屋根の上の青年
夕飯を食べいつも通りの儀式を済ませ、シャオランさんを見送って。
一息ついた私は昨日は入れなかったお風呂で軽く汗を流し窓を開け、日中よりもずいぶんと涼しくなった夕べの風に濡れた髪をそよがせる。三階の窓から見下ろす街並みは、どこか懐かしい気分にしてくれるので、私はこうして眺めるのが好きだ。軟禁状態にある今、唯一の趣味といってもいい。
ラサさんが経営するこの『曙紅楼』は、眼下に真っ直ぐ伸びる通りのちょうど真ん中に位置しているらしい。夕闇が迫るとぼんぼりにぽつぽつと火が灯り始め、それに釣られるようにして人々がざわめき出す。どこかの屋台から香ってくる、美味しそうな匂い。夕暮れの光景は、異世界でも同じ。
なんか少しだけ……いやすっごく寂しい気持ち。
どこかにぽつんと置いていかれたような。
不意に泣きそうになって、私は慌てて両手で目をごしごしと擦る。最近何だかちょっとしたことで涙もろくなってる気がするなあ。不安定、というか。
ここに来て最初の頃はひどい目にあったこともあって、夜になると暴力の記憶に身体が震えて涙が止まらなかった。
するとシャオランさんは震える私よりもずっと辛そうな顔をして、固くなった身体を優しく抱え、彼の国の言葉で何かをずっと歌ってくれた。内容はわからないけど、ゆったりとした不思議な響きの歌。多分、子守歌のようなもの。
ひと月くらいはずっと、そうして。
仕事なんて全然行かないで、甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれた。
だからなのかな。あの人だって突然現れて私をさらったようなものなのに、まったく警戒心が湧いてこないのは。
無茶なことを色々聞かされている気がするのに、警戒するのは私の心の表面だけで、底のほうはとっくに深いところまで彼を許してしまっている。
それがいいことなのか悪いことなのか、私の頭はもう自分に問い直すことすら放棄してしまった。
離れていると、すごく寂しい。
ただ、それだけ。
そんなことをつらつらと考えながら、ぼんやりと行き交う人の波を眺めていた私の目におかしなものが映ったのはその時だった。
なんだろう、あれ。
大きな通りの両側にどっしりと建つ建物。その赤茶けた瓦の上を、ひょこひょこと何かうす茶色のものが移動していく。後ろに黒い尻尾が生えて……って、あれ、人!?
眼鏡は必要じゃないけれど特別いいわけじゃない両目を凝らし、私は移動していくそれを追ってみる。
左手のほうから近づいてくるそれは、三角の浅い笠を被った青年だった。
最初に見えたうす茶色のが笠で、そこからひょっこりと出ているのは彼の髪の毛。身軽なその動きに合わせて、どこかユーモラスにひらりひらりと動く髪は黒く、ざっくりと三つ編みにされている。
……ここでは屋根の上を歩くのも常識の範疇、なのかな。
思わずまじまじと屋根の上の青年を見つめていると、ちょうど真向かいの辺りまで来たところで、彼は私の視線に気がついたのかふっと顔をこちらに向けた。
ぴっと人差し指で顔を覆っていた笠を上げ、私を見上げる。
ぱちり、と目と目があって。
あ、思ったよりも、若い。
それが第一印象。
近いわけじゃないから正確じゃないけど、背は多分シャオランさんよりも高い感じ。すらっとじゃなくてひょろっと高くて。
その身を包んでいるのは何というかオリエンタルな、首の詰まった長袖の上着。それを簡単に腰の辺りで縛って、下にはシャオランさんがよく履いている裾のつぼまったズボン。違うのは臑の辺りを固い布のようなもので覆っていることくらいかな。あと、靴も珍しい編み上げのものだ。くるぶしまでの。
ひょろっとした大きな身体に反して、こちらを見上げている顔はまだ少年から抜け切れてないような、どこか人好きのする顔立ちだった。
黒い髪に黒い瞳は私と同じだけど、この人もどちらかというとシャオランさんたちのように、はっきりとした顔立ちをしている。
ぱっちりと開いた瞳に、すうっと通った鼻筋。大きめの口はしばらくぽかんと開いていて……それからにんまりと笑みの形に変わった。
同じようにきょとんとしていた瞳も、何か面白いものを見つけたぞ、という子供のような表情を浮かべてこちらを見つめている。
それから彼は長い両手をぶんぶんと私にむけて振り始めてしまった。
ええっと……どうしよう?
