せ殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ――――!



 どっ、と。



 少女の殺意より、右から逆袈裟に降りぬかれた匕首の一閃が、青年の脇を割った。



    × × × ×



「――――ちゃん? 壱里ちゃん?」

「…………ん――」


 体を揺すられる感触と自らの名前を呼ぶ声で、仁科(ニシナ)壱里(イチリ)は目を覚ました。

 状況の把握ができず、しばらくぼんやりとあたりを見回す。


 ………場所、文芸部室、時刻、陽光の色が群青=大禍時、自分の姿勢、部室のデスクに突っ伏す形、起こした人物、ふんわりとしたツインテールの少女――――


「…愛華(マナカ)……?」

 そこまで現状を把握したところで、壱里は気だるげに身を起こした。

「………どうしたの…? 部活動用の冊子ならもう用意したわよね? それとも、何かほかの用事……?」

「ううん、そういうことじゃなくて……その……」

 歯切れ悪く体をもじつかせるツインテールの少女、名前は甲元(コウモト)愛華(マナカ)。文芸部副部長に相応しからぬ不明瞭さで語りかけるその仕草に、壱里はわずかな不快感をあらわにした。

「なんなの……? 用があるなら、はっきりして」

「うん、あの……昨日の、夜…なんだけど……」

「昨日?」

 突っ伏すうちに乱れていた長髪を適当に直しながら聞き返す壱里に、愛華は、

「あ、えっと……大したことじゃ、ないの。ただ、昨日、ね、遅くに、どこか出かけてたみたいだから、どこ行ってたのかな、って、思って――――」

「………別に、大した用じゃないわ。ただ単に、昨日は月が綺麗な夜だったから、散歩したくなっただけよ」

「そっ……か………」


 思い切り不機嫌な声音で返されたその言葉に、得心行かない風体で愛華は曖昧に頷く。壱里はさらに眉根を寄せた。

「……不満そうね。何か、気に入らないの」

「う、ううん! そういうわけじゃないの。ほ、ほら、最近殺人事件とか、いろいろ危ないでしょ? そんなの、壱里ちゃんだって知ってるはずだから、ちょっと心配になって――――」

「知ってるってわかってるなら、対策ぐらいしてあると思わないの?」

「……そ、それは、確かに、そうだけど……でも、壱里ちゃんだって普通の女の子なんだしっ!」

「だとしても、よ。行き過ぎた心配はただの迷惑だわ。それとも愛華、もしかして、あなた疑ってる? 私が事件のこと、何か知ってるんじゃないか、って」

「………っ」

 その言葉に、愛華は露骨に表情を歪めた。


 ため息一つ。呆れた表情で、不機嫌に壱里は立ち上がる。

「……そう」

「ち、違うよっ! 私別に、壱里ちゃんのこと疑ってなんか――――」

 否定の言葉は、尻すぼみに消えた。続く言葉を探す愛華、それを背に一人、壱里は後ろのロッカーから通学用リュックを取り出し、

「いいのよ、否定しなくて。疑われるのはもっともだって、私にもわかってるし。それに友達だからって言う理由で疑われないのも、ちょっとさみしい話だわ」

「そんな、疑うなんて……酷いことなのに…」

「そうでもないわよ? 少なくとも私にとってはね。怪しいのに疑ってもらえないなんて、お前にはそんなこともできないって馬鹿にされてるみたいじゃない?」


 言って、ほとんど荷物の入っていないロッカーを壱里は閉ざした。背にリュックを担い、中に入っている『それ』をすぐ取り出せるよう、ファスナーをわずか開けておく。

「今日は、もう帰るわね。遅い時間だし。愛華も、早く帰りなさいな。友達よりもまず真っ先に自分の心配しないと、心配するあなたが死んじゃうわよ?」

「あ、待って壱里ちゃん。その……」

 廊下へ踏み出しかけた一歩を止め、振り返る。

「何かしら?」

「左手首、それって……また?」


 探るような愛華の目線は壱里の左手首――正確にはその袖から覗く白い包帯に向けられている。藍色を基調とした制服のブレザーにその白は鮮烈で、そしてどうやらその鮮烈さに焼かれ壱里の髪に隠れた耳元の白には気が付いてはいないらしい。


「いいえ、違うわ――と言っても、信じて貰えないわよね、愛華相手だと」

 愛華は、壱里がかつて自傷行為を繰り返していたことを知っている。親も見離し教員も理解を諦め友人の多くを持たなかった当時の壱里を、唯一案じていたのが愛華という友人だ。故にこの友人はその傷の真意を自らで計るまで決して引き下がりはしないだろう。

 どこか諦めたようなため息とともに、壱里は一時リュックを下ろし、左袖をまくった。


 その色は前腕のほぼすべてを覆う、白。

 手首から前腕の半ばまでが包帯で覆われた、明らかに自傷行為とは異なる腕の様相に愛華は驚愕の息を漏らした。

「夜の散歩のときに、危険運転の軽トラに引っ掛けられたのよ。荷台からはみ出てた金属板に、こう、斜めにね。それほど深くはないから縫わなくてよかったけど、やっぱり傷口が広いから」

「そんな……大丈夫なの?」

 過剰とも言えるその反応に、壱里はわずか笑みを見せ答える。

「平気よ。切り口も鋭利だから、じきに治るわ。愛華も気を付けなさいね。油断してると、どこで怪我するかわからないわよ」

 それじゃあね、と言い置き袖を戻すと、壱里はリュックを取り上げ文芸部室から立ち去った。



「……全く…鋭いんだか鈍いんだか…」

 下校途中、一人ぼやくように壱里は呟く。


 目撃されていたのは手痛い失敗だった。元々目撃者を作らないよう細心の注意を払ってことに及んでいるわけではない、がそれでも目撃者の存在は壱里の『行為』の寿命を確実に縮め、壱里の望まぬ終わりへとその距離を近付けるだろう。

 そしてそんな結末は、壱里にとって肯定できるようなものではありえない。天秤のバランスが狂った現況、終わりと呼ぶにはそのバランスを取り戻す必要がある。圧倒的に壱里へと傾いたこの天秤は、壱里からすべてが奪われる形で終わるべきなのだ。

 だから今夜も出かけよう。内心で、壱里はそう決意する。

 昨夜左腕に負った手傷は常と変らぬ行動を可能にしてくれるほど生易しい深さではない。先程は愛華の手前ああいったが、おそらくこの傷は二週間以上壱里の重荷となるだろう。耳元に負った傷もまた無視できるようなものではなく、痛痒のような違和感は確実に判断力に影響を生んでいる。ともすれば『行為』によって死ぬこともあり得るだろう。昨夜のような人物と出くわせば、おそらく生きてはもどれまい。

 だからこそ、壱里は今夜、『行為』に出ることを決意した。

 上手くいけば今夜結末へと辿り着ける。幾多の日々を無意味に過ごしたこの地獄から、苛烈な無へと落ちていける。その結末は何よりの充足と究極の満足を、壱里に与えてくれるだろう。

 最高だ――――近い未来に見えるその想像に胸を躍らせながら、壱里は家路を急ぐ。

 町には警官の数が多く見え、街角には自警団と思われる腕章を嵌めた人々も数多い。気を付けねばなるまい、彼らによる結末は、壱里の望むところではないのだから。



 大禍時の色に染まったその町で、一人殺人者が帰宅する。

 さあ、今宵も戦いを始めよう。

 殺人者は、リュックから取り出した匕首を片手に笑みを浮かべた。



    × × × ×



 仁科壱里――――県立 鹿黄(ロクオウ)高等学校に通う女子高生。成績優秀、頭脳明晰、容姿端麗。行事ごとに率先して要職を担う行動力も兼ね備え、その理知的な活動、文芸部における実直な活動記録から教員含め校内で幅広い信頼を獲得している。また、彼女自身が持つミステリアスな魅力に惹かれ、密かに思いを寄せる男子生徒もそれなりにいるが、最低限以上の社交を彼女が望んでいないため、友人の数は少ない。


