攻防と涙
そのままなぜかとってもご機嫌なラサさんに引っ張られ、私は店員の仕事も途中で店の奥――さっき男に絡まれたような死角ではなく、完全な個室――に連れ込まれた。
部屋は決して広くはないけれど、置かれている家具は落ち着いた色合いで、そういうことに詳しくない私の目から見ても高級感に溢れている。どう見ても、特別な感じ。
ラサさんは私の腕を掴んだまま、丸いテーブルの側にあるソファに腰を下ろした。当然、私も引っ張られてつんのめってしまう。ラサさんの、平らな胸の中に。
「ら、ラサ、さん!?」
「なあんだ。“あの”ルワンロンが骨抜きになるくらいだから、よっぽどだと思ったのに、貧相な身体ねえ」
「なっ――」
未だ震えの収まらない私を胸の中に閉じこめ、ラサさんは逃さないとでもいうように腰にあてられたのと別の手で、私の身体をするするとまさぐる。
その何とも言えない感触に、少しのくすぐったさと力で敵わない相手に対する恐怖を感じ、私はますます身体を震わせた。
そんな私の様子に、ラサさんの薄い青の瞳が楽しげに細められる。
「あたし、言ったわよねえ? “簡単に相手の言葉に乗るな”って」
「あ……」
「なのにあんたは、あたしが店の手伝いを頼んだら何の疑いもなくほいほい誘い出されちゃって。ほんと、馬鹿な子。ルワンロンになんて言い聞かせられてたのよ」
かかった獲物をいたぶるような笑みを覗かせ、彼女――いや彼は、つっと人差し指で私の顎を上げさせた。
ルワンロン――シャオランさんに毎日のように言い聞かせられていたこと。
――決して部屋から出てはいけない
ただの過保護だと、心配性なんだと、頭のどこかで軽く考えていた私自身が腹立たしい。
彼はきっとこういうことを危惧して、先に私に気を付けるように忠告してくれていたのに……!
男に好き勝手されかけたことより、圧倒的な力を持って私の意志を無視するラサさんより、何よりも自分の浅はかさが悔しくて、目の前で面白そうにこちらを見ている美しい顔を睨み付けた。情けなくて、知らずに涙がにじむ。
シャオラン、さん……!
心の中で彼の名を強く呼ぶ。
だからって、スーパーマンのように都合良く彼が助けに来てくれるなんて、そんなことは絶対に起きないって知ってるけど。それでも祈るように、私はただひたすらにその名前を心に思い浮かべた。
ゆらゆらと涙のせいで揺らぐ視界の中、面白いおもちゃでも見るような目で、ラサさんが私を見つめている。小動物をいたぶりながら追いつめていくような彼に、私は最後の強がりでぎゅっと目を閉じた。この人に涙を見せたくない!
「へえ……、俺の前で目を閉じるのか」
再び、女性的なものから男性的なものへと口調が切り替わる。その声がひどく弾んで聞こえた。
閉ざした視界の代わりに敏感になった耳。楽しげな声音に何かの危機感を覚え、私が目を開けるよりも早く、ふわりと目尻の辺りに柔らかなものが押しつけられた。
柔らかくて、温かいもの。
それは私の目尻に溜まった涙を吸い取るようにして、ちゅっと小さな音をたてると再び唐突に離れていった。
驚いて目を開けてしまった私の面前には、どこまでも透けるように清廉な青の瞳。予想外に近くにあったそれに私は息を止めた。な、なに? 今の!