もしかしたら知り合いがどこかにいるのかも、と左右を見回してみるけれど、人影はない。あきらかに私に向けてのアクション。
――「知らない人と話をしてはいけない」
足の指を舐められながら言い聞かされた言葉が、よくわからない震えとともに甦ってくる。
……これって、知らない人と話すことになる、のかなあ。
散々迷った挙げ句、それでもこちらに一所懸命手を振っている彼に居たたまれなくなり、私はそうっと小さく手を振り替えしてみた。すると彼はものすごく嬉しそうに笑って、今度はぴょんぴょんと屋根の上で跳ねながら、また手を振ってきた。
その動作がなんだか可愛らしく思えて、私は思わず吹き出してしまう。と。
「あ、ん、た! 何ひとりでにやにや笑ってんのよ!」
「いっ、いたっ」
べしり、と頭のてっぺんを叩かれて、私は慌てて外から中へと視線を転じた。
そこには予想通り、ラサさんの姿。美しい顔が仁王様のようになって窓辺に座る私を見下ろしていた。う……怖い。
とりあえず誤魔化すように笑ってしまうのは、悲しい日本人の特性みたいなもので。私は急いで立ち上がり、ラサさんへと身体を向けた。
「あ、えっと、こんばんは!」
「あんた、簡単に背後を許しすぎ。あたしが刃でも持ってたら、今あんたは死んでたわよ。いつでもルワンロンが守ってくれるとは限らないんだからね!」
「は、はあ」
眉間に寄った皺を指でぐりぐりと伸ばしながら、ラサさんは私を睨み付ける。私はその言葉にただ頷くばかり。
だって、私の命を狙っても、どうしようもなくない?
私、ここではまったくの無一文だし。
そんな考えが顔に出たのか、今度はびしっと思い切りでこぴんをくらってしまった。……い、痛いですってば!
涙目になっておでこを押さえ、多少反抗的にラサさんを睨むと、彼女は額に手を当ててはあああっと大きなため息をついた。最近これは私専用のため息と化している気がする……。
「あのねえ、あんたがどこのお嬢様か知らないけど、ここではあんたのとことは違うの。ちょっとでも気を許したら、ケツの毛まで引っこ抜いてくような連中ばっかりなの。あんたみたいなのはねえ、飴にでも釣られて気がついたら身ぐるみ剥がされて強姦されて、挙げ句の果てには底辺の売春宿にぽいっよ。ぽいっ」
「え、えええっ」
「ええーじゃないっ。まったく、こんな子甘やかすだけ甘やかして、どうするつもりなのよ、あの男はっ」
めくるめく犯罪計画に冷や汗を掻く私を横目に、ラサさんは苦虫を噛み潰したような顔で親指の爪を噛む。ああ、せっかく綺麗に整えられた爪が、なんて思ってみていると再びでこぴんをくらってしまった。な、なんで!?
「見てんじゃないわよ、金取るって言ったでしょ」
「お、お金はちょっと手持ちが……」
「そうやって簡単に相手の言葉に乗らないっ! ……もういいわ。あんた、あたしが昨日“お願い”したこと、もちろん済んでるんでしょうね?」
「え、ええっと」
ラサさんの昨日の“お願い”。
すっかり忘れていた私の脳裏に、瞬間的に甦ってきた無理難題。
私が『曙紅楼』で働くことへの、シャオランさんの許可……なんだけど。
絵画のように美しい微笑みを浮かべてこちらを見つめているラサさんに、私は再びの曖昧な笑みを返す。ふ、ふへへへへ。
――忘れてた!!