 それが、この町において知られている壱里の顔だ。

 しかし表もあれば裏もある――――その言葉が示す多分に漏れず、仁科壱里という少女にも裏の顔という物は存在する。

 誰が思うだろう。鹿黄高校が優等生たる少女が夜分に匕首を隠し持って市内の危険地域を出歩き、自らに声をかけてきた人間すべてに対して切りかかっては殺害する、そんな通り魔じみた行為に及んでいるなどと。


 表の顔は優等生、裏の顔は通り魔殺人犯。

 それが、仁科壱里という少女の顔である。


 が、彼女自身はその顔の存在こそ肯定せども、その内容の正確性については否定的である。周囲の認識がどうであれ、壱里という少女の内面において自らが『通り魔殺人』を行っているつもりはない。


 彼女の行っている行為は『殺人』ではなく『戦闘』であり、

 彼女自身の本質を示す言葉は『殺人犯』ではなく、『自殺者』なのだ。



 行為の執行を他者に依存する迂遠な自殺者。

 それが端的に表現される、仁科壱里という少女の本質である。

 きっかけはいつだったのかは、もう彼女自身の記憶にもない。ただ覚えがあるのはその発端足り得るであろうと自らが認識するおぼろげな感覚、虚ろな生からの逃避を望むように自らを切り刻み続けた痛みと、そこから生じた死への恐怖、そしてそれに付随してやっていた、猛烈な生への執着――――


 だから、そう。きっかけと呼ぶとするならば、自らを切り刻むに至ったその一件こそが壱里が『自殺者』たるの発端と呼べるのかもしれない。

 とはいっても、それは世間一般に推測される自傷行為の原因――――両親の不仲やいじめ、借金苦、虐待といった直接的なものは含まれてはいない。壱里の場合その理由はとても単純で、ただ単に、彼女が生への実感を持てなかった、それだけの理由からだった。



 ――――ことを始めた数年前、彼女はとても空っぽだった。


 惰性のように続く毎日、激しさのない、空虚で空っぽな日々。

 成績優秀と褒めやかされようと、部活動で賞を獲得しようとも、満たされない。

 学校行事で先陣を切って運営の要職を担い成功に導こうと、散財によって羽目を外そうと、埋められない。

 穴の開いたバケツに水を注ぎこんでいるかのような、徒労の日々。そんな日々を延々と彼女は一人、危ういバランスの元送り続けていた。

 他人との関係は軋轢しか生まないことを知っていた彼女に友人の影はなかった。もしかしたらと淡い希望を抱いて、一人の人間と交際を始めた時もあったが、結果は残念な物。空虚は決して埋まらず、そればかりかそこで覚えたストレスが原因で、ぎりぎりを保っていた彼女の精神はあっさりとバランスを崩した。

 ぎしぎしと軋むような空洞感を埋める術を求めてカウンセリングも受けたが、一向に解法を見いだせなかった。


 そんな感覚から逃れる麻薬を求め、なんとなく始めた自傷行為が、全ての根底。

 手首を走る灼熱の氷、ひきつる皮膚、断絶する筋繊維、滲みだす冷や汗、逸る呼吸、猛る心音、流れ出す血潮、腕を貫く痛み――――そんな生きることとはおよそ対極にある状況を訴える肉体が、彼女の空虚を一時的にせよ埋めたのだ。


 そして、理解した。埋められた空虚、その感覚。どうして自分が空っぽだったのか、どうして埋められなかったのか、どうして段々にひどくなっていったのか……その答えは、酷く単純だったのだ。


 ただ単純に、彼女は徐々に死んでいたのだから。

『生きていない』世界に圧迫され、精神が段々と死に追いやられていたのだから。


 生きることは命に燃料をくべることに似ている。火を燃やすときとはすなわちそこに火が必要な環境があるとき――つまり何かを焼き焦がすことが必要な、その時である。

 火の通った食事が目の前にあり、ぬくぬくと暖かな空気の中では火はいらない。だからこそそこに燃料をくべる必要もない。

じっくりと、火勢が弱まるような緩慢さで、壱里は死んでいっていたのだ、

 それを幸せと人は言う。火に頼らずともすべてが手に入るこの世界、一体それのどこが死なのか、不幸なのかと。

 だがそれは火の必要な過酷さを経験した人間だけが言える言葉に過ぎない。過労を知らぬ無辜の休息はただの何もない退屈な間隙であり、達成を知らぬ努力は延々と続くただの過労である。火の必要ない生活は、火のある経験をして始めて理解できるもの。そういった意味では壱里にとって、緩慢に続くこの『平和』という日々は緩やかに続く死、そのものでしかなかった。


 そしてそんな中で知ってしまった生――痛みという死に対して覚えた命の実感は、彼女の心に麻薬のような快楽を植え付けた。



 そして、その感覚が歪んだ願望を生み出す。


 もっと生きたい。死にたくないと思いたい。その苛烈さを抱えたまま、死んでしまいたいと。

 無為に続く生から零れ落ちるように死ぬのではなく、苛烈に燃え盛る生の炎に大水をかけられて消えさるような激しい死。長々と燃えるだけの細い火ではなく、短くとも苛烈に燃え上がる炎として在ることこそが、壱里の望みとなった。


 そうして始まったのが、この行為。


 自らに害をなそうとした『害意ある人間』に対して戦いを挑み、その戦いの苛烈さに溺れながら死ぬ、迂遠極まりない自殺

――――無関係な人間を殺害するのではなく、自らを殺しうる人間に対し、自らもまた殺されかねない条件の元殺しあった後に死ぬための、行為である。

 殺人者とはすなわち殺意を以て他者を『殺した』者を指す言葉であり、害意を以て『殺してしまった』人間を指す言葉ではなく――故に、仁科壱里は本質的に殺人者ではない。


 ただ、『殺してくれる人間がいないから』――――そんな単純な理由で、壱里の凶行は続く。積み上げられた屍はすでに十五人を上回り、司法的な罪状も逮捕されれば極刑は免れない状況にある。が、それでも壱里は止まらないのだ。司法が作り上げるシステム的な死に生の感動はない。人が人を己の理由で殺す、その中にある死で死ぬことは、壱里の抱く唯一の贅沢なのだから。


 そしてまた、壱里も己の行為が許されることであるとは考えていない。

 人が人を殺すことは極悪の行為であるという倫理は確かに彼女の中にもある。が、その倫理を持ちながら他者を己の都合で殺害するという行為を犯した者に、司法が下す穏やかな死などという物を許すべきなのだろうか……?

 答えは、絶対の否である。


 故に壱里は止まれない。己の犯した行為の責任を取るため、始めた以上は最後まで責任を取る。他者の『生きたい』という都合によって無残な死を迎えるその時が訪れて始めて、全ての責任を取ったと言えるだろう。


 正しいと思うつもりは毛頭ない。だから死を以て購う。


 死ぬべき理由が生まれた『自殺者』はもはや止まる理由を持たず、それ故に更なる凶行へと、彼女を駆り立てるのである。



    × × × ×



 そして今夜も、仁科壱里は戦っていた。


「……はぁっ……はぁっ……はぁっ……っく…」


 神社の裏山、人気のない公園の隅で、右太腿に負った傷を抑えながら、屍の脇にしゃがみこむ。


 ……深い。動脈を傷つけたのか、出血が酷い。刺されたナイフを抜いたのは失敗だったか、などと後悔しつつポケットから取り出したハンカチと包帯で止血を済ませていく。


 ここまでひどい傷を負うのは、久しぶりだ。全治にして二週間から三週間、下手をすれば一か月。歩くどころか立ち上がることも、しばらくは難しいかもしれない。

 はぁ、と肺から重い息を付き、無人の社務所の壁へもたれ掛った。



 ――――吐き出した吐息が白煙となって、夜に溶けていく。

 火照った体、ずきずきと痛みを伝達する血管が、生きているという実感を全身へと巡らせていく。

 冬も迫る夜半時。木々の香りと闇と冷気が充填された神社に音はない。

 かつてない充足に身を休ませながら、動悸と共に響く痛みを感じつつ、回想するのは先の戦いだ。


 ふと立ち寄った神社で見かけたクラスメイトと、明らかに下卑た雰囲気を持つ男の集団。得物を隠してあえて姿を見せ、狙いやすい獲物を装い神社に誘い込んで抜刀、一人に傷を負わせた時点で一人を除いて逃げ出したが、その一人が最高だった。

