南門の王
猫のようにきゅっと釣り上がった氷色の瞳が、凍えるような冷たさで大きな音のしたほうを睨み付けている。
そこにはさっきまで私に貼り付いていた男の姿。
あの一瞬で何がどうなったのか、男は椅子やテーブルと一緒に店の壁に叩きつけられ、呻き声を上げていた。
「お利口さんに有り金を全部置いて出て行くか、俺に口では言えないような所に何かぶち込まれるか、十ミニートで選べよ」
男を睨み付けたまま私を背後に押しやると、ラサさんはヒールの踵を鳴らしながら少し弾むような声をかける。
どこからどう見ても、姿形はいつもの美しいラサさんのものなのに、声だけが違う。それは明らかに男性のもので……私は一連の出来事にぐるぐる回る頭を振った。
「な、んだあ?」
混乱する私よりも先に我に返った男が、自分の上に乗っかっていた椅子を乱暴に押しのけ、ゆっくりと立ち上がる。
「客に何してくれてんだ、ああ?」
「いち」
投げ飛ばされた余韻でふらふらと揺れながらも、男は憎しみに満ちた瞳で目の前に立つラサさんを睨み付ける。
ラサさんは男の言葉に眉のひとつも動かさず、淡々とカウントダウンを開始した。
店の片隅で突然始まったいざこざに、それまでざわめいていた店内はしんと静まりかえっている。その中に、低いラサさんの声が響く。
「にぃ」
「何だこの変態野郎が!」
男は完全に怒りに我を失い、両足に付けていた小型のナイフのようなものを手にした。店内を照らす暖色の照明に切っ先が鋭く光る。
両方の指の間にずらりと並べられたナイフ。男はそれを器用に操りながら、にたあっといやらしい笑みを顔に浮かべた。
「そのお綺麗な顔だけは勘弁してやる。その代わり、俺のこれを突っ込んでひいひい啼かせてやっからなあ!」
「さん」
怒声とラサさんの声が重なった瞬間、手にしていたナイフが空気を切り裂くような音とともに男から放たれた。
見ていた私が悲鳴を発するより前に、それは真っ直ぐに鋭くラサさんの左胸に突き刺さる。鈍い音がひとつ、ふたつ、みっつ。ラサさんの肩越しに、ナイフを命中させた男の残虐な笑みが見えた。
嘘、だよね? まさか、そんな……!
完全に凍り付いてしまった身体を無理矢理に動かして、私が目の前のラサさんに手を伸ばした。すると、ふわりとラサさんのワンピースの裾が翻り、何か黒い影が宙を舞ったように思った次の瞬間。
「ぐ、ああ……っ!」
くぐもった悲鳴が男から上がったかと思うと、その身体は再び何かに弾かれるようにして床にたたき付けられた。今度は相当にダメージを負ったらしく、男は身体全体を激しく痙攣させて床をのたうち回る。
そこに、ラサさんはゆっくりと近づいていった。胸には三本のナイフを突き立てたままの姿で。
そうして長い足で男の胸を思い切り踏みつければ、彼は口から泡を吹きながら唯一自由になる両足をばたつかせた。
「俺は出ていくかぶち込まれるか選べって言っただろうが。誰が俺の胸にお前の短小をぶち込めって言ったよ、クソ野郎」
「お、まえ……っ、なに、し、た……っ」
病気の動物のような息を吐きながら、男は血走った目を自分の上に足を乗せたままのラサさんへとむける。やんわりと置かれているように見える足は、男の必死の抵抗にもびくともしない。
「俺の服が台無しだ。けっこう気に入ってたんだぜ? 赤い髪に緑の服がよく似合うだろ?」
「変態、野郎、がっ」
「子供に欲情するお前に言われたくねえな」
男の精一杯の嘲りにラサさんは氷点下の笑顔で答えながら、胸に突き刺さっていたナイフを抜いた。
するとその場所からは、血が出る代わりにさらさらと粉のようなものがこぼれ落ちる。そして見る見るうちに、あの羨ましいまでの大きな胸がしぼんでいく。え、ええ!?
