フタアイさんと私
私のその表情からすべてを理解したらしいラサさんは、まるでどこかの女神様のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、ふわりと両の手を私の頬へと触れさせた。
意外に大きな手の感触にびっくりしたのもつかの間、私の頬は左右にぐにっと引っ張られる。地味に、痛い。
「いひゃいっ、いひゃいれすっ」
「あたしとの約束を忘れるなんて、いい度胸してんじゃないの。ああ、伸びる伸びる」
「らははんっ、ひゃめてひゃめてっ」
そのままむにむにと頬を摘まれいじられ、ようやく開放されたのは数分後のことだった。心なしか頬が伸びてしまった気がして、私は慌てて両手を押し当てる。ただでさえ丸顔なのに、これ以上はちょっと!
涙目になりながらぎゅうぎゅうと頬を手のひらで押していると、突然ばさりと何か布のようなものを押しつけられた。するっと床に落ちそうになるのを急いで掴んで広げてみれば、それは独特の形をした服だった。
黒色の、なんていうかよくカンフー映画なんかで見るような、上下の。
首元はさっき見た屋根の上の青年と同じように詰まっていて、飾りも何もないシンプルな作り。ズボンも下の方がぎゅっと細くなっている。
ええと?
「それ着て。髪はこれで結んで」
疑問を口にする前に今度は黒い髪紐をぽいっと無造作に投げて寄越され、私は思わずそれをまたキャッチ。
わけがわからずラサさんを見れば、彼女はわたしを上から下まで眺めながら頷いた。
「靴はまあそのままでもいいわ。前掛けは下にあるから着替えたら取りに来てちょうだい。あんた、髪くらいはひとりで結えるのよね?」
「え、あ、はい。あの」
「急いで支度して。フタアイたちにはもう言ってあるから、わかんないことはそっちに訊くのよ。じゃあね」
それだけ言うと、ラサさんは素っ気なく部屋から出て行ってしまった。
うーんと、どういうこと?
渡された服と髪紐を手に少しの間呆然としていた私は、さっきまでのラサさんの言葉を思い返してようやくはっと我に返った。これは、その、働く方向?
これに着替えてフタアイさんの所に行けってことだよね?
――部屋から出てはいけない
出かける前に今日もシャオランさんが私に残していった言葉が甦る。同時に、それを破った時に受けたあの究極に恥ずかしい仕打ちまでも。
だけど、ここまできてラサさんに「ごめんなさい」が通じるとも思えず、私は何とか他の打開策はないかと服を手にしたまま部屋をうろうろして……諦めた。
とりあえず、前門の虎退治。ここは前向きに考えよう、うん。
シャオランさんはここにはいないんだし、多分明け方までは戻ってこない、はず。だとしたら、少しくらい部屋を出ていてもばれない、はず。彼が帰ってくる前に部屋に戻って、お風呂に入って、ベットに潜り込んでおけば……いける! 私、意外と頭いい!
ぐっと拳を握りしめ、その計画を自画自賛。
何となく気が楽になった気がして、私は鼻歌を歌いながら着替えを開始した。何だかんだ言っても、久しぶりに部屋の外に出られるのは嬉しい。
けれどこの選択が、自分にとってとんでもない事態を引き起こすきっかけになることを、この時の私は知るよしもなかったのだった。
「お、カツラちゃん、それよく似合ってるねえ」
恐る恐る部屋を出て、ラサさんに言われたとおりに厨房に行けば、料理人であるフタアイさんが笑顔で出迎えてくれた。
この間のこともあるし、避けられたらどうしようかと思っていた私は少しだけほっとして手招きされるままに中へと入る。
「こんにちは、フタアイさん」
「おう。元気そうだな」
「はい!」
人懐っこい笑顔を浮かべて、フタアイさんは近づいた私の頭をぐりぐりと撫でてくれる。ちょっと力が強くて首ががくがくするんだけども、なんとなく歳の離れたお兄さんのような感じですごく嬉しい。
真っ白な丸首のシャツに包まれた身体はどこもかしこも筋肉だらけで、見事な逆三角形体型。撫でてくれる手のひらも分厚くて、少しごつごつしている。
顔には額から頬にかけて、左側に大きな傷がひとつ。それがもともと厳めしい顔つきをさらに近寄りがたいものにしているけれど、彼自身はとっても気安い人だと思う。
白みが強い灰色の髪と、それより少しだけ色の濃い瞳が私にむけられた。
「しっかし、あの凶悪野郎がよく許してくれたもんだなあ。やっぱ、部屋に囲うほど大事な姫さんの『お願い』ってやつには敵わないのかねえ?」
「そ、そんなことない、ですよ?」
笑って誤魔化せ。笑って誤魔化せ。
つい最近私の失態のせいでシャオランさんに脅されたフタアイさんに、「本当は内緒で来ました!」なんて言ったら、きっともっと可哀想なことになる。多分。