 隙のない挙動、油断ない動作。一つ一つの挙動がかなり洗礼されており、刃物の扱いも手馴れたもの。どっしりと構え、こちらが牽制に打つ剣閃を見切って責める手練手管は明らかに戦闘慣れしていて、殺人行為の経験に勝る壱里であろうとも殺害されかねない迫力が、そこには確かに存在していた。

 体格、技術、健康状態に劣る壱里が勝利できたのは、単にただの運と言っていい。


「…………惜しかった……わね…」

 わずか弾む息で、傍らに横たわる一人――――クラスメイトであった男子生徒の屍を見下ろす。

 まさかクラスメイトにこれほどの技量があるとは夢想だにしていなかったが、こうなってしまってはもう関係がない。死体は死体、それが壱里の思想。それがクラスメイトであったとしても、自ら手を下した結果生じたものであったとしても、それはもう物言わぬ屍、物に等しき者。殺し合いの果てに死ぬことができたという事実が少し羨ましくもあるが、壱里にとってはただそれだけの物である。


 もしそこに何かを感じる要素があるとするのであれば、それは己を殺し得たかもしれない人物への口惜しさ。あと少し身を引くのが早ければ、右腿を刺した感触に怯まなければ、『傷つける』ことではなく『殺すこと』を前提に動いていれば――――今ここに横たわっている屍は、名も知らぬクラスメイトではなく壱里の物であっただろう。

 口惜しくてならない。結局勝敗を、生死を分けたのは運などではなく認識の相違。戦闘を『傷つける』行為と誤認した時点で、『殺す』ことを前提とした壱里に、クラスメイトは絶対の優位を譲ったのだ。


「…………ホント……惜しかったわ……」

 出会う人間すべてに、それが欠けている。殺さずに逃げる道、傷つけて何とかしようとする道、そんな余計な道を見て、相手を純粋に殺害し、恒久的な安寧を得ようとする道を見ようともしない。今日の人間も昨日の人間も……おそらくは過去壱里が屠った人間の誰もが、その意志を欠いていたように思う。


 それを持ち合わせる人間と対峙すれば、壱里はおそらく生き延びることはできるまい。


 故に壱里は挑む。殺害意志を以て対峙してくれる誰かを求めて。その人物を前にすれば、殺人に対する経験などブレーキのかかり具合の差でしかない。一瞬の明暗を分けるような激戦ともなれば話は別だが、所詮壱里は運動慣れしていない少女の体力でしかないのだ。その覚悟さえあれば、おそらく人類のほとんどが壱里を殺害できるだろう。

 もっとも、その覚悟を持ち合せる人間など早々いない。ここは生きることの価値を貶めた人間の巣窟。殺すことの悪性を説きながら壱里のような淀みを生む、矛盾の王国だ。

 憂鬱な心で、壱里は再びため息をつく。

 と、その時。


 ―――― ガサッ……


「……っ、誰…?」

 務めて。

 社務所の壁に身を任せたまま、穏やかな声で正面の林へと、壱里は声をかける。


 先程の逃げた連中が戻ってきたのだろうか、あるいは自警団が異音に気付いたのか、警察官の巡回か……傍らの匕首に手をやり、警戒と共に闇を見つめる。

 闇の中で、人影が動いた。月明かりの中、林をゆっくりとかき分け近寄る影。ゆっくりと、ゆっくりと。はたして、声にこたえて人影が林の中から姿を現し――――



「……あら……愛華じゃない…奇遇ね……」

「………壱里、ちゃん………」



 林の中の人影――甲元愛華が、不安そうな色を表情に称え、壱里を見下ろした。

 どこか怯えの色を映す瞳を見返し、壱里は悠然と、笑む。

「随分と変わったところから出てくるのね……愛華。あなたも夜の散歩かしら? 今日はいい夜よ。月も明るいし、空気も澄んでる。空がきれいに見えるわ……」

「壱里ちゃん……その、」

「あら、なにかしら?」

「その足…どうしたの……?」


 震える声音で尋ねられ、ああ、と壱里は呟く。

「ちょっと、ね……それほど酷くはないわ。心配しなくても、大丈夫よ」


「それに、隣のその人――――」

 ざっ、と壱里が一歩を後退する。滲む色は明らかな恐怖。愛華の世界は壱里とは違い常識という物で厳格な壁が作り上げられてる。壁を隔てた未知、知ることへの恐怖、それらへの怯えが愛華の中で揺れ動き、その恐怖心は当たり前のようにそれらの隣に座りこむ友人へと向けられた。

 そして恐怖心を向けられながらも、壱里は変わらない。


「――――ねえ、壱里ちゃん。その人……死んでるの?」

 故にこそ、友人の怯えに対しても、大した感慨は抱かない。

 友人の一大決心から発されたその問いに、



「――――ええ、間違いなく」



 あっさりと、肯定を返す程度には。

「…………っ!」

 その答えに、愛華がさらに後退した。じりじりと壱里を、その隣の死体を見据えたまま後ずさる。土を踵で食んだのか、その場に尻餅をついた。


「………大丈夫?」

「そんな……嘘………どうして……」

 怯えた声で屍を見据える愛華。死体に対する至極一般的な反応を前に、ああ、これが普通の反応か、などと思いながら、ふとそこに違和感を抱く。友人の身に纏う服装、普段は女性らしいスカートやブラウスなどを好むこの友人が、今日に限ってデニムにジャケットの活動的な服装。足元も運動に適したスニーカーで、その靴裏には泥と草の破片。そして彼女は森林の中に潜んでいた。つまるところこの友人は――――


「……わかってるんでしょう、愛華。私を、つけてきたんだから」

「……っ! 知らないっ……知らない、知らない……私、何も見てない……何にも見てないっ!」


 震える声で否定を連ねる愛華。異常を否定し、現実を守ろうとするその姿勢。しかし悲しいかな、現実は否定されることによって己の中でその存在を増していくものである。いくら否定を重ねようと、愛華の中で見てしまったその風景が消えることはない。

 そして、何より見られた側にも、隠すつもりはないのだ。

「いいえ、愛華。あなたは見た。そうでしょう? だってあなた、私の手元にあるこれに一度も注意を払わなかったもの。普通なら聞くわよね? どうしてそんな物持ってるの、って」

「知らない! そんなの、知らないよ壱里ちゃん! だって……だっておかしいじゃない! 壱里ちゃんが人殺しなんて絶対っ、絶対するわけ――――」

「ないわけがないわ。だって、この人を殺したのは私なんだもの」

「――――っ………」


 その一言に、愛華の顔が色を失った。

「ついでに言っておくと、ここ一カ月に起こった殺人事件の犯人はだいたい私よ。昨日の散歩も、これと同じことをしに行ってたの」

「そん………な……」

 目撃してしまった殺し合い、始めて目にする新鮮な死体、友人から告げられた衝撃の事実。それらを一気に受け止め、愛華の常識が破綻する。築いた現実が、異常への防波堤が全て壊れ、目の前の異常を脳が次々と認識を始める。