「胸まで台無しだぜ、この阿呆が」
吐き捨てるように言って、ラサさんは手にしていたナイフを何の予備動作もなく男の顔の横へと突き立てた。
一瞬、男の目は大きく見開かれ、その直後に獣じみた悲鳴が店内に響く。
よく見れば、ラサさんの突き立てたナイフは男の頬を掠め、耳たぶを貫き床へと刺さっていた。じわり、と木で出来ている床に赤い血が染みていく。
「暴れると耳が千切れるぞ。それに血が飛び散ると掃除が大変になんだよ」
「て、めえぇええ……っ!」
その言葉に逆上した男は、ぶちりと嫌な音を立てて耳たぶを自ら引きちぎると、胸の上に置かれたままのラサさんの足を両手で掴んだ。
男の行動にちっとも焦った様子もなく、ラサさんはまたふわっとスカートをなびかせて、そして。
「気安く触んじゃねえよ」
今度はただ呆然と事態を見守るだけの私の目にも見えた。
スカートの中から飛び出したのは、黒くしなる鞭。目にも止まらぬほどの速さで、それが大きくうねりながら男の身体を強く打ち付けられた。
ひゅん、ひゅん、と空間を裂くような音がする度に、床に横たわったままの男が口から悲鳴にならない悲鳴を絞り出す。まるでひとつの生き物のように自在に、ラサさんはそれを操っていた。
「俺の店でよくも好き勝手してくれたよなあ? 南門からこっちは俺の領域だ。知らねえなんて言い訳は通らねえぞ、クソ野郎」
どうやって操っているのか、手にした鞭は器用に男の首に巻き付き、ラサさんはそのままぐいっとそれを引っ張り上げた。
男の口からは血の混じった涎がだらだらとこぼれ落ちる。すでに、半分意識はない状態みたい。
「まさか俺にここまでさせといて、金で済むなんて思ってないよな。中身はともかく、クソ野郎にしちゃあ目も身体も健康そうだし、あとは身体で払ってもらうぜ。――セキロク」
にたり、と童話に出てくる猫のように笑ったラサさんが誰かの名前を呼ぶと、そのまま鞭をしならせ男の身体を宙へと放り出してしまった。
はっと息を飲んでその行方を視線で追えば、いつの間にか側に立っていた男がそれを危なげなく受け止める。
フタアイさんとはまた別格の、どこか岩のようにも見える頑丈な身体をした大男。
綺麗にそり上げられた頭に無数の傷。貼りだした眉の下には小さな焦げ茶の目があり、何の感情も映すことなく腕の中の男に一度だけ視線をやる。
そして彼は無言で男を肩に担ぎなおし、静まりかえっていた店内に背を向けて正面の入り口から出て行ってしまった。
それが合図だったかのように、店の中にはまた平和なざわめきが戻ってくる。
まるで、今の今まで目の前で起きていた暴力が全部夢だったかのように。私はひとり、その切り替えについていけず、ただ目を見開いて身体を強張らせていた。と、そこに。
「それで、この騒ぎの原因であるあんたには、何をしてもらおうかしらね」
気付かぬうちに私の側まで戻ってきていたラサさんが、さっきまでの全てを忘れたかのようにそう言って微笑んだ。
そこには誰かを痛めつけて笑う残忍な影などまるでなく、いつもの美しい女性の姿。だけど――。
ナイフが刺さっていた箇所の洋服はずたずたに引き裂かれ、あったはずの膨らみはすでにその影も形もない。手には鈍く光る黒い鞭。
無意識に一歩後ろに下がった私を、ラサさんの氷色の瞳が捉えた。それだけで、鞭よりも数倍鋭い何かに巻き付かれたように、私の足は動かなくなってしまう。
かたかたと小さく震える私を楽しそうに見つめながら、ラサさんは私の耳元に唇を寄せ、囁いた。
――もうお前は逃げられないんだぜ、と。