私は曖昧な笑みを返しつつ、そのことから話題をそらすことにした。
「ええっと、ラサさんが詳しいことはフタアイさんに訊いてって……」
「おお、そうだったな。まずはこれだ」
こちらの首が痛くなるほどの大男であるフタアイさんは、私じゃ到底届きそうにもないところに掛けられていた前掛けを手にして渡してくれた。
実用的な簡素な前掛け。これをつけろってことなんだろうと、私は渡されたそれを腰の所で結ぶ。
「うん。まあ、前にいた奴のもんだからカツラちゃんにはでけえかもしんねえけど、ちょうどいいやな。あんま身体にぴったりしてねえほうがいいっつうから」
フタアイさんの言葉に、私は自分の姿に視線を落としてみる。
確かに、渡されたこの服も前掛けもちょっと大きい。肩の位置があっていないから、きっと男物なんだろうけど……ぴったりしないほうがいいって何でだろ。
私がその疑問を口にするより早く、フタアイさんは戸棚の中から今度は何かアクセサリーのようなものを手にした。
細い鎖の先に鈴のついたネックレスのようなもの。
彼はそれを私の首に掛けるのではなく、前掛けの上から腰へと巻き付けてしまった。ぐるっと二度ほど鎖を回し、太い指で器用に留め金を止める。
「こんなもんだろ」
「フタアイさん、これ何ですか?」
満足げに笑う彼に、私は腰に巻かれた鈴をちりんと鳴らしながら訊ねた。
従業員の証……ではないだろうなあ。奴隷の証、とかだったらすごくいやだ……。わざわざ付けてくれるっていうことは、ただの飾りじゃないんだろうし。
すると、フタアイさんは急に少し真面目な顔つきになって口を開いた。
「あんなあ、カツラ。これは働いてる間はぜってえ外しちゃなんねえからな」
「は、はい?」
「それで、うちには酔っぱらいも多いからよ、そいつらがお前になんかしようとしたらこれを見せんだぞ。で、ついでに『ラサの鈴だ』って言えばそれで済むから」
「はあ……」
よくわからないけれど、とりあえず頷いておく。
何かあったら、これを見せて「ラサさんの鈴です」って言えばいいと。あれかな、これはご隠居様の印籠的な?
腰の鈴を眺めている私の頭を、またぐりぐりとフタアイさんが撫でる。
「なんつってもあのラサの店だ。無茶するような奴ぁ、まあそういないだろうけどな」
「ラサさんてすごいんですね」
名前を出すだけで他人が萎縮するほどの人なのか、と今さらながら私が感心していると、見上げた先のフタアイさんの顔が少しだけ引きつる。んん?
「ま、まあな。ラサ、だからな」
「ラサさん、だから?」
「いや、それはまあ、いいとして。お、そうだ、カツラちゃん。それでどんな仕事するのかは聞いてるのか?」
「いえ、まったく」
そこだけはきっぱりと言えば、フタアイさんはやっぱりなあ、とため息をつく。
「そもそも、ここってその……何屋さんなんですか?」
「そこから!?」
呆れたように返されて、私は恥ずかしながら小さく頷く。
だってほら、こっちに来てから襲われて気絶して、気がついたらもうここにいたし。殆ど部屋から出してもらえなかったし。
なんとなく宿屋さんなのかなあ、というところまでは推察したんだけど。
前掛けを渡されて、酔っぱらいなんて単語を聞くと、どうも宿の仕事をするわけじゃないみたい。
「あー、今日カツラちゃんに手伝ってもらいたいのは、一階の食堂なんだ」
「食堂?」
「ああ。ここは一階が大衆食堂で二階がちょっとした宿屋になってる」
ここに住み着いて二ヶ月弱。初めて知った『曙紅楼』の実体に目を丸くしつつ、あれっと声を上げた。
一階が食堂で二階が宿屋。
じゃあ、私が住んでいる三階は?
私の声に何が訊きたいのか悟ったらしいフタアイさんは、ちょっと困ったように首を振る。
「三階は俺にはわかんねえな。ま、ラサの部屋があるってのは知ってるが。俺みたいな従業員は立ち入れねえし」
「で、でも私は……」
「カツラちゃんはあの凶悪野郎の連れだろ。あいつもどっからかふらっと来ていつの間にか住みついてんな。そこらへんのところはよ、俺が首突っ込むとこじゃねえし。ここらで余計な好奇心を持つとほんとの意味で首が飛びかねんからな」
ふうっと大きな息を吐いてその話題を締めくくると、フタアイさんは気を取り直して私に仕事の指示をし始めた。
それを真面目に聞きながらも、私はさっきの彼の言葉が気になって仕方がない。ラサさんて、シャオランさんて何者なんだろう?
謎の宿の女主人に、謎の街のお掃除屋さん。
突然こちらに来て、衝撃的なことばかりだったのが落ち着いてきたせいなのかな。私はようやくこの世界や彼らについて、少しの疑問を持ち始めたのだった。