 秩序を求める混乱の際にある脳が、疑問を投げかけた。

「どう……して……壱里ちゃん、が……」

「あなたには関係ないわよ、愛華。何もできないんだから」

 嘯く壱里、問いかける愛華。二人の目線が同じ高さで合う。日常の虚無と異常の恐怖。奇しくも二人の浮かべる感情は対極だった。


「……それで、どうするの?」

「どうって……」

「愛華は人殺しを見た。死体を見た。自白を訊いた。友達が人殺しであることを知った。もしかすると、あなたはこの場で殺されてしまうかもしれない――――」

 かちっ。取り上げた匕首が金属音を上げる。月光を薄く照り返す鋼の色。血液に曇るそれを眺めるように取り上げながら、壱里はその問いを放つ。


「――――だから、どうするの?」


 その問いに、愛華の目が現実の色を取り戻した。

 口封じ――常識的に考えて殺人者が目撃者を殺す第一の理由。己の行為の発露を恐れ、自らの秘を知った人間を殺害する、一般的な世界でも容易に想像のできる殺しのわけ。

 もしかすると殺されるかもしれない。あの死体と同じになるかもしれない。そんな可能性が愛華の脳裏を過る。


 しかし、だけど、と。

 愛華の脳裏は、それを否定した。

 ぐっ、と怯えを喉奥に噛み殺し、立ち上がる。ポケットの中に入れておいた包帯を取り出し、匕首を手にしたままの壱里に歩み寄った。

「………何、するつもり…?」

「その刀みたいなの、隠して。大丈夫って言うけど、やっぱり放っておけないから、いったんうちに寄って。あっ、歩ける……?」

 血のにじんだ包帯の上からさらに清潔な包帯を巻かれ、壱里の右脇に愛華の体が差し込まれた。考えるまでもない、愛華は、壱里を匿うつもりでいる。

「警察の人とか、町内会のおじさんとかに見つかったら大変だから。ちょっとつらいと思うけど、頑張って――――」

「いいえ、助けなんて、いらないわ」

「………壱里ちゃん」

 どこか咎めるような響きを含んだ声だった。

「わかってる。迷惑だって……だけど、目の前に怪我してる友達がいるんだから、なんとかしたいな、って思っちゃうよ」

「……おめでたいわね。私、人殺しよ」

「でも友達だから」

 即答で答えを返され、壱里は言葉を失う。

 その隙をつくように、愛華は壱里に肩を貸しつつ強引に立ち上がらせ、その上で抱え上げるように歩き始めた。匕首を器用に左手で取り上げ、壱里の腰――そこにある隠し鞘へと納めてしまう。

「行こう。今日うち、誰もいないから」

「………後悔するわよ」


 友人の始めて見せた強引な様子に合わせつつも、心中で壱里は思う。甲元愛華というこの少女は、一体どういう思慮で自らを認識するだろう、と。

 常識の中で生きていた人間が、自分の命に疑問を抱かずに生きてきた人間が、自分のような人間の内面を理解できるはずがない。が、この少女であればあるいは自らを理解するかもしれないのだ。そして理解した上で行動する。そしてその結果は自らにとって、あるいはこの友人自身にとって、危険足りうるものになるだろう。


 まだそうと決まったわけではないが、可能性としては充分あり得る。愛華は、強いようで在りながら弱い。弱さから選ばれた選択は、多くの場合安全性を欠いているモノなのだ。

 そしてもしそうなる片鱗が見えた場合、果たしてその『危険』は止まってくれるだろうか――――

 そこまで考えて、壱里は頭を振り、脳裏に浮かんだ最悪の予想を振り切った。



    × × × ×



 幸か不幸か、壱里の抱いていた予想は、想像とは違う形で裏切られることとなった。



「壱里ちゃん、お昼一緒に、どう?」

「………なんて、こと……」



 翌日、昼休みの教室で壱里は驚愕の表情を見せた。

 思えば、これが愛華へと見せる最初の人間らしい表情だったのかもしれない。

 どうして誘ってくるのか、困惑と驚愕に思考を混乱させながらも、壱里は愛華の提案を受け入れた。提案された場所は、文芸部室、奇しくも冷暖房の関係から、寒くなるこの時期には無人となる場所である。

 前を歩く能天気な背中に視線を突き刺しながら、壱里はその後に続いた。

 一歩ごとに昨夜の傷が足を突き刺すため歩行速度は速くはない。文芸部までのさほど長くない道中も、この速度であっては少し長い道程に思えたことだろう。

 その間、無言で壱里は愛華を訝しむ。どういうつもりなのか、どうして恐れないのか、どうして何も動かさないのか。無言で疑問を突き付けるうちに部室棟へ至り、冷えた空気の充填された部室へと足を踏み入れる。

 冬も迫るこの時期、部員数が元々少ないことも手伝ってか、部室は無人だった。


「うん……やっぱり、ちょっと寒いかな……」

「そう思うなら、他へ行ったら?」

 慇懃に告げながら窓際の指定席に座る壱里に、愛華は苦笑した。

 わずかでも日照を得ようとするかのように、愛華もまた壱里の正面、窓際の席へと座る。

 持参した弁当を広げ、黙々と食事を進める壱里。表情は動かず、会話しようという意志もない。そんな壱里とは裏腹に、愛華は可愛らしく包まれた弁当箱をほどきもしていなかった。


「……ねぇ、壱里ちゃん…………」

「何?」

 いつもの調子で小さく呟く声音は、無人の部室にあってはよく響いた。

「その、怪我の具合――どう?」

「良くはないわね。歩けはしても走るのは無理でしょう。昨日見たわよね、愛華も。あれを見て、ここへ来るまでの歩き方も見ておきながら良いように見えたのだとしたら、それはよほどの能天気か愚か者のどちらかでしょう」

「……なんだか、酷くない?」

「能天気は今に始まったことじゃないわ。しっかりして見えるけど、その実頭の中にはお花畑。それがあなたでしょう?」

 いや、むしろ文芸部副部長という立場。きっとこの少女は頭の中にお花畑を飼いならしている。刺すような壱里の目に、愛華は困ったように笑みを浮かべた。


「手厳しいな……もしかして壱里ちゃん、ちょっと怒ってる?」

「…………ちょっと?」

 底冷えのするその声に、包みをほどき蓋を開けかけていた愛華の手が止まった。

「ええ、怒ってるとはちょっとね。大半は苛立ちよ。あなたは昨日見たし、聞いたでしょう? 私みたいな異常者が日常にいるって知ったのに、こんな風な関係を続けられるその能天気さに苛々するわ。どうしてそんな風に笑ってられるのか、その理由がわからないもの」

「どうして、って、私壱里ちゃんの友達だし」

「友達だから、殺されない理由になると思ってるの? だとしたらおめでたいわね……友達であることは、十分殺す理由になるわ」

「だとしても、壱里ちゃんは壱里ちゃんだもん。いろいろ助けてあげたいって思うし、それに昨日の怪我だって――――」

「愛華」

 箸を取り上げるその動作を遮るように、壱里は怒気を含んだ声を発した。


「――――あなたは、私が人殺しだって理解してるの?」


 昨夜、治療のために愛華の家に運ばれる道中壱里は彼女に告げている。今起こっている無差別通り魔事件の犯人は自分であり、愛華が見たのはその最新の現場、この行為は犯人逮捕を妨げる行為に他ならないと。


 淡々と語られたが故に真実めいたその言葉を、少なくとも愛華は事実として受け取ったはずなのだ。にもかかわらずこれまでの関係を維持しようとするその行為が、壱里には理解できない。

 しかし事実は事実。その点に関しては、愛華も頷かざるを得ない。


「うん、それは、昨日聞かせてもらったから」

「そう……だとしたら、この関係は終わらせるべきだわ。あなたは目撃者、私は殺人者。殺される人間と殺す人間の関係なのだから、あなたは私の傍にいるべきではないわ」

「でも壱里ちゃんは優しいよ」

 ぐっ、と壱里は言葉を詰まらせた。


 返す言葉のない沈黙の中、止まっていた動作を再開させる愛華とは裏腹に、壱里の中から動きが消える。

「……それは勘違いよ。私は、優しくなんかないわ」

「ううん。壱里ちゃんは優しいよ。だって、本当に私に酷いことするつもりだったら、きっと何も言わずにやっちゃってるはずだもん」

「わからないわよ。今こうしている瞬間も、私はあなたの命を虎視眈々と狙っているかもしれない」

 隠し鞘は健在、収められた得物も、また存在している。

「でも私、信じてるから。壱里ちゃんは私に、酷いことしたりしないって」

「っ――――どこまで能天気なの……あなたは」


 歯噛みする。形容しがたい苛立ちが募る中、自然壱里の手が制服腰の隠し鞘、そこから顔を覗かせる柄頭に伸びる。

 その位置に何があるのかを理解しているのか、愛華の顔に一瞬怯えが走った。


「昨日伝わらなかったようだから、はっきり言ってあげる」

 すらり。鞘から抜き出した匕首の刃を見せつけるように、壱里は二人の間に置いた。銀の刃が映す壱里は、無表情。


「愛華、あなたは今私という人殺しの生殺与奪の権利を握ってるも同然なの。目撃証言、証拠、凶器の全てを見たあなたがしかるべき機関に通報すれば、私は瞬く間に逮捕され社会的に死亡する。誰だって殺されるのは嫌なもの――――だから、人殺しは目撃者を殺すの」