何かが触れていた目元に当てようとした手を、掴まれる。またもびっくりして視線を落とせば、ラサさんがやんわりと、でも振りほどけないくらいの力で私の手を握りしめていた。
そしてそれをゆっくりと掴み上げ、自分の口元まで近付ける。指の先に唇が、触れた。
「ラサ、さん……!?」
「俺の前で目を閉じたら、何をされても文句は言えねえんだぜ?」
そう告げた赤い唇の間から、薄紅の舌が覗いて私の指先に絡みつく。温かくて柔らかな感触に、私は小さな悲鳴を上げた。
「や、やめ……っ」
慌てて手を取り戻そうと力を込めても、逆にラサさんはまるで飴でも頬張るかのようにますます私の指に吸い付いた。
くすぐったさと背徳的な感覚から何とか逃れようと、私は身をよじる。けれど、中途半端に引き寄せられていた身体は、さらに彼の身体に密着させられてしまった。
せめてもの抵抗として胸に置いた手。そこから伝わる体熱に嫌がってもがこうとすれば、頭上からは嘲るような笑い声が振ってくる。俯いて彼の視線から逃げようとした私の顎を、ラサさんが強引に掴んで上向かせた。再び交わる、視線。
ようやく指を離した唇が歪む。
「面白いよ、お前。なんか、泣かせたくなる」
そう言って笑ったラサさんは、確かに男の人だった。
どうして今まで気がつかなかったのか、自分自身の迂闊さに私は唇を噛む。
ほっそりとした、でも女の人の身体では決してない硬さがある身体。そこから漂う、微かなおしろいの匂い。振り払えない強い力。たおやかな美貌。
ちぐはぐだけど、どちらも不思議なほどに妖しく彼の中で混じり合っている。
「ぜ、絶対に、泣きませんっ」
やっとのことで言い返した私に、ラサさんは少し目を細めた。
そうして喉の奥で低く笑い、怯えながらも彼に逆らおうとする私の反応こそを楽しむように、赤く染められた唇を舌でなぞる。獲物を目の前に舌なめずりする猫のよう。
「いいぜ。どこまでやったら泣くか、試してみよう」
笑みを含んだ言葉の意味を理解するより前に、ラサさんは私の両手首を掴み直し、ソファに座った自分と位置を入れ替えるように引っ張った。
ぐるん、と視界が回る。柔らかなソファの座面に押し倒されている、と気付いたのは、ラサさんのふんわりとした赤い髪が鼻先に垂れてきた時。少し古びた木の天井を背負い、彼はやっぱり楽しそうに私を見下ろしていた。
手首を掴んでいた両手が、私の頬を包み込む。大きな手。我に返って起きあがろうにも、彼の身体が器用に私を押さえ込んでいて動けない。
「や、だ……っ」
「もう泣くの?」
泣き言を口にしかけた私に、それを煽るような言い方でラサさんが微笑んで言う。私は首を振りながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。
瞬きをしたら滲んだ涙がこぼれ落ちそうで、覆い被さった彼の美しくも意地の悪い顔をひたすらに睨み付ける。
「じゃあ、これはどう?」
静かに顔を近付けてきたラサさんが、そう言って唇を落としたのは私の喉元。
距離を詰めてくる彼から何とか離れようと、仰向けの状態で顔をそらしていたのがあだになった。晒された喉に柔らかなものが触れ、それからいきなりがりっと歯を立てられる。びくっと陸に打ち上げられた魚のように揺れた身体に、喉に食らいついたままのラサさんが笑い声を漏らした。
「あーあ、赤く痕になっちゃったわよ? これはルワンロンに言い訳できないわねえ」
「も、やめて、くださいっ」
「いやよ」
噛みついた場所を舌で舐めると、今度はそのまま顎のほうまで上がってきた。ぬるりとした感触が、ひどく気持ち悪い。
すでに目には涙がいっぱいに溜まり、もう少しでこぼれ落ちそうなくらいにゆらゆらと揺れていた。それをじっと見つめながら、ラサさんは吐息がかかるほどに近く、私の顔を覗き込む。冷たい美貌が愉悦に歪んだ。
「ほら、泣けよ。泣いて許しを乞え」
「や……っ」
それでも強情に首を振った私に気分を害したのか、ラサさんは整った眉を微かに顰め、それからふうっと息を吐いた。
「もの慣れないところを見ると、あんた口付けもしたことないんでしょうね。ね、あたしが初めての男になってあげましょうか」
間近に迫る薄い青の瞳が、その時初めて欲望に揺らいだのを見る。
のし掛かられてうまく息もつけないでいる私は、背筋に走る悪寒に身を震わせた。この人は私が嫌がるのが楽しいだけ。それだけで、私の唇を奪おうとしてる!
初めてのキスを奪われることよりも、ただ自らの興味のためだけにいたぶられるそのことに屈辱を感じ、私は再び強く瞼を閉ざした。涙が幾筋か、頬を伝うのがわかる。
悔しい、悔しい悔しい!
せめてもの抵抗として唇を真一文字に引き結び、息を詰める。けれど、いくら覚悟をしても、そこにラサさんの唇が重ねられる気配は感じられなかった。
「何をしている……!」
目を閉じたままの私の耳に、不意に聞き慣れた声が届く。
まさか、と思って恐る恐る目を開けてみれば、そこにはラサさんの首に剣の切っ先を突きつけたシャオランさんが立っていた。