 机の上の匕首を返し、柄の位置を入れ替える。愛華の右手が柄の元、壱里の右手が刃の峰へ。銀の刃が映す愛華は、困惑の表情を浮かべていた。


「そん、なこと……私、絶対……絶対、しないよ……?」

「そうかもしれないわね。だけど、証明する手段はないわ。今ここで席を立った瞬間、あなたが通報する可能性は十分にあるもの。それに、通報しないだけの理由もないわ」

「あるよ。だって、壱里ちゃんだって本当はわかってるんでしょう? 人殺しは悪いことだって、酷いことなんだって。だから、私考えたの。壱里ちゃんには、きっとそうしなきゃいけないだけの理由があるんだって。だから、私力になりたいの! 壱里ちゃんのこと、助けてあげたいの!」


「――――だったら、今すぐその匕首で、私のことを殺してくれる?」

 冷淡に告げられた声に、愛華は声を失う。


 さらりと髪を掻き上げた拍子に袖口が捲れ、左手首からかつての自傷の痕跡――白色の包帯が覗いた。


「どうしたの? 力になりたいんでしょう? 大丈夫、簡単よ? しっかり握って、首の横に突き付けて、しっかり引っ張るの。それだけで、不慣れなあなたでも私を殺せるわ」

 立ち上がる。愛華の体がびくりと震える。怯えた目が壱里を射抜く。それらを無視して左手で机の上の匕首を拾い上げ、力を失った愛華の右手に握らせた。


 そしてそのまま、刃を首へ。

 頸動脈の直上、肉を圧迫する力。十五センチ、それだけの動きを以て、壱里を絶命させうるであろう場所。わずかな痙攣でも傷をつけるそんな刃に触れながら、


 壱里は、笑んでいた。

 愛華は、怯えていた。


「これでいいわ。さあ、後は一息よ。少し力を入れて、引っ張るだけでいいの。力になりたいのなら、やりなさい」

「――――ゃ……」

「ほら、どうしたの? 力になってくれるんでしょう? 大丈夫よ、頸動脈ならすぐに脳への血液供給が止まって意識が途切れるらしいから、私は苦しまないわ。あなたも血は被るかもしれないけれど、それはごめんなさいね」

「いやっ……そんなこと、したくないっ……」

「したくない……? 力になるって言っておきながら、こんな簡単なこともしたくないの? だったら、最初からそんなことを言わないで欲しいわね。人殺しの力になるって、あなたは言ったの。ただのリストカッターのお友達になるのとは、わけが違うのよ」


 ぐっ、と愛華の右手に力を込める。首筋に走る痛み。わずかでも滑れば頸動脈を切断されるであろう刃。それでも壱里は躊躇なくその腕に力を込め――――



「いやぁっ!」



 愛華の右腕が、全力でその手を振り払った。


「――――痛いわね……」

 壱里の首から血が流れ出す。振り払われた際に僅かに刃が滑ったのだろう、頸動脈には達してはいないものの、それなりに深さがあるらしく出血は多めだ。

 怯えの滲む表情で呆然とする愛華を余所に、壱里はポケットから取り出したハンカチを押し当て、慣れた仕草で止血をしつつ床に転がった刃を拾い上げた。


「――――これでわかったでしょう? 私は異常者の人殺しよ。ついでに言えば、自殺者でもあるわね。これに懲りたなら、もう私に近づくのはやめなさい。もしかすると、次はあなたが死ぬかもしれないわよ」

 隠し鞘に匕首を戻し、ハンカチを押し当てたまま愛華に背を向ける。


「さよなら、愛華。もう会わないといいわね」

 ――――その背中に、一体愛華はどんな言葉を返せただろう。

 去っていく友人に声をかけることすらできず、残された少女はただその背を呆然と見送った。




 そして、そんな二人の少女を。


「……………」

 窓外の梁に潜んだ赤みがかった髪の少年は、ただ見守っていた。



    × × × ×



 ――その夜。

 甲元愛華は町にいた。

 厚手の革コートにデニムのズボン、運動用のスニーカーといった格好は、愛華の普段の町歩きの格好ではありえない。そもそも学則という規則を律儀に守り続ける性格の愛華にとって、今の時間に町を歩くということ自体、ありえない行為であった。

 そんな不似合いを理解し、愛華は思う。何をしているんだろう、と。

 電柱の陰、見上げるマンションには、友人の家がある。

 放課後も可能な限り一緒にいたかったが、拒絶するような態度、周囲に目をやる鋭い空気は明らかに愛華を警戒しており、そしてそんな鋭さを感じながら無神経に近づくことのできるほど、愛華に胆力はなかった。


 しかしそれでも、せめて。

 愛華は思う。友人は、どうしてこんな行為に及んでいるのだろう、と。

 夕方に催された一方的な相談会、会話を試みようにもその友人は愛華を拒絶し、近付くことすらできない。

 話す機会があるとすれば、夜。

 話す理由ができるとすれば、次の行為を目撃した時。

 行為を止めようとは、思わなかった。いや、正確には止めることを諦めてしまったため、思うことがなくなったといった方が正しい。あの友人はとても脆い。その在り様はガラス細工。とても美しく、見様によっては強靭で尖っているように見えども、その鋭角さは同時に脆さの表れでもあるのだ。触れれば相手もろとも己を傷つけ、致命を避けるため痛みを受け入れる。それがあの友人の性格であると、愛華は良く知っている。


 人殺しは、悪いことだと思う。

 だけど、そこにある理由が何なのかを知らずに行為だけを見て、悪いと思うのは違うと、『絵描き』の話から思い直せた。

そして――愛華には、その理由の検討が付く。昼休みの会話、そこで告げられた望み。そこから考えるに、きっとあの友人は死ぬためにこの行為を続けているのだろうと、愛華は友人を理解した。

確証はない。わかったところで何ができるのかもわからない。だが力になりたいと思い、何かするべきだと動いた以上、愛華には例え勘違いの理解であったとしてもさらに行動を重ねるべきだと考えたのだ。


 吹き抜ける冷たい秋風に肩幅を狭め、明かりの点いたマンションの一室を見上げる。


 どうか出てきて欲しい。そして、私と話してほしい。

 新たな犠牲者を望むかのような願望を抱きながら、愛華はただその一室を眺める。


 そして、わかってほしい。

 司法罰など望んでいない、私はただ友達として隣にありたいのだということを。


 その暁には行為も何とかやめさせて、当たり前の日常に帰ろう。学校に通いながら二人で物語を楽しみ、穏やかに過ごそう。足りないのは理解、話すことができれば、きっと理解できる。

 そんな風に考えながら、穏やかな表情で愛華はその友人の部屋をただ見つめていた。



 ――――甘っちょろくも。



    × × × ×



 自らの部屋を見つめる人影の存在を、壱里はカーテンの隙間越しに見つめた。


「昨日といい昼休みといい――どこまで能天気なの……っ」

 苛立ちと共に厚手のカーテンを閉ざした。

 友人の軽率な行動が理解できない。あれだけ言葉にして警告しておきながらそれでもなお近寄るその能天気さが理解できない。

命が惜しくないのか。あれだけ目立つ位置に立っていれば補導されることもあり得るだろうに、あの立ち姿にはそれすら頭に入っている様子すらない。


「――――っ」

 イラつき、歯噛みする。

 そうまでして、アレは壱里の行為を止めたがっているのか。それが壱里にとって何を意味するのかを知らずに、またそれを行う人間が壱里の中でどういう人間へと変わるのかを理解せずに、層までして見知らぬ他人の死を厭うのか。


 そして内心で、壱里は思う。

 ああ、わかっている。アレは見知らぬ他人の死など考えてもいない。アレはただ自分が、仁科壱里という人間が他者を殺害することを厭うているだけだ。


 実のところ、昼休みにああ言いはしたが、壱里も愛華が通報に踏み切るとは考えていなかった。

 甲元愛華は甘い人間だ。将来死ぬであろう無数の命よりも、今ここで消える一つの命を救うことを選ぶ、見知らぬ無数の不幸より、よく知る一つの幸福を優先する人間。よく言えば優しく、悪く言えば現実を知らない、理論よりも感情で物事を見る彼女にとっては通り魔殺人が持続することよりも、おそらくは友人である壱里が司法によって消えることの方を厭うであろうことを、壱里はちゃんと知っている。


 しかしそれでも壱里が彼女にあれだけ警告し、あまつさえ刃まで握らせたのは、単に彼女の身を案じてのことだった。

 壱里にとっての殺人はやがて来る自らを打倒してくれる人間を探すための物である。

 が、その行為は確かに、壱里の空っぽな生を一時にしろ埋めてくれるものでもあるのだ。


 自らの死が傷の完治とするならば、他者の殺害は痛みを紛らわす一時の麻薬。命を奪う背徳、自らを認識させる悪徳、心を焼き焦がす罪悪によって、壱里はわずかな間安寧を得る。そしてその実感は自らにとって罪悪であれば罪悪であるほど、長く持続してくれるのだ。

 それは例えば、相対者を探す際に放った攻撃で誤って一人を殺してしまった瞬間。

 あるいは、自らを案ずる無抵抗の友人を何の理由もなくただ実感に触れるために殺害する行為。

 そして壱里は知る。このまま自らの渇望が止まらなくなった場合自らの『自殺者』としての形は薄れ、実感のために殺害を繰り返す化け物と化すこともあり得るだろう、と。さらにその場合、もっともその毒牙に係りやすいのは自らのもっとも近くに居、もっとも自らを案ずるかの友人になるだろう、と。


 そうならないよう、警告したのに――――


「…………っ」

 ふつふつと、苛立ちが募っていく。


 いっそのこと殺してしまおうかと、危険な思慮が脳裏をかすめる。頭を振って振り払う。それは壱里にとって最悪の選択肢、最後の最後まで、その選択を選び取ることは在ってはならない。だが今のまま放っておけば、今その選択を選び取らなったところで結果は遅いか早いかの違いでしかない。


 ならば――――


「…………」

 無言で、壱里はワンルームのベッド脇に置いてある匕首を手に取った。


 部屋を横切り、赤い色の付着したスニーカーに足を入れる。隠し鞘に刃を収め、扉を開け放ち秋の冷気へと一歩を踏み出す。

 明かりはつけたまま。あの位置だ、きっと友人は気付くまい。これは警告、リスクは高いが、必要な行為だ。割り切りながら壱里は階段を目指して歩を進めた。



    × × × ×



 こっ、と一際高い足音。

 振り返ると、そこに自分が見張っていたはずの友人が立っていた。


「壱里ちゃん!?」

 立ち尽くす少女は赤い色。室内着そのままのようなパーカーを身に纏い、幽鬼の如く儚げに愛華を見据えている。

 驚愕の声も届かなかったかのように、その姿は厭世的だ。

 目線を隠すように長い黒髪が揺れている。隙間から覗く黒い目は、どこか虚ろだった。


「壱里ちゃん――?」

 驚愕の声が疑問の声に変わる。四歩の向こうにいる少女へ、壱里はゆっくりと歩み寄った。

 突然現れたその少女は何も言わない。部屋から出たばかりなのだろう、儚げな印象とは裏腹に、その体には肉の温かみがあった。

「どうしたの、こんな時間に? お家、そこだよね? もしかして、私のこと呼びにきたの? それは、へんなことしてるのは私だし、しょうがないとは思うけど――でも、私、どうしても壱里ちゃんとお話したくて――――」


 言い募りながら触れる友人。

 その無防備さを、少女は嗤った。



 ―――― ヒュン!

 その一瞬、刃物が空気を滑った。



 痛みは意識よりも早かった。

 己の首に走った熱さと流れおちる感触に昼休みの友人を幻視し、咄嗟に愛華は飛び退いた。

 首筋を、何かが流れている。ぽたり、と地面に赤い色が落ちる。

 斬られた? 首を。

 何で? 匕首で。

 誰に? 目の前の人に。

 ――――どうして?


 あまりにも鋭い痛み。脳に差し込まれる鋭さが、現実の理解を阻害する。首を焼く鋭利な刃物に、愛華の意識は縛り付けられた。

 考える余裕はない。理由を思考する間隙はない。が、それでも危険だということだけは想定として理解できる。なぜなら愛華の中には、すでに今の状況が言葉として脳裏にあったのだから。

 友人の姿を模した何かが、動く。


「――――ひっ!」

 小さな悲鳴を上げながら地面へと倒れ込む。頬を刃が舐めた。唾液のように赤い色が糸を引く。

 二重に走った痛みの感触に、今度こそ愛華は冷静さを失いかけた。


「…………だから愛華、言ったでしょう?」

 紅く濡れた銀色を倒れた愛華に見せつけながら、友人の姿をした誰かが言う。

「私は、あなたを殺す理由があるって」

 仮面のような笑みを浮かべて、友人は嗤った。


 今度こそ、冷静さを失った。

 怯える。恐怖する。狂乱する。あらぬ叫び声を上げながら、倒れた体を必死に動かして立ち上がる。背中で風を切る音。背中を熱い線が薙いだ。それでも体は必死に走る。逃げなければならないと本能が警告する。逃げなければ死ぬ。殺される。友達に殺される。殺される殺される殺される!


 幾重にも背後で刃音が鳴る。

 何度も足を取られ、転びそうになる。

 それでも必死に愛華は走る。マンション脇の林の中へ。何とか逃げ延びられそうな場所へ。ざしっ。耳元で葉が割られた。熱いのに鳥肌が立つ。荒い息をしながら奥へ、奥へ、奥へ、奥へと駆け続ける。


 林を抜けた。

 神社だった。


 昨夜見た光景が脳裏を過る。視界の隅に人影が写った。もう何も考えられない。必死に縋るようにそのコートを纏った男の影へと駆け寄る。

「助けてくださ―――っ」


 そして、どっ、と。

 腹部に重い打撃を加えられ、愛華の意識は闇に堕ちた。

 意識を失いそうになるその一瞬に見た男の顔は、



 どこか、クラスメイトの赤い髪の少年に似ていた気がした。



    × × × ×



 ――――追いかけた神社に、黒い不吉を見た。


 宵闇の神社、照らす月明かり。一人が死んだ結果の場所。

 無為に開けた薄闇の舞台の上で、その少年はそこに立っていた。


「……………」

 鬱蒼と茂った林から姿を現した壱里を前に、その人物は無言だった。全身を包む赤みがかった黒のコート、同色の髪、同色の靴。目線を長く伸びた前髪で覆い隠すその姿は、まさに影そのものの色。宵闇の不吉を更なる不吉で上塗りする、真性の不吉の権化である。


 その色を前に、壱里は理解する。その少年の身に纏うその色、

自らも染まった経験のあるその色は紛れもない、乾燥し繊維に固着した、血液の色である。

 そして、そんな色で全身が染色されているこの人物は、一体どれほどの行為を重ねてきたのだろうか。


「…………ぁっ……」

 声が漏れる。己の身が震える音、恐怖の存在を示す声。殺人者として培った壱里の理が告げる。


 この人間は、危険だと。

 怪我を負った今の状況でなくとも、壱里の性能では眼前の影に決して及ぶことはないと。

 人間としての理性ではなく殺人者としての感覚。本能じみた直感から告げられるその不吉を、しかし壱里は封殺した。

 ついで生まれたのは、高揚。ようやくこの時が来た。全身税例を賭して戦い、命を限界まで滾らせ死に至ることのできるこの瞬間が、ついにやってきたのだ。 


 歓喜が身を焼き焦がす。あの影が抱えている友人の姿など、今はどうでもいい。生きているのか、死んでいるのかすら定かではないのだ。重要なのはこの瞬間の実感。自らが生きていると、全力で生命を受け止めてくれる人間がいるというその感覚だけ。


「――――はっ、は!」


 得物を隠すことも戦意を誤魔化すこともなく、壱里は林から神社の広場へと歩み出た。

 すでに抜刀された匕首を半身に構え、相対する。

 壱里は感覚する。向けられているのは間違いなく殺意。現状が理解させる。あれの目的は間違いなく自分。ならば、あの人物は間違いなく自らを殺すべく動く、と。

 そして、そんな悠長な思考を遊ばせる壱里を。

 影は、嗤った。



 ―――― ギンッ!!

 壱里の手中で、構えられた匕首が鋼の叫びをあげる。



「――――なっ!」

 現状よりも感情が早い。

 刹那に起こった現実に、壱里は驚愕する。先程まで五メートルの間合いにあったはずの影の姿は瞬きで眼前。壱里の構えた匕首に自らの刃を叩きつける一撃を、すでに見舞っている。


 止められたのは、いかなる偶然だろう。

 あるいは、それは影からの警告だったのだろうか。


 壱里の目の前で匕首とかみ合う鋼は、五指。人影の右手、そこに嵌められた漆黒の皮手袋の五指先端から伸びた、五本の金属の刃だった。

 薄く湾曲し、鋭利に研がれた鋼の爪。エルム街の夢魔を体現したかのような武装を、壱里は全霊の力でもって弾き返す。

 が、弾いた瞬間に影は壱里へ歩み寄る。

 一歩の軽い挙動は、獣の様だった。



 ぞぶん、と。

 壱里の腹部に、影の左手が差し込まれる。



「ぁ――――が、ふっ――――」


 それはひどく単純な動きだった。

 そして、酷く残酷な行動だった。

 腹部に感じる灼熱の冷たさ。ありえない違和感に、壱里は己の腹部を見下ろす。

 突き刺さる影の貫手、その先端は右手同様刃。今や指先どころか指の半ばまで埋まったその手袋は、てらてらと輝く赤い色に濡れている。

「…………あ、あぁ――――」


 刺された。

 そう理解した瞬間、壱里の体が影によって投げ捨てられる。

 肉体の内側を持って行かれそうになる違和感、ついで全身を焦がす灼熱。思わず伸ばされた左手に、赤い感触が滑る。


 神社の砂の中に、赤い色が滲む。

 それが己の腹から流れ出る物からだと、壱里は遅かれながら理解した。


「――――けふっ」

 冷たい砂に背中を打ちつけて、壱里は咳き込む。

 倒れ込んだ壱里の脇に立ち、影は髪の向こうから冷たく、壱里を見下ろしていた。


 左手から赤の滴がしたたり落ちる。

 落とされる目に迷いはない。ただその眼にあるのは無感動。障害にすらなり得なかった物に対して向ける、痛烈な失望の感情だった。


 ――――そしてようやく、壱里は理解する。

    この影と自分とでは、生きている場所が違ったのだと。


 実感を得るためだけに殺してたのが壱里だとすれば、この影は殺人こそ生きる目的の全て。副産物だけを嗜好した壱里と本質を欲した影とでは、そもそもの比重が違い過ぎたのだ。


 歯牙にもかけられず、ただ払われるように、倒れている。

 秋の夜に寄る物ではない寒さに這い寄られる。

 出血の感覚で理解できる。このままであれば十分と持たず死を迎えるであろう、と。



 ――――脳裏が霞んでいく

     視界が霞んでいく――――

 ――――手足が痺れていく

    身体が震えていく――――

 ――――感覚が消えていく

    記憶が流れていく――――



 すべてが溶け、滲んでいく感覚の中で、壱里は思う。

 結局、自分は何をしたかったんだろう、と。

 十人を優に超える人間を殺害し、己の身を傷つけ、友人を怯えさせ、そうまでして一体自分は、何を追い求めていたんだろう、と。



 ――――すべてが遠くなっていく



 答えは、探すまでもない。その感覚は、いつでもすぐ傍にあった。

 私は、ずっと『生きたかった』。

 無為な生ではなく、有為な死を。

 死ぬ続ける生ではなく、一瞬の生を見る死を。

 しかしその願いの根底は、結局ただの生存願望。

 私は、私は――ただ命を感じたかったに過ぎなかったのだ。



 ――――遠ざかっていく。

     命が、消えていく――――


 …………いやだ。

 こんな冷たいのは嫌だ。こんな痛いのは嫌だ。こんな痺れるのは嫌だ。こんな暗いのは嫌だ。こんな遠いのは嫌だ。こんな流れていくのは嫌だ。こんな溶けていくのは嫌だ。


 コンナ、死ンデイクノハ嫌ダ…………


「――――ゃだ……わたし……死にたく、な――」

 でも、もう何も動かなかった。


 白く眩んだ視界の中、死の実感だけが繰り返す。

 これが、自分の埋めようとしてきたもの。

 これが、自分の与えてきたもの。

 遠すぎて薄すぎてわからなかった、壱里の空虚の正体。近付いてようやく掴んだ、醜悪で身勝手で悪辣な、己の願いの根底。

 こんなものを与え続けてきた痛みの重さに、感じないはずの痛みを感じた。


 喉元へと逆流する血液の感触に苦痛を得る。びくん、と体が痙攣し、右手から匕首がいずこへと転がった。

 消えていく孤独に耐えきれず、壱里は己の願いを口にした。

「――――わた、し………もっと…いき、て………」

「生きたいか?」

 眩んだ視界の向こう、黒い影が壱里を見下ろす。その五指は刃。他者を殺めることしかできない拒絶の指先。

「生きたかったなら……もっとマシに動けばよかったんだよ、お前は」

 最後に、影はそんなことを言った。

 命の重さを知るためには命に触れるしかない。だけど自分は、その手段を間違えすぎた。

 間違った。その実感を得るためにあまりに多くを殺してしまった。

 もし、と思う。もしかしたらあったかもしれないその先、そこには一体、何があったのだろう、と。

 だけど壱里にはそんなことを考えることすら許されない。壱里は、あまりにも多くを殺めすぎてしまった。

 視界の隅、影の右手が伸ばされる。

 そしてその五指の爪が、緩やかに壱里へと、別れを告げた。




    × × × ×




 事件から二か月。新年に入ってから一つ目の仕事を終え、無限沢野分はようやく学生の身分へと帰還した。


 仕事、と言っても二か月前の一件ほど単純に片は付かず、二週間ほど追い回してようやくの討伐と至った、長い職歴の中でも厄介な部類に入る仕事である。

 長らく続いた情報収集に方々への根回しの末にようやくのことそいつを追い詰め、生死のやり取りを終えたのが昨夜のこと。

 気が付けば始まっていた冬休み、しかし始まっていたからと言ってやることもないその時間に立ち寄った文芸部の部室で、久しい顔にであった。


「――――おっ、甲元か。どうした? 冬休みだってのに」


 日当たりのいい窓際の席、愛用のデスクの上にノートパソコンを広げるおとなしげな顔が、闖入者である野分を見据える。


「あ、遠野君……。ちょっと家じゃ集中しにくかったらか、長期休暇登校。ほら、うちの部、休み明けに講評会やるからいい加減これも書き上げないとね。そういう遠野君は、どうしたの?」

「俺はただの暇つぶし。仕事終わって出てこれるようになったはいいんだけど、やることなくてな……」

「ふふっ……遠野君らしいね」

 どこか儚げな表情で、甲元愛華は微笑んだ。


「見てていいか? 他にやることもないし」

「いいけど、覗かないでよ? まだ発表前だから推敲も酷いし、まだまだ途中なんだから」

「わかってるよっ、と」


 窓際の席、向かい合うような位置にある椅子へ背もたれを抱え込んで野分は座る。愛華の広げるデスクトップの中身は覗けないが、その中身を野分はとうに知っている。そこに描かれているのは一人の少女の困惑の話、通り魔事件を目撃し、友人がその犯人であると告げ、それでも理解を求めてその友人に歩み寄ろうとする理解の物語だ。



 ――――結局、二か月前の事件の犯人は不明のままで終わった。

 疑うべき痕跡が山のように残されていたことから、司法は当初最後の事件で被害に遭った少女が犯人かと疑ったらしい。が、貫通創寸前であった刃物の傷が過去の犠牲者の凶器である刃物と連想が結びつき説得力が増したこと、友人の口添え、何より被害に遭ったというその状況が、少女が犯人であることを否定した。


 その一件以来被害もぴたりと停止したことから疑う声は増したが、結局のところ事件の捜査は続いているもの検挙に至ることもなく、世間にはわずかな恐怖が残ったままとなった。

 人殺しの狩猟者たる《無限沢》が刈り取った人殺したる少女の意志は粛々と世間の闇に葬られ、日常はわずかな変遷を生みながらも、日々は続いている。

 内側に飲み込んだ狩猟者の存在を悟らず、

 捻じ曲げられた被害者と加害者の関係に、気付くことなく。


「進捗はどうだ?」

 被害者友人であった少女に、加害者殺害の狩猟者は何食わぬ顔で尋ねる。たかたかとタイピングする手を止めず愛華は、

「うん、この調子だと大丈夫――かな。難しいところとかいろいろあるけど、この具合ならたぶん間に合うと思う」

「ほう、やっぱりお人好しの甲元さんとしては殺人鬼の話はお難しくていらっしゃるようで」

「そうなんだよね……いろいろ考えてみたんだけど、どうしても動機とかそういうところになると思いつかなくて。――ねえ、遠野君だったら、どう書くかな?」

「どうって?」

「通り魔の人の、動機とか――――」

「動機、ねぇ…………」

 思わせぶりに野分は腕を組んだ。


「別に、そんなのどうでもいいんじゃないか?」

「どうでもいい、って――――」

 困ったような声で言う愛華。底意地の悪い返答にも聞こえるそれに困惑を隠さず、愛華は尋ねる。


「――――それって、動機なんてないかもしれない、ってこと?」

「いや、動機はあるだろ。どんなことにだって理由ってのはあるわけだし、なら人殺しだって同じだ。俺が言ってるのは別に、細かく考える必要なんてないだろってこと」

「どういうこと?」


 手を一切止めず目も合わせることなく疑問符だけを浮かべて表情を困らせるという奇妙な技を披露する眼前の友人に、野分は思わず苦笑した。


「つまり、適当でいいってこと。そいつが人殺しなんて行為に及んでる以上、そいつは絶対自分の殺人に疑問は持ってない。これが自分にとっていいことだって、全身全霊で信じてんだ。で、それがいいことか悪いことか判断するのは他の人間。『絵描き』さんも言ってたけど、要はそういうことなんだよ」

「うん――――」

「で、いいことか悪いことかを決めるのが他の人間、つまり登場人物だっていうなら、動機なんてどんなものでも変わんない。登場人物が思いたいように思えるんだから、それが別になんだって、変わらないだろ、ってこと」

「――――うん」

 どこか納得を含んだ声で、愛華は頷いた。


「……じゃあ、二か月前の犯人も、そうだったのかな……」

 一人呟くような声で漏らしたその声は、憂いを含んでいた。


 二か月前の少女がどのような動機で犯行に及んでいたのか、野分は明確には知らない。知りたいとも思わないし、知る必要があるとも思わない。思うのはただ一つ、そこに行為があった以上、何らかの形で少女は少女として動く理由があったのだろうという、それだけのこと。


 生きたいと、あの瞬間少女は願った。

 泣いているような、求めるような表情で少女は祈った。

 それがどんな環境に裏打ちされているのか、野分に知る由はない。

 しかしそれでも、命の重さを知った彼女のことを、野分は信じようと思った。


「ま、そうだったんじゃないかって俺は思うけど」

「……そっか」

 瞬間、文芸部室の引き戸が開けられる。冬の寒気が部屋を掻き乱し、踊った空気に二人は振り向く。



「――――あら、珍しい顔がいるわね」



 着込んだコートを脱ぎ、巻かれたマフラーを外してその黒髪の端正な少女は友人の元へと歩み寄る。


「愛華はわかるとして――八刀君、あなたがこんなところに来るなんて、どういう風の吹き回しかしら?」

 咎めるような響きを含む声だった。

「別に、ただの暇つぶしだよ。仕事が一段落したらやることがなかったんだ。そっちこそ変な時間にどうしたんだよ――――」

 からかうような目で野分はその少女を見返し、


「――――壱里」


 向けられたからかいの目に、毅然とした色を壱里は返した。

「別に、少し病院に行っていたから来るのが遅れただけよ。第一講評会用の作品はもう出来上がっているから、そもそも部室に来ること自体不要だわ。それより、私としてはどうしてあなたが暇つぶしにこの場を選んだのかという、その一点なのだけれど」

「校舎内ふらふらしてたら辿り着いただけだ。第一、友達のいるところに行くのに理由がいるか?」

「友達? 私とあなたが? ……つまらない冗談ね。私の記憶にはあなたと友人契約を結んだ覚えはないのだけれど」

「お前と友達ってのは俺も初耳だな。どっちかと言えば、俺は甲元との関係を示したつもりなんだけど、どうやら文芸部のお姫様は少し気位がお高くまとまっていらっしゃるらしい」

「なんとでも言うのね、赤髪。没個性に埋もれた人間にはわらかぬ苦労もあるのよ、とやかく言われる筋合いはないわ」


 いがみ合う二者、火花を散らす二人。もはや日常とも言える光景となった言い合いを眼にし、ほのぼのと愛華は笑った。


「二人とも、相変わらず仲いいね」

「どこがだよ」「どこがよ」

 返す言葉は奇しくもほぼ同じ響きを持っていた。


 反するが故に似通った二人。奇しくもその感性は対極であるが故に鏡映しであるかのごとく、よく似ているのだ。

 否定するつもりで更なる類似を証明してしまった二人は顔を見合わせ、眉根を寄せる。くすくすと忍び笑う愛華を一瞥して、薄くため息をつき、

「…………不毛ね」

「…………だな」

 二人そろって、諦めたような息をついた。



 ――――結局あの日、無限沢野分は仁科壱里を殺さなかった。

 情けをかけたわけではない。が、無限沢としての倫理が彼女を殺すべきではないと告げたのだ。


 彼女のしたことを、許したわけではない。

 だが最後に命を求めた彼女は命の重みという物を理解している。だからこそ、事件を止めることを目的とした野分にはその瞬間彼女を殺す理由がなくなり、結果あの夜に野分は壱里を救命することにした。

 そして認識は歪み、壱里は生き延びた。

 最終的に十八人を殺害した『自殺者』は死に、

 新しい形として、生き返ったのだ。



 だが生まれ変わったとしても、彼女の犯した行為の責は消えるわけではない。

 故に――――



「あ、そうそう」

「何……?」

「そろそろ『バイト』の研修上がっていい、ってよ。来週あたりから、いよいよ『現場』だ」

「…………ええ」



 人を殺す罪科を侵した以上、その罪は消えない。下されるべき罰は命への罰、司法罰ではない自らの押し付けた理不尽な死を以て死してこそ、その罪は購える。


 殺人はただの行為であり、悪ではない。

 しかしそれは、紛うことなき罪なのだ。

 だからこそ、償うためには、やりきる必要がある。

 踏み越えた先、罪を背負った、その先で。





 ――――《殺人狩猟集団・無限沢》

 それは殺人鬼を狩猟することを旨とする組織である。司法では追えず司法では捉えられず司法では裁けぬ殺人者、世を跳梁する獣に等しい存在を、その集団は狩る。

 正義ではなく家業として、事業ではなく作業として、かの組織は人を殺すのだ。

 社会の内側に存在する殺人者を狩る、社会の中に存在しない人間の価値観を捨て去った非人間の狩猟者集団、それこそが彼らの集団の本質だ。

 身分も学歴も財産も、名前ですら捨て去った狩猟者たち。名乗る名前は偽りで、背負う身分は虚実の仮面。しかしそれは紛うことなき元人間。所以あって人の形を外れた人ならぬ人、それこそが彼らの実態である。

 そして中には、人を殺すことでしか生を実感できない少女や、

 非人間たるが故に人を見失った少年などの若人も、存在している。


 かくして長夜の戦いは終わり、殺しの時間は幕を閉じた。



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